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第一章:春
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しおりを挟む時間は五月に遡る。
秀悟はいつも通り仕事に励んでいた。五月前半は大型連休やこどもの日、母の日があるため、売場は慌ただしい。イベントに合わせて、店頭のディスプレイを変え、仕入れを調整する。例年に倣いつつ、流行を取り入れることで、売上に繋げていかなければならない。
宮古生花店の協力があり、スーパーの生花コーナーは以前より充実し始めた。客からの評判も上々だ。今は母の日に合わせて、カーネーションの切り花や花束が多く取り揃えられている。
秀悟は花を見るたび、椿のことを思い出していた。謝罪すらできなかったこと、椿の瞳が恐怖に揺れていたこと、逃げられてしまったこと、それらが脳裏から離れず、最近はため息ばかりつく秀悟だった。
店内の混雑が落ち着いた十四時過ぎ、レジ業務の応援を終えた秀悟は、遅い昼食を取ろうとバックヤードへ戻ろうとしていた。
「すいません」
後ろから声をかけられ、秀悟が振り向くと、そこにはスーツ姿の静夏が立っていた。
「何かお探しでしょうか?」
秀悟が尋ねても、静夏はにこにこと笑顔を見せるだけだ。買い物客ではなさそうだと、秀悟は脳内の記憶をフル回転で探る。取引先、常連客、同じマンションの住人、本社の従業員など、そのどれにも当てはまらない静夏の顔に、秀悟はギブアップした。
「すいません、どこかでお会いしたことがありますか?」
秀悟の質問に、静夏は「美術館で」とだけ答えた。
「え、あ……」
記憶の線が一本に繋がり、秀悟は目を見開いた。一気に記憶が溢れ、あの日見た静夏の顔を思い出す。秀悟の反応に静夏は頷いた。
「思い出してくれました?」
「はい。でも、なんでここが…」
「今日はお願いがあって来たんです」
静夏は秀悟の言葉を遮る。秀悟は自分には質問する権利がないことを理解したと同時に、お願いという単語に首を傾げる。話を続けたい気持ちがあった秀悟だが、行き交う客の視線が気になる。さらに、客の往来の邪魔にもなっていた。
「外でもいいですか?」
秀悟の問いに、静夏は了承し、二人は店外に移動することとなった。
秀悟はちょうど近くを通りかかったパートの高木に「ちょっと外行きます」と伝える。高木は秀悟と静夏の顔を見比べた後、何が言いた気にしながらも「わかりました」とだけ答えた。
店の外、建物の正面入り口側には駐車場と駐輪場がある。裏には従業員用の裏口と、搬入用の大きなドアが設置されていた。人気の少ない搬入用ドアの横に到着すると、秀悟は静夏と向かい合う。
梅雨入り間近の湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。秀悟は空模様を気にしながら、まず静夏に謝罪した。
「この間は申し訳ありませんでした」
言葉の後、秀悟は頭を下げる。目の前の静夏に謝るのが正しいのかはわからないが、店まで来たということは、それなりの何があるはずだ。先程言っていた『お願い』に戦々恐々としつつ、秀悟は視線の先のアスファルトの地面を見つめた。
「七村さん、頭をあげてください」
静夏に名前を呼ばれたことに驚きながら、秀悟は顔を上げた。なぜ名前を知っているのかと秀悟が問う前に、静夏は言葉を続けた。
「あなたのこと、少し調べさせてもらいました。だから名前も知っていて、ここに来ることができました」
調べるという単語に、ドラマや映画で見る探偵の存在が秀悟の頭をよぎる。
「こちらも謝ることがあります。謝ってくれたのに、彼は逃げてしまったようで……」
「あの、ちょっと待ってください」
話を進める静夏に、秀悟は混乱のあまり口を挟んだ。
「状況が全然掴めてなくて……。えっと、すいません、まず、あなたは誰なんですか?あなたと彼はどういう関係ですか?」
秀悟は頭の中を整理しつつ、問いかけた。
「そうでしたね、勝手に話を進めてしまってすいません。私は木元静夏、吉野原のマネージメントを担当しています」
静夏はスーツから名刺入れを取り出し、秀悟に名刺を渡した。静夏の肩書きは『秘書』となっており、名刺の隅には『生け花 吉野原』と書かれていた。
静夏と吉野原家が繋がり、四季展に静夏がいたことに秀悟は合点がいく。
「七村さんと会った彼は、英椿です」
「はなぶさ、つばき」
秀悟は名前を確認するように、小さく声に出した。「英語の英に、花の椿です」と静夏に説明され、秀悟は頭の中で漢字を思い浮かべた。
「椿くんは私の従弟で、吉野原の生け花教室の生徒なんです」
静夏は説明は全くの出鱈目だが、それを秀悟が知る由がない。椿について対外的に説明するときは、いつもこの説明だった。
静夏の説明で、関係性は理解した秀悟だが、疑問は尽きない。なぜ発情期を迎えた椿があそこにいたのか、椿が言った『俺の花に触るな』という言葉はどういう意味か、あの作品が蓉の作品として展示されていたのはなぜか。口から飛びだしそうな疑問を飲みこみ、秀悟は静夏の話の続きを待つ。
「それで、先ほど言ったお願いなんですが」
「はい、僕にできることなら……」
秀悟は覚悟を決めた。未遂とは言え、椿を襲ってしまったことは、自分に非があると反省していたからだ。例えば、椿が土下座して謝れと言うなら、やってやるという気概だ。
「椿くんと、友達になってくれませんか?」
「……はい?」
「はい」
「友達?」
「そうです」
友達という聞きなれた単語の意味が、一瞬理解できなかった秀悟は首を傾げた。
しかし、遅れて思考が追いついた時には、『友達になる』という可愛らしいお願いに、全身の力が抜けた。静夏はふざけているようには見えず、先ほどと変わらずにこにことほほ笑んでいる。本気なのか、冗談なのか、秀悟には判断できなかったため、秀悟は静夏に確認する。
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