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第七章

二 彼の噂

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 そうきたか……。


 蒼と城井坂家の縁談話を聞いても、私は冷静だった。

 政略結婚なんて、時代錯誤も甚だしい。それに、いくら和泉社長が復職するまでとはいえ、蒼がそんな話に乗るとは考えられない。

 そして、そんなことはあってはならない。

川原かわはらの居所は?」と私は聞いた。

『手詰まりだ』と侑は答えた。

 私は心の中で舌打ちをした。


 時間がないのに――。


「侑、川原は私で探すから、蒼のサポートに回って」

『いいのかよ?』

「ええ」と言いながら、私は窓に目を向けた。

 東京のど真ん中なのに、目の前に広がるのは慌ただしく人が行き交うビルではなく、青い空。

『……充副社長がいるから?』

 そして、窓に背を向けて真剣な表情でパソコンを操作する、充副社長。

「そうね……」

 ドアの前から眺める副社長室が、気に入っていた。

『……わかった』

 私がスマホを耳から離すと、充副社長が顔を上げた。

 第一秘書は今日から有給休暇に入った。

「内藤社長が蒼に接触しました」

「城井坂家との縁談か?」

「ご存知でしたか」

 私は副社長のデスクに足を向けた。

「ああ。取締役会の後、俺に打診があった。のらりくらりとかわしていたが、きみが現れてターゲットを蒼に替えたんだろう」


 なるほどね……。


「で? 蒼は?」

「さぁ」

「ずいぶん余裕だな」と、副社長が言った。


 余裕……。

 そんなのあるわけない。


「二十五歳って言ってたかな、相手の女」

「若いですね」

「ああ。しかも才色兼備ってやつらしい」


 蒼は、その女性と会うのだろうか……。


「男ってのは単純だし馬鹿なんだよ。ちゃんと言葉や態度で示さなければわからないし、納得しない」

「ご自分の経験からですか?」

「そうだな……」

 副社長がとても穏やかに微笑んだ。


 彼女のことを考えているのだろうか……。


 時々、副社長に蒼を重ねてしまうことがある。年齢はもちろん、輪郭も髪形も違うのに、蒼と見間違えてハッとする。


 きっと、声が似ているから……。

 あの声で名前を呼んで欲しいと思うのも、 時々、副社長の髪に触れてみたいと思うのも、きっとそのせいだ――。


「副社長、そろそろ会議の時間です」

 私は窓の向こうに目を向けた。




 私は焦っていた。

 こんなに早く状況が動くとは思っていなかった。

 縁談話が持ち上がって二日後。

 築島家の三男が城井坂家の一人娘と結婚するという話は、政財界でも噂され始めた。蒼が断れないよう、内藤社長が吹聴したのだろう。

 正式契約まであと五日。

 蒼にはこの噂を打ち消せない。

「明日、蒼が城井坂のお嬢様と会う」

 金曜の午後、充副社長が言った。

「そう……ですか」

 取り繕えないほど、私は動揺していた。

 蒼が城井坂のお嬢様と会うことがどうと言うのではない。もちろん、多少の嫉妬はあるが、蒼にしてみたら仕事上の交渉相手といったところだろう。

 問題は、外堀を埋められることで蒼の逃げ道がなくなることだ。

 万が一、和泉社長が金融庁への認可申請までに復職できなければ、蒼はT&Nを守るために人身御供として城井坂のお嬢様と結婚することになる。恐らく、婿養子となって城井坂家を継ぐことになるだろう。

 十分だと思っていたリミットが、ほんの数秒後のように思えてきた。

 五週間のうちに和泉社長の疑いを晴らし、復職させなければならない。

 川原を見つけられないことが、私をさらに焦らせた。




「咲、蒼に会え」

 就業時間を終え、副社長室を出ようとした私に、充さんが言った。

「ひどい顔、してるぞ」

 私は思わず顔を伏せた。

「会えるわけ……」

「会っても会わなくても後悔するなら、会って後悔しろ」

「…………」

 言葉が見つからない。

 頭に霧がかかったように、私の思考を鈍らせる。

 涙を堪えるので精いっぱいだった。


 会いたいに決まってる――。

 だけど、会ってしまったら、触れてしまったら、きっと私は何もかも投げ捨ててしまう。

 それだけは出来ない。


「昔は素直で可愛げがあったのにな――」

 不意に、温かくて力強い腕に抱き締められた。

「みっちゃんのお嫁さんになるって泣いてわめいて、しがみついてすげー可愛かったのに」

「いつの話を……」

 蒼に似た声で、蒼とは違う匂い。

「あの時、蒼が妬いてお前を押して転ばせたんだよ。俺は蒼を叱って、こんな風にお前を抱き締めてさ……」


 初めて聞いた……。


「お前は覚えていないだろうけど、俺ははっきり覚えているよ。昔から俺たち兄弟が並ぶと、誰でも必ず、まず兄貴を褒めて、次に蒼を可愛がって、最後に俺に愛想笑いするんだよ。俺は兄貴のように愛想を振りまくことも、蒼のように無邪気に笑うことも出来なくて、いつも不機嫌そうで可愛げがないって言われてたからな。だけど、お前は兄貴にも蒼にも目をくれず、俺を好きだと言ってくれた――」


 充さん……。


「可笑しいよな……。おむつが外れたばっかのガキに好かれて嬉しかったなんて……」

 充さんの髪が、私の首筋をくすぐる。

 蒼より硬くて、毛先がちょっと癖っ毛でうねってる。

「でもな、俺にはいい思い出なんだよ。だから、お前には泣きたい時に泣けない、薄っぺらい笑顔を浮かべる女になって欲しくない」

 急に、充さんの腕に力がこもり、うなじに熱い息を感じた。

「ちょっ――、充さ――!」

 充さんの唇が、私のうなじを撫でる。

 彼の腕から逃れようと力を込めても、びくともしなかった。

 充さんの唇がゆっくりと私の鎖骨をなぞる。

「や――」

 蒼よりも大きい手が、長い指が、優しく私の頬に触れた。

「咲……」

 耳元で名前を呼ばれて、私は抗えなくなってしまった。


 蒼と同じ声……。


 充さんの唇がそっと私の唇に触れ、私は我に返った。


 蒼じゃない!


「やだっ――!」

 力の限りで充さんを押し退けた。充さんはあっさり私から離れた。

「今度またそんな欲求不満そうな顔してたら、やめてやらねーからな」

「なっ! 失礼な! 欲求不満は充さんでしょう?」

「蒼に似た俺の声に感じてたくせに」

 充さんがフンっと笑った。

「ちが――っ」

 違わない。

 一瞬、蒼に名前を呼ばれている気になった。蒼に抱き締められている気になった。蒼の唇を思い浮かべた――。


 これじゃ、本当に欲求不満じゃない……。


「あ、そうだ。明日は内藤社長が蒼と姪っ子の顔合わせに同席するらしい。その後で俺の親父と食事することになってるから、このフロアは一日空になる。お前も明日はゆっくり休め」

 充さんは私の頭を軽く撫でて、副社長室を出て行った。


 悪ふざけが過ぎるでしょ――。


 今頃になって、心臓があり得ない速さで動き出した。


 恋人の兄と……なんて、あり得ない――。

 充さんだって恋人がいるのに、何やってんのよ――!


 半ば、パニック状態だった。

 けれど、思考を鈍らせていた霧は晴れた。

 明日を無駄にするわけにはいかない。 




 翌日、私は静まり返った八階の社長室にいた。

 防犯カメラの映像は差し替えてあるし、エレベーターを使わずに来たから、警備室でも八階に人がいるとは思っていないだろう。

 私はスマホで社長室内の写真を数枚撮影してから、社長のデスクに座った。社長のPCの電源を入れ、自分のノートパソコンも起動させた。

 スマホの発信履歴の一番上の番号をタップする。一度目の呼び出し音が鳴り終わる前に、聞き慣れた声がした。

『はい』

「防犯カメラの映像は?」

『問題ない』

「スピーカーに切り替えるわ」

 私は通話をスピーカーに切り替えて、スマホをデスクに置いた。

 社長のPCは、サインインのためのパスワードを待っていた。私は社長のPCに持って来たUSBメモリーを差し込んだ。十秒で社長のPCがサインインを認めた。

 ふと、デスクのメモ用紙が目についた。

『十一時、クイーンズホテル最上階』

 私は蒼とペアの腕時計を見た。

 十時三十五分。

 蒼は今頃ホテルへ向かう車の中だろう。


 考えるな!


「侑、どう?」

『侵入した』

 これで社長のPCのデータは一文字残らず極秘戦略課のマシンに転送される。

 次に私は社長のデスクを物色した。鍵のかかった引き出しは一か所。


 持ち帰って失くすリスクを考えたら、鍵はこの部屋にあるはず……。


 私は部屋を見渡し、窓際に置かれた壺に目を止めた。

 何か入ってます、と言わんばかりの口を大きく開けた壺を覗き込む。

「ビンゴ!」

『ん?』

「こっちの話」

 私は壺から小指ほどの大きさの鍵を取り出し、デスクの鍵穴に差し込んだ。軽く鍵を回すと、引き出しがすんなりと開いた。

 引き出しの中にはUSBメモリーが三つと、ディスクが数枚。まずはUSBメモリーを取り出し、一つずつ私のノートパソコンにデータをコピーした。

『ざっと見た感じ、プライベートでは使っていないようだ。ブラウザの履歴では、最新でも三週間前にニュースと株価を見ているだけだ』

「侑、社長が所有する物件は調べたのよね?」

『ああ。マンションや別荘に川原が匿われている形跡はなかった』

 USBメモリーから私のノートパソコンに吸い込まれていくファイル名が足早に切り替わる中、私は見覚えのあるファイル名を見逃さなかった。

「妻名義の物件はなかった?」

『大阪と名古屋にマンションを持っているけど、どちらも妻や妻の友人が定期的に使用してるから、川原を匿えるとは思えない』


 あとは……。


「秘書は?」

『秘書?』

「そう。社長秘書については調べた?」

 スピーカーから少し乱暴に、忙しくキーボードを叩く音が聞こえた。それに紛れて、侑がチッと舌打ちする音が聞こえた。

 侑が苛立ちを隠さないのは珍しい。

『時間をくれ』

 ブツッと通話が途切れた。

 社長秘書はノーマークだったのだろう。

 内藤社長の第一秘書は五十代の女性で、二十年前から社長の秘書をしている。第二秘書は二十代の男性で、三年ほど前に入社した。


 三年前……。


 コピーが終わり、私は次のUSBメモリーのコピーを始めた。


 どうする……。


 迷って、今はデータのコピーに集中することにした。

 USBメモリーとディスクのコピーを完了して、私は社長室内を一時間前に巻き戻し、副社長室に移動した。

 スマホがリズミカルに揺れて、私は侑からのメッセージを開いた。コメントなしでアドレスが添付されていた。

 SNSの書き込みだった。私は進行中の話題に、息をするのを忘れた。

 斜め後ろからのアングルで、蒼が女性の腰に手を回して、笑顔を向けている。女性の顔は見えない。腰まであるウエーブの髪が印象的だ。

 書き込みからすると、このショットは三十分ほど前のもので、T&N社員が撮影、アップしたもの。

『三男のデート現場に遭遇!』

『もしかしてお泊りだった?』

 などと、女子社員たちが騒いでいた。


 どうして……。


 スマホの画面が切り替わり、侑からの着信を知らせた。

「こんな時に、どういうつもり?」

『咲、行けよ』

 昨日の充さんといい、侑といい、簡単に『蒼に会え』と言う。今、私と蒼が会うことで、計画が失敗してしまうかもしれないのに。

 私は苛立ちを声に出した。

「やめて!」

『このままだと、蒼は逃げられなくなるぞ!』


 そんなことはわかってる……。


 私は目を閉じて深呼吸をした。

「侑、秘書は?」

『咲!』

「もういい、自分で調べる」

 今度は私が一方的に通話を終了し、副社長室を出た。

 社長室と副社長室の間には秘書室があり、十名ほどの重役秘書のデスクがある。私は社長の第一秘書のPCを起動させた。社長の時と同じ手順でサインインし、今度は空のUSBメモリーにPCのデータをコピーする。

 次に、第二秘書のPCを起動させる。

 侑からだと思われる着信に、ポケットの中でスマホが震え続けていた。

 侑は実際の防犯カメラの映像を見ているから、私が秘書室にいることを知っている。


 わかってる。


 侑のバックアップなしでこんなことをするのは、危険だ。

 私じゃない女の腰を抱く蒼の写真に動揺し、自分が冷静でないこともわかっている。

 だけど、川原を見つけられたら、和泉社長を復職させられる。

 蒼を取り戻せる。


 蒼を……。

 間に合わなかったら、どうしよう……。

 蒼が、会社のために城井坂のお嬢様と結婚してしまったら、どうしよう……。

 考えちゃダメだ!


 私は自分に言い聞かせて、第二秘書のPCのデータのコピーを始めた。

 次いで、第一秘書のデスクの引き出しを覗く。仕事に関係のないものは一つもなかった。


 社長にはもったいない、秘書の鏡ね……。


 第二秘書の引き出しも同様に、気に留めるものはなかった。正確にはなさ過ぎた。

 会社から支給される事務用品が整然と並ぶ引き出し。開封されていないペンや付箋もある。手垢が一切ついていないホッチキスやカッター。

 代わりに、第二秘書のPCのキーボードは表記がかすれるほど叩かれていた。マウスに触れると、左のパネルが軽く歪んでいた。使い込まれている証拠だ。

 いくら秘書二人で業務を分担しているにしても、不自然だ。


 まさか……、やっぱり――。


 私はデータのコピーを続ける第二秘書のPCを操作し、バックグラウンドで行われている作業をチェックした。

「やっぱり……!」

 私はキーボードを叩くことに夢中で、背後から忍び寄る人影に、全く気がついていなかった――。
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