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貞光さんと磯貝くんの場合。
貞光さんと松永さん。
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琴原祭、当日。一日目。
実行委員としての仕事を片付けて、貞光は時刻を確認する。
仕事が終わったあとは、磯貝と模擬店を回る予定だ。しかし、磯貝も明日の体育祭に向けた簡単な予行練習があり、彼が戻ってくるまで三十分ほどあった。
つまり、暇だ。校舎の中をあてもなく歩きながら、この空き時間を如何にして潰そうか、とあちこちに設置された立て看板をみる。
いつの間にか、展示会の区画に足を踏み入れていて、貞光は導かれるように美術サークルの部屋へと入っていった。
デッサン、油彩画、水彩画、立体──自由に好きなものを製作しているのだと分かるほど、作品のバリエーションは幅広い。そのなかで、見覚えのある筆致を見つけ、貞光は足を止める。
タイトルは、「胸裏」。荒々しく赤の絵の具を撒き散らした裏で、群青の楕円が繊細で細やかに描き込まれている。これは、抽象絵画と呼ばれるものなのだろう。
自分には、絶対に描けない。
「──その絵、最近描いたなかでは一番上手くいったのよね」
ふと、隣に立った女がぽつりと呟く。
声の主がすでにわかっていた彼は、視線を動かすこともなく応じる。
「松永先生の専門は、具象絵画じゃなかったか?」
「あいにく、私と松永先生は別の人間よ。それに、私はあんたみたいに、綺麗な景色で感動できないの。どれだけ風景を描いたって、あんたの劣化版にしかならないわ」
そう言われてみると、たしかに彼女は抽象絵画の方が筆が生き生きしているように見えた。
「あんたは? 最近何か描いてないの?」
「……中三から長いスランプ状態だ」
紛れもなく、今隣に立つ女がスランプの原因。口を固く結んだ貞光の様子に、女は僅かな躊躇いを見せたあと、深呼吸した。
「……今から話すことは、弁解でも何でもない。ただの、大きな独り言だと思って?」
貞光は、視線を絵画から動かさなかった。
松永志絵里の父は、学生時代から画家として活動することを夢見ていたそうだ。しかし、現実は甘くない。輝くような才能も、製作活動に身を投じていられるだけの財力もなく、夢を諦めて美術教師となった。
そのためか、彼は自身の娘に夢を託したのだ。
娘に、豊富な画材を与えた。休日は美術館へと連れていき、高度な芸術に触れさせた。娘の描くものには、たとえ落書きであってもアドバイスした。
「──つまり、私は絵を描くことを強要されていたの。本当は、あんまり好きじゃなかったんだけど」
だが、良い絵を描かないと、父に見てもらえない。褒めてもらえない。
故に、松永は描き続けた。本当にやりたかったことも、欲しかったものも、全部我慢した。今では、何をしたかったのかも思い出せないが。
「だからこそ、私はあんたが羨ましかった」
望めば、何でも手に入る環境。
生き方を強要しない、優しい家族。
その上、父の関心までも奪ってしまったものだから、抑圧され続けた彼女は貞光に敵意を向けるようになってしまった。
そして、起こしたのが中学三年のあの騒動。貞光は部活を辞めてしまったが、父の関心が娘へと戻ることはなく。でも、松永には描くことしかなかったため、熱意はなくとも細々と描き続けた。
描いているうちに、何もかもがどうでもよくなった。高校が離れていたせいか、貞光のことを思い出すことも減っていった。
「でも、大学に入ってすぐ、あんたがいることを知った」
知って、あの頃の悔しさがぶり返した。
他者から聞く貞光絢也は、あの頃よりも立派になっていて。それに比べて自分は、あの頃から全く成長していない。その現実を、どうしても受け入れられなくて。
自分の心を守るために、松永は再び貞光へと敵意を向けたのだ。
「──赦してもらえるなんて、思ってないわ。もちろん、同情もいらない。……でも、ね。やっと、頭が冷えたの。あんたに八つ当たりしたところで、現実はなにも変わらない。そのことに、やっと気が付けた」
「……」
「ごめんなさい」
松永は、深く頭を下げた。それが、赦しが欲しくて行っているポーズでないことは、すぐにわかった。
貞光は、視線を絵画から動かさない。動かさないまま、口を開いた。
「俺は、お前にされたことも、言われたことも、覚えている。たぶん、これから先も忘れることはない。……だから、赦すこともできない」
「そう……よね」
はじめから分かっていたというように、彼女は自嘲気味に笑った。
「だが、あの頃がなければ、俺はここにいない」
松永の息が止まる。
その様子に、貞光は目を向けないまま薄く微笑む。
「そうなれば、俺はあいつに出会わないまま、平淡な人生を過ごしていただろうな」
あの日、貞光は傷付いたと同時に、自身の欠点を知った。あの日があったからこそ、今があるのだ。
「……あと、この絵は好きだ。こっちの方が、向いてるよ」
「じゃあな、」と、貞光は最後まで松永の表情を見ずに、その場を立ち去った。
彼女が、自身の弱さを誰にも見られたくない人間だということは、よく分かっていた。
実行委員としての仕事を片付けて、貞光は時刻を確認する。
仕事が終わったあとは、磯貝と模擬店を回る予定だ。しかし、磯貝も明日の体育祭に向けた簡単な予行練習があり、彼が戻ってくるまで三十分ほどあった。
つまり、暇だ。校舎の中をあてもなく歩きながら、この空き時間を如何にして潰そうか、とあちこちに設置された立て看板をみる。
いつの間にか、展示会の区画に足を踏み入れていて、貞光は導かれるように美術サークルの部屋へと入っていった。
デッサン、油彩画、水彩画、立体──自由に好きなものを製作しているのだと分かるほど、作品のバリエーションは幅広い。そのなかで、見覚えのある筆致を見つけ、貞光は足を止める。
タイトルは、「胸裏」。荒々しく赤の絵の具を撒き散らした裏で、群青の楕円が繊細で細やかに描き込まれている。これは、抽象絵画と呼ばれるものなのだろう。
自分には、絶対に描けない。
「──その絵、最近描いたなかでは一番上手くいったのよね」
ふと、隣に立った女がぽつりと呟く。
声の主がすでにわかっていた彼は、視線を動かすこともなく応じる。
「松永先生の専門は、具象絵画じゃなかったか?」
「あいにく、私と松永先生は別の人間よ。それに、私はあんたみたいに、綺麗な景色で感動できないの。どれだけ風景を描いたって、あんたの劣化版にしかならないわ」
そう言われてみると、たしかに彼女は抽象絵画の方が筆が生き生きしているように見えた。
「あんたは? 最近何か描いてないの?」
「……中三から長いスランプ状態だ」
紛れもなく、今隣に立つ女がスランプの原因。口を固く結んだ貞光の様子に、女は僅かな躊躇いを見せたあと、深呼吸した。
「……今から話すことは、弁解でも何でもない。ただの、大きな独り言だと思って?」
貞光は、視線を絵画から動かさなかった。
松永志絵里の父は、学生時代から画家として活動することを夢見ていたそうだ。しかし、現実は甘くない。輝くような才能も、製作活動に身を投じていられるだけの財力もなく、夢を諦めて美術教師となった。
そのためか、彼は自身の娘に夢を託したのだ。
娘に、豊富な画材を与えた。休日は美術館へと連れていき、高度な芸術に触れさせた。娘の描くものには、たとえ落書きであってもアドバイスした。
「──つまり、私は絵を描くことを強要されていたの。本当は、あんまり好きじゃなかったんだけど」
だが、良い絵を描かないと、父に見てもらえない。褒めてもらえない。
故に、松永は描き続けた。本当にやりたかったことも、欲しかったものも、全部我慢した。今では、何をしたかったのかも思い出せないが。
「だからこそ、私はあんたが羨ましかった」
望めば、何でも手に入る環境。
生き方を強要しない、優しい家族。
その上、父の関心までも奪ってしまったものだから、抑圧され続けた彼女は貞光に敵意を向けるようになってしまった。
そして、起こしたのが中学三年のあの騒動。貞光は部活を辞めてしまったが、父の関心が娘へと戻ることはなく。でも、松永には描くことしかなかったため、熱意はなくとも細々と描き続けた。
描いているうちに、何もかもがどうでもよくなった。高校が離れていたせいか、貞光のことを思い出すことも減っていった。
「でも、大学に入ってすぐ、あんたがいることを知った」
知って、あの頃の悔しさがぶり返した。
他者から聞く貞光絢也は、あの頃よりも立派になっていて。それに比べて自分は、あの頃から全く成長していない。その現実を、どうしても受け入れられなくて。
自分の心を守るために、松永は再び貞光へと敵意を向けたのだ。
「──赦してもらえるなんて、思ってないわ。もちろん、同情もいらない。……でも、ね。やっと、頭が冷えたの。あんたに八つ当たりしたところで、現実はなにも変わらない。そのことに、やっと気が付けた」
「……」
「ごめんなさい」
松永は、深く頭を下げた。それが、赦しが欲しくて行っているポーズでないことは、すぐにわかった。
貞光は、視線を絵画から動かさない。動かさないまま、口を開いた。
「俺は、お前にされたことも、言われたことも、覚えている。たぶん、これから先も忘れることはない。……だから、赦すこともできない」
「そう……よね」
はじめから分かっていたというように、彼女は自嘲気味に笑った。
「だが、あの頃がなければ、俺はここにいない」
松永の息が止まる。
その様子に、貞光は目を向けないまま薄く微笑む。
「そうなれば、俺はあいつに出会わないまま、平淡な人生を過ごしていただろうな」
あの日、貞光は傷付いたと同時に、自身の欠点を知った。あの日があったからこそ、今があるのだ。
「……あと、この絵は好きだ。こっちの方が、向いてるよ」
「じゃあな、」と、貞光は最後まで松永の表情を見ずに、その場を立ち去った。
彼女が、自身の弱さを誰にも見られたくない人間だということは、よく分かっていた。
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