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第一章:春
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秀悟は小さい頃から花が好きだった。
食品輸入会社の社長をしている父は、記念日に限らず母に花束を買ってきて、母はそれをリビングテーブルの花瓶に飾った。花束をもらった母の嬉しそうな笑顔が、秀悟は大好きだった。家に常に花があることが、秀悟にとっては当たり前だった。
両親が離婚したのは秀悟が高校生のときで、秀悟の目には仲睦まじく見えていた二人だったが、夫婦仲はとっくに冷めていた。仕事ばかりの父親に愛想をつかした母親は、家から出ていってしまった。秀悟は父に引き取られることになり、男二人の生活に、いつしか花を飾る習慣はなくなった。母がいなくなり、家から花がなくなり、秀悟は寂しいと思ったが、それ以上に父の息子として、αとして、社会的に成功しなければならないというプレッシャーのほうが大きかった。高校・大学と必死に勉学に励み、父の会社とも取引がある大手スーパーマーケットに入社した。
社会人として、慌ただしく過ぎていく日々の中、生け花と出会いは偶然だった。お見合い会場の老舗ホテルのロビーに、その生け花作品は飾ってあった。
茶色の陶製の器に、色鮮やかな花々が咲き誇っていた。秀悟に花の名前はわからなかったが、赤、黄、白、ピンクなどの花がそれぞれ主張しながらも、まとまりつつ、開放感もある。その絶妙なバランスに、秀悟は不思議と感動が湧き起こった。なぜこんなにもこの作品に惹かれるのかはわからなかった。その作品の作者は、吉野原蓉。秀悟が吉野原家を知ったのはその時が初めてだった。それ以来、秀悟は生け花の素晴らしさに目覚め、吉野原流の四季展や展示会には、極力行くようになった。
昼までのシフトで仕事を終えた秀悟は、四季展の会場である美術館にいた。美術館内の特別展示室には、生花作品や花器が並ぶ。四季展の期間は一週間で、中一日休みを挟んで前期後期に分けられており、今日は前期の初日だった。
平日の昼間だが、初日なこともあり、賑わっていた。客の年齢層は高く、和服やフォーマルスタイルがほとんどだ。いつもはカジュアルな服装の秀悟だが、四季展に来るときはスーツやジャケットスタイルを心がけていた。服装の制限はないが、客の中で浮いてしまうのが嫌だったからだ。
展示室には一定の間隔をあけて、作品が並ぶ。展示台には作者名が記載された小さなプレートがついていた。華道家の作品や生け花教室の生徒の作品を見ながら、秀悟は展示室内をゆっくりと移動した。華やかな作品を目で楽しみ、ふんわりと花の香りが鼻をかすめ、秀悟は心地よく鑑賞していた。
部屋の奥に、一際目立つように飾られている芯と蓉の作品があり、人が集まっていた。秀悟も人の流れに従い、二人の作品を鑑賞する。
まずは芯の作品だ。花器から溢れるように八重咲の山吹が咲いていた。山吹は蕾のものから満開のものまで、動きがあるように生けられている。添えられるように、桜の花と枝が顔を覗かせ、春らしい、目に鮮やかな花に仕上がっていた。秀悟は作品を評価するような語彙を持ち合わせていないが、芯の作品は力強く、圧倒される雰囲気をまとっていることはわかる。今回の生け花も、いつもと同じように圧倒され、息を飲んだ。
芯の作品が素晴らしいのはわかるが、秀悟が好きなのはどちらかと言うと蓉の作品だ。芯とは正反対で、繊細さや儚さ、柔らかさのイメージを秀悟は抱いていた。
蓉の作品の前に移動した秀悟は、静かに深呼吸をしてから、作品に対峙した。
目に飛び込んできたのは、白の胡蝶蘭を主軸とした、上から下へとみずみずしいな流れを感じさせる作品だった。黄梅も同様に流線的にしなやかに咲いている。これはいいかもしれない、と直感的に感じた秀悟だったが、じっと見ているうちに、首をひねってしまう。
「今回のはハズレね」
隣の婦人同士の会話が耳に飛び込む。その通りだと秀悟は思った。流れるような形が美しいが、微妙にバランスが取れておらず、流れが乱れているように見える。
何度か蓉の作品を見ている秀悟だが、婦人が言うように、感覚的に当たり・ハズレがあった。言うなれば、ホテルで魅了された作品は当たり、今日の作品はハズレだ。
「後を継ぐのは難しいのかしら」
「いい作品もあるんだけどねぇ」
「テレビに出すぎなんじゃない」
「βっていうのも関係あるの?」
「見た目も派手だし、遊んでそうだし」
婦人たちは小声でひとしきり話したのち、蓉の作品の前から移動した。秀悟はもう一度花を鑑賞した後、移動した。
蓉はまだ大学生なのだし、素晴らしい作品を作っているのだから、少しくらい遊んだっていいのではないか。秀悟は婦人たちの会話を思い出しながら、無意味だとわかっていながら心の中で反論した。
芯と蓉は他にも二、三点作品を出展していた。今回の蓉の作品はどれも素晴らしかったが、好みではなかったと秀悟は残念に思った。ロボットではないのだし、ムラはあるものだろう。それにせっかくの作品を酷評する権利がないことは、秀悟はわかっていた。反対に、芯は安定した作品作りで、さすがだと感心した秀悟だった。
展示作品を全て見終わり、最後にもう一度芯と蓉の作品を堪能し、秀悟は展示室を後にしようとした。が、ふと鼻腔をかすめる匂いに足を止めた。
食品輸入会社の社長をしている父は、記念日に限らず母に花束を買ってきて、母はそれをリビングテーブルの花瓶に飾った。花束をもらった母の嬉しそうな笑顔が、秀悟は大好きだった。家に常に花があることが、秀悟にとっては当たり前だった。
両親が離婚したのは秀悟が高校生のときで、秀悟の目には仲睦まじく見えていた二人だったが、夫婦仲はとっくに冷めていた。仕事ばかりの父親に愛想をつかした母親は、家から出ていってしまった。秀悟は父に引き取られることになり、男二人の生活に、いつしか花を飾る習慣はなくなった。母がいなくなり、家から花がなくなり、秀悟は寂しいと思ったが、それ以上に父の息子として、αとして、社会的に成功しなければならないというプレッシャーのほうが大きかった。高校・大学と必死に勉学に励み、父の会社とも取引がある大手スーパーマーケットに入社した。
社会人として、慌ただしく過ぎていく日々の中、生け花と出会いは偶然だった。お見合い会場の老舗ホテルのロビーに、その生け花作品は飾ってあった。
茶色の陶製の器に、色鮮やかな花々が咲き誇っていた。秀悟に花の名前はわからなかったが、赤、黄、白、ピンクなどの花がそれぞれ主張しながらも、まとまりつつ、開放感もある。その絶妙なバランスに、秀悟は不思議と感動が湧き起こった。なぜこんなにもこの作品に惹かれるのかはわからなかった。その作品の作者は、吉野原蓉。秀悟が吉野原家を知ったのはその時が初めてだった。それ以来、秀悟は生け花の素晴らしさに目覚め、吉野原流の四季展や展示会には、極力行くようになった。
昼までのシフトで仕事を終えた秀悟は、四季展の会場である美術館にいた。美術館内の特別展示室には、生花作品や花器が並ぶ。四季展の期間は一週間で、中一日休みを挟んで前期後期に分けられており、今日は前期の初日だった。
平日の昼間だが、初日なこともあり、賑わっていた。客の年齢層は高く、和服やフォーマルスタイルがほとんどだ。いつもはカジュアルな服装の秀悟だが、四季展に来るときはスーツやジャケットスタイルを心がけていた。服装の制限はないが、客の中で浮いてしまうのが嫌だったからだ。
展示室には一定の間隔をあけて、作品が並ぶ。展示台には作者名が記載された小さなプレートがついていた。華道家の作品や生け花教室の生徒の作品を見ながら、秀悟は展示室内をゆっくりと移動した。華やかな作品を目で楽しみ、ふんわりと花の香りが鼻をかすめ、秀悟は心地よく鑑賞していた。
部屋の奥に、一際目立つように飾られている芯と蓉の作品があり、人が集まっていた。秀悟も人の流れに従い、二人の作品を鑑賞する。
まずは芯の作品だ。花器から溢れるように八重咲の山吹が咲いていた。山吹は蕾のものから満開のものまで、動きがあるように生けられている。添えられるように、桜の花と枝が顔を覗かせ、春らしい、目に鮮やかな花に仕上がっていた。秀悟は作品を評価するような語彙を持ち合わせていないが、芯の作品は力強く、圧倒される雰囲気をまとっていることはわかる。今回の生け花も、いつもと同じように圧倒され、息を飲んだ。
芯の作品が素晴らしいのはわかるが、秀悟が好きなのはどちらかと言うと蓉の作品だ。芯とは正反対で、繊細さや儚さ、柔らかさのイメージを秀悟は抱いていた。
蓉の作品の前に移動した秀悟は、静かに深呼吸をしてから、作品に対峙した。
目に飛び込んできたのは、白の胡蝶蘭を主軸とした、上から下へとみずみずしいな流れを感じさせる作品だった。黄梅も同様に流線的にしなやかに咲いている。これはいいかもしれない、と直感的に感じた秀悟だったが、じっと見ているうちに、首をひねってしまう。
「今回のはハズレね」
隣の婦人同士の会話が耳に飛び込む。その通りだと秀悟は思った。流れるような形が美しいが、微妙にバランスが取れておらず、流れが乱れているように見える。
何度か蓉の作品を見ている秀悟だが、婦人が言うように、感覚的に当たり・ハズレがあった。言うなれば、ホテルで魅了された作品は当たり、今日の作品はハズレだ。
「後を継ぐのは難しいのかしら」
「いい作品もあるんだけどねぇ」
「テレビに出すぎなんじゃない」
「βっていうのも関係あるの?」
「見た目も派手だし、遊んでそうだし」
婦人たちは小声でひとしきり話したのち、蓉の作品の前から移動した。秀悟はもう一度花を鑑賞した後、移動した。
蓉はまだ大学生なのだし、素晴らしい作品を作っているのだから、少しくらい遊んだっていいのではないか。秀悟は婦人たちの会話を思い出しながら、無意味だとわかっていながら心の中で反論した。
芯と蓉は他にも二、三点作品を出展していた。今回の蓉の作品はどれも素晴らしかったが、好みではなかったと秀悟は残念に思った。ロボットではないのだし、ムラはあるものだろう。それにせっかくの作品を酷評する権利がないことは、秀悟はわかっていた。反対に、芯は安定した作品作りで、さすがだと感心した秀悟だった。
展示作品を全て見終わり、最後にもう一度芯と蓉の作品を堪能し、秀悟は展示室を後にしようとした。が、ふと鼻腔をかすめる匂いに足を止めた。
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