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4巻
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しおりを挟む第一章 艶めく宴の果てに
――十一月下旬、大阪。
天高く馬肥ゆる秋。暦の上では冬になり、紅葉の葉は徐々に鮮やかな赤い色に染められて、情緒あふれる風景へと変わり始めていた。
今はまさに、行楽が楽しい季節。本格的に冬将軍が到来する前に、日本の秋を五感で楽しもうと計画している人が多いのだろう。
まだ朝の六時だというのに、大阪駅構内は、高速バスターミナルに停まっている観光バスに向かうグループや、お洒落な登山服を身に付けた女性たちなどで賑わっていた。出勤するサラリーマンや、夜勤明けで帰宅する人よりも、行楽を楽しもうとしている人の方が多いように見える。
水嶋グループ大阪支社秘書室に勤務する鈴木千佳は、その光景に口元を綻ばせた。一泊用の小さなキャリーバッグを引き、貴重品が入ったショルダーバッグを斜め掛けにしている千佳も、その人たちと同じように心が浮き立っていたからだ。
カフェ内の柱に貼られた鏡がガラス越しに目に入ると、千佳は一瞬足を止めて自分の姿を見つめた。胸元がV字にあいた白のプルオーバーセーターに、黒のダウンジャケット。黄土色のコーデュロイ生地のハーフパンツにトレンカ型のタイツ、そしてヒールのないウエスタンブーツが目に入る。千佳が普段好んで着る服とは全く違って、今どきの若者らしい格好だった。
ファストファッションのお店に入るなり、高校生の妹の実佳が「お姉ちゃんは若いんだから、もっといろいろな服に挑戦しなくっちゃ。いつもの服も大人っぽくていいんだけど、今回は……ね」と言って見立ててくれたのがこの服だった。
はじめはこんな色合いの服ではなく、原色に近い服を次から次へとカゴに入れられた。派手な色の服は着ない千佳が、すかさず元の場所に戻す。そのたびに、妹は肩を落とし、ため息をついた。
結局、お互いが妥協し合って今着ている服に落ち着いたのだが、千佳は家を出る前から着慣れた服に着替えたくてどうしようもなかった。不思議なことに、環状線の電車に乗ったころからあまり気にならなくなったが。
慣れって必要なのかもね――と苦笑いを浮かべ、再び歩き出そうとしたとき、ショルダーバッグに入っている携帯が突然鳴り出した。急いで携帯を取り出して、液晶画面を確認する。そこに表示されている名前を確認した瞬間、千佳は頬を染め、口元を綻ばせた。
「もしもし」
『俺だ』
「ええ、わかってる」
機械越しとはいえ、まるで耳元で囁かれているように感じ、千佳の躯は喜悦からブルッと震えた。誰も見ていないのに、恥ずかしさを隠すように俯いて甘いため息をつく。ここがどこなのかわかっているのに、甘美な電流がお尻から脳天へと突き抜け、千佳はその心地良い波に、もっと浸りたくなってしまった。
一ヶ月前からずっと会っていない、身も心も捧げている彼氏からの電話となれば、躯が疼くのも当然かもしれない。
東京で暮らす恋人の水嶋優貴とは、現在遠距離恋愛中。元々東京で働いていた千佳が大阪に出向し、優貴と遠距離恋愛をすることになった原因は千佳にあった。
大阪に住む両親が入院したことを知った千佳は、優貴に相談しようともせず、一人で悩み、勝手に大阪支社への転勤願を提出してしまった。その大阪支社には、千佳に好意を寄せている茂庭慎太郎がいると知っていたのに。
結果、千佳が初めて心を許し、全てを捧げるほど愛した優貴から別れを告げられた。それが、今年の初夏のことだった。
優貴は水嶋グループの御曹司の一人。将来は、どこかの令嬢を妻にする。いつの日か別れの日が訪れると思っていた。だから、その時期が思っていたよりも早くなっただけだと、千佳は自分に言い聞かせていた。
でも、彼の子供を子宮外妊娠で失い、悲しみから逃れるように茂庭と付き合ったことで、千佳は初めて心の奥に閉じ込めていた自分の気持ちに気付いた。
優貴のことを、心から愛していることを……
だからこそ、優貴にヨリを戻したいと言われても、千佳は頷けなかった。〝側にいられるだけで幸せ〟とは、もう思えなかったから。未来の妻のもとへ歩いていく優貴の後ろ姿を、笑顔で見送ることなんて絶対にできないと。それならば、今、離れた方がいいと思って、復縁を迫る優貴を、二度も拒んだ。
彼を愛する気持ちがある以上、どうあがいても逃れられないというのに……
『今日出発だっただろ? もう集合場所にいるのか?』
優貴の声に込められた今までにない優しさが、甘いさざ波となって千佳の心へと伝わってくる。
「……ううん。まだ大阪駅の構内よ」
再び付き合うようになり、今まで自分を縛っていた心の枷を取っ払ってからというもの、彼は傲慢な態度を取ることをやめ、真綿で包むように優しく接してくれるようになった。千佳は、優貴の態度が、これほどまでに変わるとは想像もしていなかった。
今の付き合い方は、以前とは全く違う。千佳との未来を考えている……と彼がはっきりと口に出してくれたから? だから、千佳に頻繁に連絡を入れてくれるようになったのだろうか?
優貴が示してくれる愛情に、千佳の口元がさらに綻んだ。
「集合時間まであと十五分ぐらいあるけど、もう行っておこうかなって思ってるわ」
『そうだな』
千佳が所属している秘書課は、今日から社員旅行だった。一泊二日で、群馬県の草津温泉へ行くことになっている。そのことを優貴に話したのは二週間も前なのに、出発する時間まで覚えていてくれたなんて信じられなかった。ほんの些細なことなのに、嬉しくて堪らない。
「……本当だったら、優貴と一緒に旅行へ行きたかった」
心に秘めておくことができず、思わず本音を漏らす。吐露した途端、恥ずかしさを覚えて、千佳は頬を染めながら視線を落とした。
そのとき、左手の薬指にあるリングが目に入った。将来を誓い合った証として贈られたエンゲージリングを見るだけで、彼への想いが熱い炎となって燃え上がる。
素直な気持ちを表に出すと、優貴は喜んでくれる。だから、何も恥ずかしがることはない。
自分の気持ちに軽く頷いたとき、彼の声が聞こえた。
『千佳……、俺も同じ気持ちだ』
もどかしい気持ちを感じさせるように、優貴の声は掠れていた。
「そう言ってくれるなんて、わたし……とっても嬉しい」
気持ちを告げるだけでは物足りない。優貴の男らしい大きな手を掴むように、千佳は携帯をギュッと握り締めた。真珠を抱えた天使のストラップが反動で揺れて、千佳の手の甲を軽く叩いてくる。〝いつまでイチャイチャしているの!〟と伝えるかのように。
千佳は忍び笑いを漏らして、構内から少し明るくなった外へ視線を向ける。そろそろバス乗り場へ行かなければならない。だが、その前に一つだけ優貴に訊きたいことがあった。
「ねえ。優貴の予定なんだけど、今日は名古屋だった?」
『いや、急遽東京で仕事をすることになった。何故だ?』
いきなり優貴のスケジュールを訊いたので、きっと不審に思ったのだろう。問い質すような優貴の声音に、千佳は背筋をピンッと伸ばした。
「ううん、聞いてみただけ。気にしないで」
訊いてしまったことを少し後悔していると、今度は優貴が千佳の機嫌を伺うように静かに口を開いた。
『宿の変更はないな? ……〝彩の庭〟でいいんだな?』
どうしてそんなことを訊くの? ――と不思議に思いながらも、千佳はゆっくり頷いた。
「ええ。新幹線で一度東京へ出るか、それともバスにして宿をグレードアップするか、秘書課内で多数決で決めたぐらいだもの。そう簡単に変更はしないと思うわ」
『わかった。……じゃ、社員旅行を楽しんでこい』
「うん、楽しんでくるわ。……あっ、待って! 明後日の二十三日だけど、大阪で会えるのよね?」
千佳が大阪へ戻ってくる二十二日は無理だけど、その翌日は会えると優貴は言ってくれた。そのことを、もう一度確認しておきたかった。
『ああ。……大阪へ行く』
その答えに、千佳はホッと胸を撫で下ろした。ショルダーバッグには、優貴が大阪で借りた賃貸マンションの合い鍵が入ってる。二十二日は自宅には戻らずに直接マンションへ行って、翌日に彼が来るのをそこで待つ予定だった。もちろん、そのことは優貴には内緒だ。
「じゃ、今日もお仕事頑張ってね」
まるで愛を囁くように優しく言うと、千佳は通話を切った。
「さあ、遅れないように集合場所へ行かないとね」
携帯をショルダーバッグに入れると、キャリーバッグを引っ張って、千佳は集合場所となっているバス乗り場へ歩き出した。
進んでいくうちに、大型バスが何台も停車しているのが見えてきた。秘書課に割り当てられたバスは四号車と五号車で、秘書室は五号車となっている。五号車の乗降口に立ち、手に紙を持って出欠の確認をしている女性は幹事の一人、入社四年目の門倉絵里奈だった。
千佳の姿を見るなり、門倉は元気良く手を上げて微笑む。胸まで届く茶色い巻き毛が、軽やかに揺れた。
「おはよう! 昨日の雨が嘘みたいにいい天気になりそうね。本当に旅行日和だわ」
「楽しく過ごせそうですね」
トランクルームに荷物を積んでいるバスの運転手にキャリーバッグを渡すと、千佳は門倉に向き直った。彼女は「早く源泉かけ流しの温泉に入りたいわ」と言いながら、うっとりした表情を浮かべている。その表情につられて、千佳も思わず温泉に浸かるところを想像してしまい朗笑を零した。
二人とも同じ気持ちですね――と門倉に笑みを向け、千佳はバスのステップに足をかけようとした。だが、一度上げた足をゆっくりと地面に戻すと、システム開発部技術課の社員たちに割り当てられている三号車のバスに目を向けた。
水嶋グループの社員旅行は、リストアップされた旅行先から部署ごとに行き先を選べるシステムになっており、秘書課は十数件もの候補地の中から草津温泉を選択した。システム開発部技術課も同じ場所を選んだため、二つの部署は同じ日程で社員旅行へ行くこととなったのだ。
つまり、ほんの数週間だけ付き合った茂庭慎太郎も一緒ということになる。
候補地は他にもたくさんあるのに、まさか同じ草津温泉になるとは思ってもみなかった。
これでは茂庭と、必ずどこかで顔を合わせることになる。宴会や、自由時間で……
茂庭とはきちんと別れているけれど、優貴との恋を応援してくれた彼には、優貴と復縁できたことを伝えておくのが筋というものかもしれない。それだけではなく、茂庭を左遷に追いやった優貴の行動も謝り、彼が本社へ戻れるように尽力すると伝えなければ……
「ちょっと鈴木さん! 早く入ってよ。出発が遅れるでしょ!」
ハッと我に返り後ろを振り返ると、ベリーショートで背の高いもう一人の幹事、佐々木唯子がいた。
「ご、ごめんなさい!」
門倉は温和で人当たりがいいけれど、門倉と同期の佐々木は気性が激しいので、あまり怒らせない方がいい。千佳はもう一度彼女に謝ってからバスに乗り込み、既に着席している先輩たちに朝の挨拶をしながら、指定された座席に向かった。
「おはようございます」
窓際の席に座る北川鮎美に挨拶をし、千佳はその隣に腰を下ろした。彼女とは同期で、水嶋グループの新入社員研修で何度か話したことがある。特に仲がいいというわけではないけれど、今回は同室なので一緒に過ごす時間が多くなるだろう。
「聞こえてたよ。鈴木さん、佐々木さんに怒鳴られてたね」
北川がクスクス笑うと、緩やかなパーマをかけた肩までの髪が軽やかに揺れた。大きな瞳をクルッと回転させる北川に、千佳は苦笑いを浮かべる。
「この二日間、佐々木さんの気分を害さないように努めます」
「わたしもそうする!」
力強く頷く北川に笑みを向けてから、千佳はショルダーバッグを膝に置いて深くため息をついた。
バスのドアの閉まる音が車内に響く。エンジンのかかる音が聞こえたと思ったらバスはスムーズに発車し、バスガイドからマイクを受け取った門倉が立ち上がった。
「おはようございます、幹事の門倉です。出発時間までまだ数分ありましたが、システム開発部技術課の皆さんも揃っていましたので、今から出発します! 到着するまで、想像しているよりも長いと思いますが、車内でも楽しく過ごせたらと思っています。では、今から朝食のサンドウィッチとジュースを配ります」
門倉はマイクをバスガイドに手渡すと、佐々木と共に朝食を配り始めた。
「おはようございます。本日は、近畿観光バスをご利用くださり誠にありがとうございます。運転手の松木、わたしバスガイドの上田が群馬県草津温泉までご一緒させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
バスガイドと運転手に向けて、拍手が起こった。
「今回は約七時間かかる長距離移動です。バスの振動で酔われて気分が悪くなられたり、急を要することも起こるかと思います。そんなときは、遠慮なくおっしゃってくださいね。さて、このバスは名神高速に入って一路群馬県へと向かいますが、今日は朝が早かったので、眠たい方もいらっしゃると思います。八時三十分まで、どうぞゆっくり過ごしてください」
バスガイドの上田が頭を下げると、もう一度拍手が起こった。その拍手がまばらになったころ、千佳と北川の手元に、大阪駅構内にあるカフェの手作りサンドウィッチとジュースが届いた。
「ここのクラブハウスサンドウィッチ大好きなの! ちょっと食べて、寝よっか」
「ええ、そうしましょう」
北川の意見に賛成すると、彼女に続いて千佳もウェットティッシュの包みを開けて手を拭う。
初っ端から佐々木に怒られることになってしまったが、千佳の気持ちはもう草津温泉に向いていた。バッグに入った手作り地図を思い出しながら、千佳は鶏の照り焼きが挟まれたサンドウィッチを一口頬張り、溢れ出る肉汁の旨みに感嘆の声を漏らした。
このとき、草津温泉で起きる出来事がきっかけとなって、これからの一年が大変なことになるなんて、千佳は想像すらしていなかった……
――群馬県草津温泉。
「う~ん!」
バスから降りると、凝り固まった躯をほぐすように、千佳は大きく伸びをした。立ち寄ったサービスエリアでも躯を動かすようにしていたけれど、やっぱり約五百キロメートルもの距離をバスで移動するのは少々こたえる。深夜の高速バスに乗り慣れているから大丈夫だと思っていたのに。千佳は自分の体力のなさを情けなく思い、長いため息をつきながら小さく頭を振った。そのとき、トランクルームから自分のキャリーバッグが出てきた。
運転手の松木にお礼を言ってそれを受け取ると、千佳は改めて周囲を見回した。
建物の間からもくもくと立ち上がり、天高く上昇していく湯気。深呼吸をするように、鼻でその空気をいっぱい吸い込むと、想像していたとおり硫黄の臭いが鼻腔を刺激した。温泉地らしいその臭いに、興奮を掻き立てられる。
冷たい風が頬をなぶっていく。まだ冬本番ではないというのに、千佳は両手で躯をかばいたい衝動に駆られた。だが、日陰から太陽の暖かな陽が射し込む場所へ移動すると、春の陽だまりのようにぽかぽかとしている。
湧き立つ興奮を抑えきれないまま、千佳は湯宿〝彩の庭〟へ視線を向けた。
今日泊まる予定の宿は、五階建ての近代和風旅館になっている。建物は柔らかな雰囲気が漂い、訪れる人々を優しく迎えてくれているように見えた。創業してから数年とまだ新しいが、贅を尽くした癒しの宿として人気があり、団体の予約は取りにくいと先輩秘書が話していた。岩造りの露天風呂は源泉掛け流し、他にも大浴場や二十三種類のお風呂、さらに全客室に天然温泉の露天風呂が付いているとなれば、人気が出るのも当然だろう。
素敵な宿で、優貴と二人っきりで過ごしたいな――と大胆な夢が浮かび、千佳は含み笑いを漏らした。
最近の千佳は、昔ほど節約主義者ではなくなっていた。節約できるところは節約し、興味を抱いたものは自ら進んで体験するようにしている。そうすることも、人生では大切なのだと気付いたからだ。
こんな風に考えられるようになったのは、千佳が抱えていた重荷を優貴が全て背負ってくれたからだった。
父の交通事故のことを知ると、優貴はまるで自分の家族のように鈴木家を心配して、交通事故対応に詳しい弁護士を手配してくれた。知らず知らずに蓄積されていたストレスと疲労感。精神的にも肉体的にも重なっていった疲れは次第に隠せなくなり、両親だけでなく千佳の表情にまで表れるようになっていた。
だが、事故の件を全て弁護士に任せると、家族の顔色も徐々に明るくなっていき、笑顔も戻った。肩から力が抜けて心に余裕が生まれると、優貴との未来のために自分磨きをしたいと強く思うようになった。
見るもの、聞くもの、体験できるものは、何でも興味を持って楽しもうと……
「鈴木さん、中に入ろう」
瞳をキラキラと輝かせながら〝彩の庭〟を見ていた千佳は、すぐに北川の方へ向いて軽く頷いた。
「ええ、入りましょう!」
北川に向かって走り出そうとしたとき、千佳の視界に茂庭の姿が目に入った。千佳が気付く前からこちらを見ていたのか、彼のその表情には愁色のようなものが浮かんでいる。だが、千佳と目が合うと、茂庭は笑顔で手を振ってきた。思わず手を振り返したものの、自分が原因で左遷となってしまったことがしこりとなり、微笑み返すことができない。
できるだけ早く謝らなければ――と思いながら、千佳は彼の視線から逃れるように北川へ走り寄った。
仲居の挨拶を受け、エントランスを通り抜ける。目の前に広がるメインロビーに圧倒されながら、フロントから少し離れたところに並べられたソファへと向かった。先輩や上司たちを押しのけてソファに座るわけにもいかないので、カウンターテーブルでホットドリンクをもらった。
「あっ、入ってきたわ!」
北川が、いきなり興奮したような声を上げた。誰を見てそんなに嬉しそうにしているのか興味を抱いた千佳は、彼女の視線を目で追った。
そこにいたのは、インテリ風の若い男性の集団。真っ直ぐに前を向き、堂々と歩くその姿から、彼らが自分に自信を持っているということが伝わってくる。
「……彼らが、システム開発部技術課の人たち」
千佳が呟くと、北川は彼らから視線を外し、嬉しそうに頷いた。そして、意味ありげに千佳の左手にあるリングを指す。
「鈴木さんは彼氏がいるから興味ないと思うけど、今日はカップルがいっぱい誕生すると思うわ。わざわざあちらと仕組んだんだから絶対よ」
「えっ? あちらと仕組んだってどういう意味なんですか?」
「もしかして、知らなかった?」
何の話をしているのかさっぱりわからず、千佳は問いかけるように小首を傾げる。すると、北川は内緒話をするようにさらに側へ近寄ってきた。
「実はね、秘書課って支社内では人気があるのよ。女子社員が私服着用を認められてる数少ない部署の一つだしね。で、こういう社員旅行はコンパにはもってこいの機会だから、システム開発部技術課から行き先を同じにしないかという申し込みがあって実現したというわけ」
コンパという言葉に、千佳は思わず口をポカンと開けた。
「東京本社ではそういうことはない?」
「なかったと思います……。わたしが知らなかっただけかもしれないけど」
ソファにふんぞり返っている上司たちのような妻帯者はともかくとして、その他の独身社員たちは皆、今回の社員旅行がどういう目的なのかわかっているのだろうか?
「わたしは、この機会を利用して絶対に彼氏を作るわ! だって、相手はシステム開発部の男性だもの。付き合った彼が、もし企業にとって利益に成り得るものを開発するグループにいたら……。ああ、どうしよう。凄いドキドキするわ!」
「そ、そう。……頑張ってください」
ありきたりな言葉しか返せなかったが、北川は特に気にしていないようで、千佳の言葉に嬉しそうに頷く。
「だからね……」
そこで声のトーンを下げると、北川は顔を寄せてきた。
「今夜、同室の門倉さんと佐々木さん、そしてわたしが部屋に戻ってこなくても、鈴木さんは何も心配しなくていいからね」
北川の言葉に妙な生々しさを覚え、千佳の頬は上気して熱くなった。秘書室の先輩も北川と同じ気持ちなのかと思うと、視線を向けられなくなってしまう。目のやり場に困った千佳は、幹事の二人がそれぞれのテーブルを回って、宿泊カードに書き込んでもらっては鍵を渡すという作業を眺めるほかなかった。
それから三十分後。上司たちが次々と部屋へ向かっていき、社員でいっぱいだったロビーも静かになったころ、門倉と佐々木はやっと千佳と北川のもとにやってきた。
「お疲れさまです」
朗らかな笑みを向ける北川に、門倉と佐々木は大げさにため息をつく。
「まだちょっとしか仕事をしていないのに……、もう嫌になってきたわ」
唇を尖らせたかと思うと門倉は諦めたように肩を竦め、宿泊カードと万年筆を千佳たちの前に置いた。佐々木が部屋のカードキーをその横に置く。千佳たちは、急いで自分の名を書き込んだ。
「さあ、わたしたちの部屋に行きましょう」
本館の二階には宴会場を兼ねた大広間がいくつもある。別館は客室になっていて、三階と四階はスタンダードとデラックス、五階はデラックススイートとスペシャルスイートとなっているようだった。当然上司たちは五階を割り当てられ、秘書室や技術課の社員は三階と四階に振り分けられたが、幹事たちは毎年課長クラスの部屋を割り当てられることが決まっていた。忙しく立ち回るその労をねぎらうためらしい。
エレベーターを五階で降りる。そこには一階のメインロビーとはまた違った異空間が広がっており、千佳は思わず息を呑んだ。広い廊下の両側には小石が敷き詰められており、間接照明が温かな雰囲気を醸し出している。部屋へ入るには、小石の上に架けられた小さな太鼓橋を渡るようになっていた。
千佳は、ふと名古屋の割烹料亭を思い出した。何も知らずに資料を届けに行った先で優貴に会い、さらには別室へ連れていかれて奔放に愛し合ったあの日のことを。そのときの雰囲気とあまりにも似ていたので、当時の記憶が鮮明に蘇り、千佳の心臓はドキドキし始めた。
思わず視線を周囲に走らせる。どこかの部屋から、いきなり優貴が飛び出してくるのではないかと思ってしまったからだ。
そんなこと、あるわけないのに――と自分を笑って肩を竦めると、千佳は三人に遅れないように早足であとに続いた。
角を曲がったところで、秘書課の上司たちとすれ違った。振り返りながら「もう温泉に入るのね」と羨ましそうに呟く北川。そんな彼女の横顔をにこやかに見ていると、門倉と佐々木が小さな太鼓橋を渡った。〝蓮の間〟と表札がかかっている。
門倉が脇にある機械にカードキーを通し、カラカラと音を立てて引き戸を開けた。広い玄関の向こうにドアが一つ見える。靴を脱ぐと、そのドアを開けて室内に入った。
「うわぁ~!」
目の前に広がる部屋に、それぞれが感嘆のため息を漏らした。二十畳ほどの空間には、独立した和室スペース、二つのセミダブルベッド、そして応接セットが設えてある洋室スペースがあった。和室にある大きなガラス戸の向こうには、部屋付きの露天風呂が見える。既にお湯が湯船を満たしていて、すぐにでも入れそうだ。暗くなれば、宝石のように輝く草津温泉の街を眼下に見ることができるだろう。
「それじゃ、ここからは別行動ね」
当然のように、ベッドのサイドボードに私物を置く先輩たち。北川が千佳に視線を向けて、目をぐるりと回転させる。そんな彼女に苦笑いを返したが、千佳は普段から布団で寝ているので特別不満はなかった。和室の隅に自分のキャリーバッグを置く。
「ねえ、鈴木さんはこれからどうする?」
千佳にならって、北川も隣にキャリーバッグを置いた。
「今夜の宴会は十九時でしたよね。それまで、温泉街を回ることにします。北川さんはどうしますか?」
「もちろん、温泉に入って……肌をスベスベにするわ。鎖骨を見せて色っぽく、さらに頬を上気させて好きな男性を射止めるの!」
そこまでして射止めたい男性が誰なのか知りたくなったが、千佳は詮索するような真似はせずに「頑張ってくださいね」と告げた。
荷物を片付けているうちに、いつの間にか幹事の二人は部屋からいなくなっており、北川も宿専用の浴衣と綿の入った暖かそうな半纏を持って「じゃあね」と言って出ていった。千佳もショルダーバッグを手に取り、斜めに掛ける。
「さあ、わたしはわたしで楽しもうかな」
時刻は既に十五時前。早く行動を起こさないと、時間がなくなってしまう。急いでカードキーをバッグに入れると、千佳は部屋をあとにした。
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