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第一章 誘惑
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しおりを挟む「何、食う? 調子悪いならあっさりしたもんがいいか?」
エレベーターの中で、部長が言った。
「え? ホントに打ち合わせですか?」
「は?」
「資料、持ってないんですけど」
「お前……」
部長が信じられないという表情で、ため息をついた。
「わざと言ってんの?」
「何をです?」
「天然か?」
「は?」
からかわれているようにしか思えず、私は部長から目を逸らし、扉を見つめた。
「変な噂されたら困るだろ」
「え?」
「俺とお前が付き合ってるなんて噂されたら、仕事やりにくいだろ」
「ああ……。はい」
確かに。
部長はモテる。
三十五歳で独身、長身で引き締まった身体、出世街道まっしぐらの部長の妻の座を狙う女性社員は多い。
「で? 何食う?」
「あ、いえ……」
「お互い、昼飯食い損ねたのは本当だろ。いいから付き合え。奢ってやるから」
結局、半ば無理やりにタクシーに押し込まれ、部長の行きつけだという定食屋に連れて行かれた。
「酒、飲めるよな?」
「いえ、私は――」
「ビール以外だと……焼酎? ……はないよな」
メニューにはビールと日本酒、焼酎しかない。
「おばちゃん。この他に、酒ないの?」
よほど親しいようで、部長は隣のテーブルを拭いている六十代前半くらいの女性に聞いた。厨房には六十代後半くらいの男性。恐らく夫婦で営んでいるのだろう。
「槇ちゃん。彼女にお酒をご馳走するなら、もっとお洒落な店にしないと」と、おばちゃんは呆れ顔。
槇ちゃん……?
「酒はついで。美味い飯を食わせたかったんだよ。少し体調悪いみたいだから、あっさりしたもんがいいんだけど」
「だったら、お酒はダメでしょ!」
部長が叱られた。
なんだかやけに可笑しくて、私は思わず声を漏らした。
「くくく……」
「何、笑ってんだよ」
「だって……部長が子供みたいに叱られるとか……」
「私たちにしたら、子供みたいな年だからね」
おばちゃんは私に温かいお茶を淹れてくれた。部長の前には瓶ビールとグラス。
「ありがとうございます」
「あなたの親は私たちより若いか」
私の親……。
温かい湯飲みを両手で握り、ふと写真の中の両親を思い出した。
「うどん、食べられそう?」
おばちゃんが聞く。
「はい」
「槇ちゃんもうどんでいいね?」
「え」
部長は明らかに不服そう。
それはそうだ。ただでさえ物足りないだろうに、昼ご飯も食べていない。
「肉入りの大盛りにしてあげるから」
「はーい」
部長はネクタイを少し緩め、ビールに手を伸ばした。私は慌てて先に瓶を持つ。
「どうぞ」
「ああ……」
心なしか少し不機嫌そうに、部長はグラスを私に向けた。
コポコポと音を立てて、泡がグラスを埋める。
部長は「お疲れ」と言って一気に飲み干した。
いい飲みっぷり。
私が二杯目を注ごうとすると、部長が手から瓶を奪った。
「あとは自分でやる」
「え?」
「仕事じゃないんだから、いいんだよ」
「はぁ」
仕事……みたいなもんじゃない。
私はまた、温かい湯飲みを握り締めた。
「明日は何時だ?」と、部長がビールを注ぎながら聞いた。
「え? あ、九時に印刷所です」
「そうか」
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