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4巻
4-2
しおりを挟む宿から大通りへ出ると、千佳は町内を巡回しているワンコインバスの乗り場に向かった。幸せそうな親子連れ、楽しそうにしている友達同士、寄りそって歩くカップル。多くの人たちが千佳の視界に入っては通り過ぎていく。
そんな微笑ましい光景を見ていると、急に物悲しい気持ちが湧き起こってきた。千佳のように、一人っきりで行動している人など、どこにもいない。皆、誰かと楽しそうにしている。
「わたしの隣にも優貴がいてくれたら……」
最後に優貴と会ってから、まだ一ヶ月ほどしか経っていないのに、彼に会いたくて堪らない。東京で暮らしていたときは、一ヶ月に一度でもデートができたらいい方だったのに。
我慢しなさい、明後日には優貴と会えるんだから! ――と叱咤するように自分に言い聞かせる。何か楽しいことを考えようと思い、旅行後、優貴と再会してからのことを考えた。
彼のために何をするのか考えただけで千佳の口元は自然と綻び、頬はチークをのせたようにどんどんピンク色に染まっていく。人には言えないことを想像しながら歩いていると、すぐにバス停に着いた。数日前に下調べしておいた草津温泉についてのメモを取り出し、行きたい場所を確認する。
しばらく待っていると、まるで大正時代を舞台にしたドラマや映画に出てきそうなレトロなバスがやってきた。全体的に濃い紺色をしているが、天井や窓枠は黄色く塗られていて、思わずワクワクしてしまいそうなぐらい可愛いバスだった。
ドアが開くと、千佳はまず運転手に声をかけた。
「すみません、鶴太郎美術館入り口に停まってもらえますか?」
宿のエントランスに置かれていたバスの時刻表には、片岡鶴太郎美術館には停まらずに通過することもあると書いてあったので、確認しておいた方が無難だと思ったのだ。
「わかりました」
「ありがとうございます!」
空いた席に座ると、千佳は窓の外を流れる温泉街の景色に目を向けた。ホテルや老舗旅館が目に入ったかと思えば、お土産屋や飲食店が軒を連ね、その前を人々が楽しそうに行き交っている。バスに乗ってから十数分、見るもの全てに興味を抱いていると、鶴太郎美術館入り口でバスが停まった。
「ありがとうございました」
礼を言って、バスから降りる。
「え~と……」
草津温泉街の地図を取り出して、どの方向に〝西の河原公園〟があるのか確認した。しゃくなげ通りの先に、バス停の名前になってる草津片岡鶴太郎美術館があり、さらにその奥へ行けば目的地の西の河原公園に行けるようだ。千佳は、足取りも軽やかに歩き始めた。
数分後、目の前に〝西の河原公園〟の入り口が見えた。公園へ通じる石畳は豊かな自然に囲まれ、その傍らにある温泉が流れている湯川からは、モクモクと湯気が上がっている。
「ここに温泉の源泉があるのね」
観光している人たちの間を縫うように、千佳はさらに進んだ。至るところに温泉が湧き出ていて、ごつごつした岩に囲まれた湯だまりは〝瑠璃の池〟や〝琥珀の池〟と名を付けられている。
そして、公園内でもっとも目立つ源泉〝鬼の茶釜〟が目に飛び込んでくると、千佳は感嘆のため息を漏らした。摂氏五十度以上の源泉が湧き出しているので、湯面から湯気が立ちのぼっている。名称が入った立て札がフレームに入るように、千佳は携帯のカメラで写真を撮った。
メールを立ち上げ、一言「温泉が生まれる瞬間よ」と打ち込むと、写真を添付して優貴に送信した。
忙しくしていると思うけれど、これでちょっと肩から力を抜いてくれたら……
優貴のことを想いながら携帯をバッグに入れると、千佳はすぐ側にある草津穴守稲荷神社へ向かった。ここには白砂が入ったお守りがあるらしい。とても珍しいので千佳も買おうと思っていた。
たくさんの鳥居が並ぶ階段を上りきると、お社へ行きお賽銭を入れた。家内安全、病気平癒、そして優貴の厄除けをお願いすると、その隣にある建物で目当てのお守りを購入する。
ふと空を見上げると、陽はだいぶ西に傾いていた。東の方角から闇が迫り、冷たい風が吹いてくる。時間を見ると、十六時十五分を過ぎていた。
「やっぱり、間に合わなかったか……」
肩を落とすものの、千佳は次の場所へ向かうために再び長い階段を下り始めた。本当は、湯もみショーや時間湯が体感できる〝熱の湯〟にも行きたかったけれど、明るいうちに〝西の河原公園〟へ行きたかったので、後回しにしたのだ。なんとか最終受付の十六時三十分までに行けたらと思っていたが、残念ながら諦めなければならないようだ。
「仕方ないわよね。……あっ、待って。もしかして明日一番のショーなら見学できるかも。出発は十時三十分だから、間に合うかもしれない」
朝風呂もいいけれど、温泉は今夜たっぷり堪能すればいい。せっかく群馬県まで来たのだから、有名な草津の湯もみは見て帰るべきだろう。
明日の予定を、頭の中で組み立てる。上手くいきそうだと思った千佳は、口元に笑みを浮かべながらさらに公園の奥へと歩き出した。
明治時代に草津を欧米に広く紹介したベルツ博士とその同僚のスクリバ博士像を通り過ぎ、さらにあずまやも過ぎる。すると、最終目的地の〝湯の滝〟が目の前に現れた。豪快に滑り落ちる湯は圧巻だった。
携帯を取り出して、再び写真を撮る。
「何回お風呂が入れるかしら……」
千佳の独り言は隣にいた老紳士にも聞こえたようだ。彼は肩を揺らして、笑い声を上げた。
「ワシもそう思ったよ。これほどの湯があれば、躯が泥まみれになっても、服が真っ黒になっても、母親は怒らなかっただろうな……とな」
独り言を聞かれた恥ずかしさから頬が熱くなるのを感じながら、千佳はその老紳士に微笑みかけた。
「今でも、お湯の量を気にせずゆっくりとお風呂に浸かりたいものです」
「じゃ、今夜はゆっくり温泉に浸かって、日頃の疲れを癒しなさい」
「はい。では……」
携帯を開き、〝滝の湯〟の写真を優貴に送る。「昔も今も変わらない。同じなのね……」とコメントを打ち込みつつも、隣にいる老紳士が何故か妙に気になった。顔見知りでもなければ、親戚でもないはず。どこかでお会いしませんでしたか……なんて言葉をかけられるはずもなく、千佳は何も言わずに来た道を戻り始めた。
〝西の河原公園〟をあとにすると、千佳はしゃくなげ通りから西の河原通りへと入った。草津のメインストリートといわれるこの通りを、そのまま三百メートルほど進めば、あの有名な湯畑に辿り着く。
宴会が始まる十九時までには、まだたっぷりと時間があったので、立ち並ぶ商店をゆっくりと見ながら湯畑へ向かおうと決めた。
そのとき、千佳の目に〝草津ガラス蔵〟という看板が飛び込んだ。すかさず店に入り、光に照らされて輝くガラス細工のアクセサリーを眺める。
「とっても綺麗……」
色鮮やかな黄色と緑色で作られたトンボ玉のピアスを自分用に、赤色のトンボ玉と同色系の組み紐の携帯ストラップを妹のために購入することにした。レジでお金を払って包んでもらうと、千佳は再び外へ出て、散策を始めた。
木の温もりを感じさせるお店の前をそぞろ歩きしていると、今度は小腹が空いてきて食べ物ばかりが目に入ってくる。串に刺した鮎や海老が炭火で焼かれていて、とても食欲をそそる匂いがした。その隣の甘味処からは、甘い匂いが漂ってくる。
少し立ち寄ってみようかな――と思っていると、風に乗って醤油の香ばしい匂いが千佳の鼻腔を擽った。一瞬でそちらに目を奪われた千佳は、匂いに誘われるように歩き出した。串にさされているその姿は、明らかに焼き鳥。だが、それは違っていた。鶏の串焼きに見えたものは、秘伝のタレで味付けされたぬれおかきと書いてある。七味やゴマ、マヨネーズなどをトッピングされたものもあり、見ているだけで唾が出てくるほど美味しそうだった。
「ゴマ味を一つください」
千佳は、思わず一つ購入してしまう。
「ありがとうございます」
店員から受け取ると、千佳は歩きながらそれを一口かじった。
あまりの美味しさに足が止まり、千佳の口元に笑みが浮かぶ。さらにもう一口かじって柔らかいぬれおかきに舌鼓を打つと、千佳は再び歩き出した。前方には、あの有名な湯畑が見えていた。心を弾ませながら、どんどん歩を進める。
時刻は既に十七時を回っている。陽も落ちて暗くなった街に、ライトアップされた湯畑が美しく浮かび上がっていた。
「うわぁ~、なんて幻想的なの!」
流れ落ちる湯に、ライトが反射してキラキラ輝いている。ゴミ箱に串を捨てて、バッグに入れていたウェットティッシュで指を拭うと、千佳は当然のように携帯で写真を撮った。
優貴には「とてもロマンティックよ。一人なのがとても残念だわ」とコメントを添え、実佳には「とっても綺麗でしょ」と添える。そして、今でも仲良くしている東京本社秘書室の桜田菜乃には「何でも話せるようになってから……一緒に社員旅行へ行きたかった」と打ち込んで、メールを送信した。
携帯をバッグに入れると、千佳は湯畑の周囲を歩き始めた。観光客も湯畑に見入ったり、お土産物屋に入ったりと思い思いに過ごしている。
千佳も心が浮き立ってきたとき、無料で楽しめる足湯処が目に飛び込んできた。観光客のカップルがちょうど席を立ったので、千佳はその場所にお邪魔することにした。ブーツを脱いでトレンカを膝下まで捲り上げると、湯気が立ち上る温泉に足を浸した。冷え切った躯を芯から温めてくれるその心地良さに、口から思わす至福の吐息が漏れる。
そのとき、左隣に誰かが座った。特に気に留めずに足をゆっくり動かしていると、いきなり「千佳?」と名前を呼ばれた。
「えっ?」
千佳のことを名前で呼ぶ人は数えるほどしかいない。驚いてすぐに隣へ視線を向けると、そこにいたのは、ほんの数時間前に宿で視線を交わした茂庭だった。
「茂庭さん! どうしてここに?」
彼は苦笑いを浮かべ、千佳と同じように湯の中で足を揺らす。ジーンズを膝下まで上げているせいで、黒い脛毛が千佳の目に飛び込んできた。普段なら目にすることもない男性の脛を見て、彼ともう少しで親密な関係になりそうだったあの日のことが頭を過った。
ベッドに押さえつけられ、乳房に触れられて舌で舐められたときの感触を。
もう終わったことなんだから、思い出したりしないの! ――と必死になって自分に言い聞かせる。だが、一度思い出したそれはなかなか消えなかった。
「実は、千佳が一人で宿から出ていくのを見て、追いかけたんだ。でも、なかなか声がかけられなくて……」
「えっ、わたしを? ……どうして?」
口をポカンと開けて、茂庭の目を見つめる。
「いろいろと、話したかったんだ。あのあと、どうなったのか……きちんと聞きたかった」
茂庭は、千佳の左手薬指にあるリングを指す。
「これって、つまり上手くいったってことだよな? 彼にプロポーズされた?」
千佳は素直に頷いた。
「これからはケンカをしてしまっても、二人で乗り越えようって。結婚はまだ先なんだけど」
「そっか……。じゃ、俺はもう駄目ってことなんだな」
「えっ、何?」
声のトーンを下げてボソッと呟いた茂庭の声は、千佳の耳に届かなかった。訊き返すものの、茂庭は苦笑いを浮かべ、ただ頭を振るばかり。
「あ~あ。今夜、いいことないかな」
その言葉に、千佳はそっと茂庭の袖に手をかけた。
「ねえ、茂庭さん。あなたは知っていた? 今回の社員旅行は、秘書課とシステム開発部が……その……」
何と言えばいいのかわからず、千佳はもごもごと言葉を濁す。それを助けるように、茂庭がはっきりと言った。
「コンパになってるってこと? ああ、知ってるよ。秘書課の女性は高嶺の花だし、俺たちシステム開発部も……いい部類に入ってると思う。自分で言うのもあれだけどさ……。まあ、お互いの課が示し合わせた結果がこれなんだから、別にいいんじゃないかな」
朗らかに笑う茂庭につられるように、千佳も口元を緩めた。
「わたし、実は知らなかったの。ここに着いてから聞かされてびっくりしたわ」
チラッと茂庭を見る。ここに座ったときと比べて、かなり肩から力が抜けているようだ。足湯のせいで躯が温まったのか、額にうっすら汗が光っている。手を後ろについているその姿は、だいぶリラックスしているように見えた。彼に謝るのなら今が一番いいだろうと思い、千佳は茂庭の方へ躯を向けた。
「ねえ、茂庭さん」
「うん?」
「わたし、茂庭さんに謝らなければいけないことがあるの。……優貴のことで」
不思議そうに千佳を見ていた茂庭は、優貴の名前に眉を訝しげに上に動かした。
「何?」
「茂庭さんを東京本社から大阪支社へ左遷させたのは、……優貴なの。ごめんなさい!」
頭を下げた千佳は、茂庭がびっくりしたように目を大きく見開いたことに気付かず、そのまま言葉を続ける。
「東京にいるころ、わたしが茂庭さんと食事に行ったのを知って、彼は嫉妬して……。権力を乱用するなんて、本当に信じられなかった。彼を罵ったわ。酷い人だとなじりもした。でも、わたしがいくらそう言っても、優貴の心を変えることはできなかったの」
面を上げ、縋るように茂庭に身を寄せる。
「優貴とは以前よりも深い絆で結ばれるようになったけど、それとこれとは別問題よ。わたし、茂庭さんが元の場所へ……、東京へ戻れるように優貴を説得するわ。何がなんでもそうすると誓う。……ごめんね、本当にごめんね、茂庭さん!」
謝っても許されるものではないとわかっていたが、千佳はそうせずにいられなかった。再び頭を下げる千佳の肩に、茂庭がそっと手を置く。
「千佳……、顔を上げて」
「でも、」
「いいから。さあ!」
強く押されて、千佳は顔を上げた。
「あいつを助けるのかと思うと、ちょっと複雑な気持ちだけど……千佳の心を軽くしてあげるよ」
表情を歪め、辛そうに千佳を見る茂庭。彼の目を見るだけで、胸が痛くなる。もう一度謝りそうになったとき、茂庭が口を開いた。
「千佳は、あいつが俺を左遷させたと思っているみたいだけど、それは間違いだ。そもそも俺は異動ではなく、千佳と同じ出向なんだよ」
「えっ?」
茂庭の言っている意味がわからず、千佳は眉根を寄せながら彼の真意を測ろうとした。
「俺の所属している技術課に出向の辞令が出たんだ。俺は、大阪での仕事も経験してみたくて手を挙げた。入社一年にも満たない俺が選ばれる可能性は低かったのに、その意気込みを買われて俺が出向することになったんだ。三年という期間が終われば、俺は東京へ戻るんだよ」
「それって、つまり……」
茂庭が静かに頷く。
「あいつに左遷されたんじゃない。俺が自ら進んで大阪へ来たんだ」
躯から一気に力が抜ける。千佳は膝の上の掌に視線を落とした。
優貴は、権力を乱用していなかった。茂庭を左遷なんかしていなかった! そんなこととは露知らず、いったいどれほど優貴を罵ったことだろう。彼がそんなことをする人ではないってわかっていたはずなのに、優貴が立場を利用してそういうことをしたと千佳は決めつけていた。
視界がどんどん霞み、手の輪郭がぼやけていく。ふいに掌に焦点が合ったとき、千佳は自分が大粒の涙を零していたことに気付いた。
「千佳!」
千佳の肩を抱きしめ、茂庭はそのまま軽く撫でる。
「すまない。すぐに言っておけば、こんなに取り乱すこともなかったのに……」
茂庭の見当違いな言葉にも何も言えず、千佳は頬を伝う涙を拭いながらただ頭を振った。優貴を疑ってしまった自分が情けなくて涙が出たとは、告げることができなかった。
「ううん、大丈夫。……茂庭さんは左遷されたんじゃないって知ってホッとしたわ」
今この瞬間、千佳は優貴に会いたくて堪らなかった。会って……彼を傷つけたことを謝って、そして何もかも忘れて本能の赴くまま彼と愛し合いたい!
あと二晩も寝れば優貴に会えるとわかっているにもかかわらず、駄々を捏ねる子供のような感情が湧き上がり、千佳は思わず呻き声を漏らした。
そんな千佳の肩を、茂庭はまだ抱き続けている。そのことにやっと気付いた千佳が、どうやって彼から身を離そうかと悩んでいると、助け舟のようにバッグに入っている携帯が鳴った。その音に驚いたのか、茂庭の手が震える。千佳はさりげなく彼から身を離し、バッグから携帯を取り出した。
携帯の液晶画面に出ている名前を見て、千佳は泣きそうになった。今一番会いたい人、抱きしめたい人、側にいてほしい人の名前がそこに表示されている。
『もうすぐ会えるから、そのときに聞かせてくれ。千佳の心に残った風景を、俺も同じように感じたい』
たったそれだけしか書かれていなかったが、優貴も同じ気持ちでいてくれていると知って、千佳の心が高鳴る。携帯をバッグに入れようとしたその瞬間、再びメールの着信音が鳴った。今度は、二通も入っている。
『実佳もお姉ちゃんと一緒に旅行へ行きたいよ! でも、お土産で我慢しておくね。いっぱいお風呂に入ってきてね』
妹からのメールを読み終えて切り替えると、もう一通は桜田からだった。
『とっても素敵ね! いいな~、わたしは資料を抱えて走り回ってるのに(残業中なの)。今夜、飲みすぎないようにね。ほどほどのところで抜け出すのよ。上司にずっと付き合うことはないんだからね』
口元を緩めながら、携帯をバッグにしまう。
「友達?」
「ええ。本社の秘書室で親しくしてくれていた人と、妹から」
あえて優貴の名は出さなかった。茂庭は優貴を〝あいつ〟呼ばわりしている。つまり、今もそれほどいい感情を持っていないということだから、ここで出す必要はないと思った。
「そろそろ宿に帰るわ。浴衣に着替えたりしないとダメだし。茂庭さんはどうする?」
バッグからハンドタオルを取り出し、千佳は足湯から上がった。ピンク色に染まった足を軽く拭い、トレンカを下げて戻す。
「俺も一緒に戻るよ」
茂庭も足湯から出たが、タオルを持っていないようで、濡れたまま靴下を履こうとする。
「これ、濡れてしまったけど使う?」
今使ったハンドタオルを、おずおずと差し出す。千佳のその行動に、茂庭は目を大きく見開き、そして顔を真っ赤にした。
「えっ、いや……、その……ありがとう」
千佳からタオルを受け取ると、茂庭はまだ顔を赤らめたままで足を拭き始めた。どうしてそこまで赤面するのかわからなかったが、そんな彼を見ていたら、千佳も何故か恥ずかしくなってきた。
ブーツに足を滑り込ませ、バッグを斜め掛けにすると、千佳は立ち上がった。さりげなく茂庭に背を向け、火照った頬にそっと手で触れて熱を冷まそうと努力する。
「ありがとう、千佳。これ、洗って返すから」
「いいのよ!」
すぐに振り返り、片手を茂庭の前に出す。でも、茂庭はただ頭を振って、濡れたタオルをポケットに入れてしまった。その行動に唖然としながら、千佳は彼を見上げる。
これだけは譲らない――と告げるように、茂庭は千佳の目を真っ直ぐに見つめていた。何を言っても無駄だと感じ、千佳は仕方なく手を下げて肩を竦める。
「別にいいのに……」
ボソッと呟きながら足湯処から出ると、二人は肩を並べて宿へと向かった。
湯宿〝彩の庭〟は高台にあるので、湯畑からは上り坂になる。宿に戻る道中、茂庭といろいろな話をしたが、どれもとりとめのない話だった。
宿に着いたとき、千佳は心から安堵の息をついた。お互い気を使い合ったような会話を、なんとか終わらせることができたからだ。
「じゃ、また宴会場でね」
茂庭は千佳に異を唱えることなく、ただ頷く。そんな彼に軽く手を振ると、千佳はエレベーターホールに向かって歩き出した。
「鈴木さん、そろそろ行こっか」
「はい」
浴衣の袷に指で触れてから、千佳は北川と同じように湯宿の半纏を羽織った。カードキーと携帯、お財布、そして口紅とハンカチが入った小さなポーチを手に取ると、これから宴会が行われる大広間へ向かった。
茂庭と別れたあと、千佳は一度部屋へ戻り、その後一階にある源泉掛け流しの露天風呂を満喫した。肌がスベスベになった上に、躯の内から温められたせいで血色も良くなり、チークをしなくても頬はピンク色に染まっていた。千佳だけでなく、大広間へ向かう女性社員たちも内から輝いて見える。男性社員の視線を集めているその光景を見ると、自分は無関係なのに妙にウキウキしてきた。
「そういえば、北川さんは……お目当ての男性社員と接触できたんですか?」
本館の二階にある大広間に足を踏み入れてから、千佳は訊ねた。
「ううん、それがね……館内を探したんだけど、彼はどこにもいなかったの。部屋番号もしっかりチェックしたのにね。でも大丈夫よ。彼のところへお酌しに行くから」
大広間には既に人が集まっていて、始まるのを今か今かと待っているようだった。仲居が、開始に間に合うようお酒を運び続けている。半纏を脱ぎながら周囲を見回すと、茂庭の姿が目に入った。楽しそうに同僚と話していたのに、千佳の視線を察知したのか、流れるようにこちらに目を向けた。まるで、千佳がそこにいると知っていたと告げるように、優しく笑みを零す。その表情にドキッとしつつも、千佳は笑みを張りつけて軽く頷き、秘書室の末席に座った。
「今、彼がわたしを見て微笑んでくれたわ!」
「えっ?」
北川が嬉しそうに千佳に擦り寄り、腕を強く叩いてくる。
「わたしが目をつけてる彼よ。技術部の茂庭さん」
茂庭の名前が出て、千佳はドキッとした。
「も、茂庭さん!?」
「ええ、そうよ。もしかして、彼を知ってる?」
「……ええ、知ってます」
そう答えたものの、何かいけないことを隠しているように心臓がドキドキとしてきた。
「本当に? やった! わたしってなんてラッキーなの! ねえ、お願い。彼に紹介して」
両手を合わせて、必死に頼み込む北川。親しいとまではいかないものの、普通に接してくれる彼女に向かってノーと言えるはずもない。
「ええ……」
そう言うしかなかった。
こういうとき、「たった数週間だけど、茂庭さんと付き合ったことがあるの」と言うべきなのだろうか? それとも言わない方がいい?
既に終わった関係だから、わざわざ言う必要もないわよね――と自己完結させると、千佳は自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。
「えー。……皆様、もうお揃いでしょうか?」
スピーカーから流れる、幹事の門倉の声。大広間に響き渡ると同時に、ざわざわとした雰囲気も落ち着いてくる。これに乗じて千佳は北川から視線を逸らし、門倉と佐々木、さらにシステム開発部側の幹事の二人が立っている正面へと視線を向けた。
それぞれが自己紹介を終えると、次は秘書課代表者とシステム開発部代表者の挨拶があり、それから無礼講の宴会が始まった。
忘年会や新年会とは違うので社員の出し物は一切行われないが、宿側から草津温泉の見所、食事のあとに見てほしい場所、さらに宿の施設の紹介が始まった。その間、忙しく動き回る仲居たち。彼女たちが上司たちにお酌をしてくれるので、千佳はそのまま座って食事をいただくことにした。
旬の素材を活かした料理長自慢の和食膳に舌鼓を打ちながら、口当たりのいい日本酒を飲む。時間が経つにつれて、千佳は酔っていった。いつも身に纏っている見えない鎧が一つ、また一つと滑り落ちていく。会社ではいつも気を張り詰め、真剣な顔ばかりしているのに、このときばかりは聖女のように優しげな笑みを口元に浮かべていた。知らず知らずに匂い立つような艶っぽい仕草をしてしまい、茂庭だけでなくシステム開発部の人までもが千佳を興味津々に見つめてくる。
当然周囲の視線には気付かず、千佳は隣に座る北川へ目を向けた。日本酒を飲みすぎたのか、北川の目はトロンとしていて、流し目がとても艶っぽい。
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