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16.新しい指輪
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しおりを挟む俺は鏡の前で襟を正し、トイレを出た。そして、目を疑った。
二つのパイの前で、俯く女。
千尋――――。
俺はわざと彼女の背後に回り込むように、静かに近づいた。
「三時間経ってないじゃない……」
そう言った彼女の声が震えている。
よく見ると、走って来たのか肩を上下させて呼吸を整えているよう。
「なんなのよ、もうっ――!」
キレ気味にパイに手を伸ばした千尋は、それを自分の口に運び、俺はその手を掴んで、自分の口に入れた。
噛むと、サクッと気持ちのいい音がした。
「マジでサクサクしてんな」
噛んだ拍子に、生地がポロポロと千尋の肩に散り、俺はパイを味わいながらそっと払った。
「これ食えないとか、一生お前を恨むとこだった」
首を回して俺を見上げる千尋は、真っ赤な顔で、大きく見開いた瞳に大粒の涙を浮かべている。眉をひそめ、唇を震わせ、まつ毛が小刻みに揺れる。
「久し振り」
俺は、抱き締めたい衝動を抑え、笑って見せた。
「なに、飲む?」
彼女の正面、元いた席に座ると、千尋がズズッと鼻をすすり、おしぼりで涙を拭った。
それから、汗をかききった俺の水のグラスを掴むと、一気に飲み干した。
「何しに来たのよ」
憮然とした表情に、一瞬前の弱々しい彼女が嘘のようだ。
「指輪、まだしてんじゃない」
「ああ、これ」と、俺は右の親指と人差し指で、左手の薬指を撫でた。
それから、左手を広げて彼女の前に差し出す。
「奥さん、まだ離婚に――」
千尋が俺の左手を見つめ、言葉を飲んだ。
「――違う……指輪?」
「ああ」
今の俺の左手の薬指を占拠している指輪は、美幸との結婚指輪とは違う物。
細身で捻りのあった前のものとは全く違う、あれよりも幅のあるスクエアタイプ。
俺はジャケットのポケットからお決まりの、真っ白なベルベットの箱を出すと、蓋を開け、千尋に向けて置いた。
千尋はさっきよりもさらに大きく目を見開き、指輪を見つめる。
「指輪をしている俺を、愛しているんだろう?」
「なに、言って――」
「――離婚は成立した。一千万も渡した。まぁ、自宅の権利と交換したから、結局戻って来たけど」
あの後、祖母ちゃんに一千万を返すと口座番号を聞こうとしたら、『結婚祝いにあげるから、早く新しいお嫁さんを連れておいで』と言われた。
迷ったが、俺はその金で住宅ローンを返済した。
「――ってわけで、結婚しよう」
もっと、緊張するかと思った。
いや、緊張はしてる。しているけれど、不安はない。
千尋の姿を見た瞬間、不安は消えた。
「もう二度と、指輪を外すことはしない」
「……っ」
「だから、二度と俺から離れるな」
「えら……そうに――」
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