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# 最初の地蔵
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銭もなくただ己の足と気力だけでひたすら歩き続けたことは覚えている。川の水や泉で喉をうるおし飢えれば虫や木の実を食べ、時には畑から盗んだ。
三度目か四度目の朝あたりからあまり記憶がない。気づいたらこの場に崩れて座り込んでいた。
ハエが目の前を飛び回っても追い払う気力もない。同じように座り込み濁った目で宙を仰ぐ人々を見、このまま俺は死ぬのかな、とアバルは思う。
何者にもなることのできないまま時間を消費し埋没し、誰にも知られないまま潰えていくことが怖かった。喉を絞られ刻々と呼吸を失っていくような焦燥だった。何かをしなくては。
外敵の接近を敏感に嗅ぎ取って注意深く行動するウサギが何を思ったか自ら火にとびこんで死んだ話を聞いたことがあるが、今のアバルにはそのウサギの気持ちがわかるような気がする。
危険から身を守る武器も知恵もなくただあの場所から飛び出した自分。無茶だ、自殺行為だと道々に気持ちは強くなっていったが、不思議と戻ろうという気持ちだけは起こらなかった。行けば何かが変わる、未来がひらけるという根拠のない希望がアバルの足を動かしていた。
その結末が餓死か。
アバルは口端で自嘲する。ぐう、とそのとき腹が鳴った。最後に何かを口に入れたのはいつだったか。いまさらとは思うが、ともかくもアバルの体は空腹を思い出した。アバルは腕に力を入れる。
まだだ。
執念だけで這っていく。アバルの死ぬのを待っていたハエが舌打ちのようにアバルの耳元で羽音を立てた。小糠雨に濡れる肌が急にかゆくなって、アバルは気ぜわしく掻く。
邪魔だと蹴られても罵られても、一度動き出したアバルの体はするすると進んでこのまま天までのぼっていけるのではないかと思うほどだった。死の直前、何かのしらせのように人間には時に奇跡的な爆発的な力が起こることがあるそうだ。あとから思えばアバルはその状態にあったのかもしれなかった。
そうしてアバルが終着したのは深い、しっとりと濡れた草木の中である。山の中というよりは管理の手を失った貴人の庭といった趣のそこで、地蔵はアバルを見下ろしていた。
全身のほとんどをコケに覆われた一体の古い地蔵。錫杖と法衣がのぞいていなかったら岩の塊だと思ったかもしれない。あきらかに周囲に調和していない、無造作に放られた態のそれは、どこぞから盗まれ扱いに困った末に捨てられたのだろう。
町端からどのような道順をたどってこんなところに流れ着いたのか、今更振り返る気はアバルにはない。ただ、自分の死をみとるだろう地蔵にあたたかな親近感を抱いた。
だからなのか、確実に自分は死ぬのだとわかるのに、手足を動かすように何の感慨も恐怖も起こらない。アバルはこれまで人並みに死を恐れて生きてきたが、実際に死んでいく者たちは生者が思うよりも心持ちがおだやかであるのかもしれない。
「へへ、悪くねえ、なあ」
この世にどれほど路傍で岩陰であるいは建物の陰で、顔も名も知られず、孵化して音もなく死んでいく虫のように肉塊と化していく人間のあることだろうと思う。アバルもここに来るまではそんなふうに死んでいくのだと思っていた。
だけど今、どういうめぐりあわせによる幸運なのか、このように最期を看取ってくれる地蔵がある。
案外、悪い人生でもなかったのかもしれない。アバルは自身の幸福に笑んで目を閉じた。
銭もなくただ己の足と気力だけでひたすら歩き続けたことは覚えている。川の水や泉で喉をうるおし飢えれば虫や木の実を食べ、時には畑から盗んだ。
三度目か四度目の朝あたりからあまり記憶がない。気づいたらこの場に崩れて座り込んでいた。
ハエが目の前を飛び回っても追い払う気力もない。同じように座り込み濁った目で宙を仰ぐ人々を見、このまま俺は死ぬのかな、とアバルは思う。
何者にもなることのできないまま時間を消費し埋没し、誰にも知られないまま潰えていくことが怖かった。喉を絞られ刻々と呼吸を失っていくような焦燥だった。何かをしなくては。
外敵の接近を敏感に嗅ぎ取って注意深く行動するウサギが何を思ったか自ら火にとびこんで死んだ話を聞いたことがあるが、今のアバルにはそのウサギの気持ちがわかるような気がする。
危険から身を守る武器も知恵もなくただあの場所から飛び出した自分。無茶だ、自殺行為だと道々に気持ちは強くなっていったが、不思議と戻ろうという気持ちだけは起こらなかった。行けば何かが変わる、未来がひらけるという根拠のない希望がアバルの足を動かしていた。
その結末が餓死か。
アバルは口端で自嘲する。ぐう、とそのとき腹が鳴った。最後に何かを口に入れたのはいつだったか。いまさらとは思うが、ともかくもアバルの体は空腹を思い出した。アバルは腕に力を入れる。
まだだ。
執念だけで這っていく。アバルの死ぬのを待っていたハエが舌打ちのようにアバルの耳元で羽音を立てた。小糠雨に濡れる肌が急にかゆくなって、アバルは気ぜわしく掻く。
邪魔だと蹴られても罵られても、一度動き出したアバルの体はするすると進んでこのまま天までのぼっていけるのではないかと思うほどだった。死の直前、何かのしらせのように人間には時に奇跡的な爆発的な力が起こることがあるそうだ。あとから思えばアバルはその状態にあったのかもしれなかった。
そうしてアバルが終着したのは深い、しっとりと濡れた草木の中である。山の中というよりは管理の手を失った貴人の庭といった趣のそこで、地蔵はアバルを見下ろしていた。
全身のほとんどをコケに覆われた一体の古い地蔵。錫杖と法衣がのぞいていなかったら岩の塊だと思ったかもしれない。あきらかに周囲に調和していない、無造作に放られた態のそれは、どこぞから盗まれ扱いに困った末に捨てられたのだろう。
町端からどのような道順をたどってこんなところに流れ着いたのか、今更振り返る気はアバルにはない。ただ、自分の死をみとるだろう地蔵にあたたかな親近感を抱いた。
だからなのか、確実に自分は死ぬのだとわかるのに、手足を動かすように何の感慨も恐怖も起こらない。アバルはこれまで人並みに死を恐れて生きてきたが、実際に死んでいく者たちは生者が思うよりも心持ちがおだやかであるのかもしれない。
「へへ、悪くねえ、なあ」
この世にどれほど路傍で岩陰であるいは建物の陰で、顔も名も知られず、孵化して音もなく死んでいく虫のように肉塊と化していく人間のあることだろうと思う。アバルもここに来るまではそんなふうに死んでいくのだと思っていた。
だけど今、どういうめぐりあわせによる幸運なのか、このように最期を看取ってくれる地蔵がある。
案外、悪い人生でもなかったのかもしれない。アバルは自身の幸福に笑んで目を閉じた。
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