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「前回夫人がこちらに来た折に、王子妃への打診をしたのだけど、辺境伯に断られてしまってね」
「わたくしは、嫡子ですから」
母に聞いた通りのことを王子が言った。娘が王子妃になることは誉ではないだろうか。そうまでして辺境伯の血を継がなければならなかったのだろうか。
同じ政略で婚姻するとして、クライブより王子のほうが幾分かはマシだったかもしれないのに。
「そう、その時もそう言われてね。でも嫁いだ今なら問題ないだろう?」
「は……え?」
「どうしてもあなたを諦められないから、私の側妃としても召し上げることにしたよ。私には既に妃と子どもがいるから、あなたとの子どもは辺境伯の継子として育てればいい」
突然、王子のステップが少し難しいものに変わった。合わせるのに気をとられて、返事をするタイミングを逃してしまった。
「私の妃は仕事もできるしまだまだ美しいけれど、もう三十も手前になってしまった。こうして手袋ごしでもわかる、あなたの肌の張り、艶……」
どんどんステップの難易度があがっていく。ついていくのに精一杯で、王子の言葉が頭に入らない。
「女性の一番美しい時期はほんの一瞬しかないからね。あの汚らしい田舎軍人の手垢がついたのは非常に惜しいことだけど、それでも尚あなたは穢れを知らぬ乙女のように光輝に満ちている。まだいとけないあなたも十分愛らしかったけれど、成熟を待った甲斐があったというものだね」
何かとんでもないことを言われているのはわかる。さっきの、王子妃の表情を思い出す。嫉妬でも嫌悪でもない、あの眼は憐れみを浮かべていたのだ。
「私の元で、その刹那の煌めきをできるだけ長く留めよう。あなたが若く美しくある間は、私はあなたを大切にすると誓おう」
王子はまだにこやかに最高難易度のステップでわたしを振り回しながら、ちょっと理解し難いことを言っているが本当に何を言っているのかわからない。ダンスのステップで頭がいっぱいだ。ここで足を踏んだら不敬にあたるだろうか。失う名誉など今更どうでもいい。
「心配はいらないよ。私に全て任せればいいからね」
ダンスについていくのを諦めて、足をとめて王子のことを考えようと思ったそのときに、すごい速さで入れ替わる景色の中に思いがけないものを見た。
「この夜会が終わったら、あなたのために用意させた部屋に案内しよう」
待って今見たものに気を取られていたら、話がどんどん進んでいる。
「あの」
「楽しみにしているよ」
ちゅ、とリップ音を立てて、王子がわたしの指先に口付けて、曲が終わった。
拍手がわきおこる中、何がおこったのかわからずに呆然としたままのわたしの腕が乱暴に引かれた。
「次は俺と踊るんだ」
クライブが怒気を含んだ顔のまま、わたしをホールドする。
幸いクライブのステップは初級だったが、今度はクライブが煩くて考え事が捗らない。
「第一王子殿下と笑顔で何を話していたんだ。この売女」
貴婦人の嗜みである貼りつけた笑顔を貶す夫にはそろそろ見切りをつけたくなってきた。だからといって少女趣味? 肌フェチ? の王子の側妃は何があっても遠慮したい。
「少し着飾って見れるようになったと思ったらこういうことか。どこぞの男に盗られる前に、お前の夫は俺だと教え込まねばならんようだな」
ぞっとした。
この男は、わたしに欲情しているのだ。今まで蔑んで暴力をふるってきたわたしに。
所有者のつもりか、痛いほどのホールドで顔を寄せられると酒臭い息に吐き気がした。
今までわたしはそういった欲求の対象となったことがなかった。辺境にいた間は着飾ることもなく、最小限の手間で顔や体を清めて、髪も爪も手入れなどしていなかった。ただの貧相な小娘にしか見えなかったことだろう。軍人たちには領主の娘だという歯止めもあったはずだ。
あの地でわたしは、女としての危機感を持ったことがなかった。それを今第一王子やクライブに相次いで劣情を向けられて、初めて自覚したのだ。
「お前が誰のものか、わからせてやる」
わたしは誰のものでもない。女として消費されるために生きてきたのではない。
きついホールドでも、ステップを踏むための足は少々動かせる。ドレスの裾の下で、クライブの足をヒールで思い切り踏み抜いた。
「ぐっ……おまえ!」
「申し訳ございません、ダンスに慣れないもので」
「さっきはあんなに踊っていたではないか」
「あれは第一王子殿下のリードが良かったのです」
言外にお前ごときのリードでは踊れないと貶してみたが、果たしてクライブに高度な嫌味が通じるのだろうか。だからといって王子のリードが優れていたとは決して言えない。あの試すようなダンスはわざとわたしの思考力を奪うために仕組んだものだ。
骨までイッたと思ったが、クライブも腐っても軍人、踏まれた足をかばいながらダンスを続けるつもりらしい。額に少し汗が浮き始めていて、見苦しい。
「夫である俺に合わせるのが妻たるお前の務めだろう!」
「……申し訳ございません」
殊勝な振りをしてもう片方の足を踏んだ。さっきは甘かったようなので、勢いをつけて。今度は無事骨を砕いた手ごたえがあった。
「ぐぅっ…お前は……ッ!」
今度は効いたのだろう、クライブは足を止めて、右手を振り上げた。
ダンスの途中で足を踏まれたくらいで激昂するなんて大した醜聞だ。ファーストダンスの後、まだ衆目が多くある。
殴られても王宮の外にいるサヤに治癒してもらえばいいと思えば気楽なものだ。この男の面子を潰して、二度と王都に来られないよう恥をかかせ、わたしに手を出そうなど思えないようになればいい。そのために痛みに耐えることなど大したことではない。
衝撃に備えて目を閉じた瞬間、わたしは風にさらわれた。
「わたくしは、嫡子ですから」
母に聞いた通りのことを王子が言った。娘が王子妃になることは誉ではないだろうか。そうまでして辺境伯の血を継がなければならなかったのだろうか。
同じ政略で婚姻するとして、クライブより王子のほうが幾分かはマシだったかもしれないのに。
「そう、その時もそう言われてね。でも嫁いだ今なら問題ないだろう?」
「は……え?」
「どうしてもあなたを諦められないから、私の側妃としても召し上げることにしたよ。私には既に妃と子どもがいるから、あなたとの子どもは辺境伯の継子として育てればいい」
突然、王子のステップが少し難しいものに変わった。合わせるのに気をとられて、返事をするタイミングを逃してしまった。
「私の妃は仕事もできるしまだまだ美しいけれど、もう三十も手前になってしまった。こうして手袋ごしでもわかる、あなたの肌の張り、艶……」
どんどんステップの難易度があがっていく。ついていくのに精一杯で、王子の言葉が頭に入らない。
「女性の一番美しい時期はほんの一瞬しかないからね。あの汚らしい田舎軍人の手垢がついたのは非常に惜しいことだけど、それでも尚あなたは穢れを知らぬ乙女のように光輝に満ちている。まだいとけないあなたも十分愛らしかったけれど、成熟を待った甲斐があったというものだね」
何かとんでもないことを言われているのはわかる。さっきの、王子妃の表情を思い出す。嫉妬でも嫌悪でもない、あの眼は憐れみを浮かべていたのだ。
「私の元で、その刹那の煌めきをできるだけ長く留めよう。あなたが若く美しくある間は、私はあなたを大切にすると誓おう」
王子はまだにこやかに最高難易度のステップでわたしを振り回しながら、ちょっと理解し難いことを言っているが本当に何を言っているのかわからない。ダンスのステップで頭がいっぱいだ。ここで足を踏んだら不敬にあたるだろうか。失う名誉など今更どうでもいい。
「心配はいらないよ。私に全て任せればいいからね」
ダンスについていくのを諦めて、足をとめて王子のことを考えようと思ったそのときに、すごい速さで入れ替わる景色の中に思いがけないものを見た。
「この夜会が終わったら、あなたのために用意させた部屋に案内しよう」
待って今見たものに気を取られていたら、話がどんどん進んでいる。
「あの」
「楽しみにしているよ」
ちゅ、とリップ音を立てて、王子がわたしの指先に口付けて、曲が終わった。
拍手がわきおこる中、何がおこったのかわからずに呆然としたままのわたしの腕が乱暴に引かれた。
「次は俺と踊るんだ」
クライブが怒気を含んだ顔のまま、わたしをホールドする。
幸いクライブのステップは初級だったが、今度はクライブが煩くて考え事が捗らない。
「第一王子殿下と笑顔で何を話していたんだ。この売女」
貴婦人の嗜みである貼りつけた笑顔を貶す夫にはそろそろ見切りをつけたくなってきた。だからといって少女趣味? 肌フェチ? の王子の側妃は何があっても遠慮したい。
「少し着飾って見れるようになったと思ったらこういうことか。どこぞの男に盗られる前に、お前の夫は俺だと教え込まねばならんようだな」
ぞっとした。
この男は、わたしに欲情しているのだ。今まで蔑んで暴力をふるってきたわたしに。
所有者のつもりか、痛いほどのホールドで顔を寄せられると酒臭い息に吐き気がした。
今までわたしはそういった欲求の対象となったことがなかった。辺境にいた間は着飾ることもなく、最小限の手間で顔や体を清めて、髪も爪も手入れなどしていなかった。ただの貧相な小娘にしか見えなかったことだろう。軍人たちには領主の娘だという歯止めもあったはずだ。
あの地でわたしは、女としての危機感を持ったことがなかった。それを今第一王子やクライブに相次いで劣情を向けられて、初めて自覚したのだ。
「お前が誰のものか、わからせてやる」
わたしは誰のものでもない。女として消費されるために生きてきたのではない。
きついホールドでも、ステップを踏むための足は少々動かせる。ドレスの裾の下で、クライブの足をヒールで思い切り踏み抜いた。
「ぐっ……おまえ!」
「申し訳ございません、ダンスに慣れないもので」
「さっきはあんなに踊っていたではないか」
「あれは第一王子殿下のリードが良かったのです」
言外にお前ごときのリードでは踊れないと貶してみたが、果たしてクライブに高度な嫌味が通じるのだろうか。だからといって王子のリードが優れていたとは決して言えない。あの試すようなダンスはわざとわたしの思考力を奪うために仕組んだものだ。
骨までイッたと思ったが、クライブも腐っても軍人、踏まれた足をかばいながらダンスを続けるつもりらしい。額に少し汗が浮き始めていて、見苦しい。
「夫である俺に合わせるのが妻たるお前の務めだろう!」
「……申し訳ございません」
殊勝な振りをしてもう片方の足を踏んだ。さっきは甘かったようなので、勢いをつけて。今度は無事骨を砕いた手ごたえがあった。
「ぐぅっ…お前は……ッ!」
今度は効いたのだろう、クライブは足を止めて、右手を振り上げた。
ダンスの途中で足を踏まれたくらいで激昂するなんて大した醜聞だ。ファーストダンスの後、まだ衆目が多くある。
殴られても王宮の外にいるサヤに治癒してもらえばいいと思えば気楽なものだ。この男の面子を潰して、二度と王都に来られないよう恥をかかせ、わたしに手を出そうなど思えないようになればいい。そのために痛みに耐えることなど大したことではない。
衝撃に備えて目を閉じた瞬間、わたしは風にさらわれた。
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