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第四章 江戸前蕎麦に地獄割り①

第23話

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 おしぼりを目元に当ててしばらくして、ごちそうさまと手を合わせてお会計を頼む。

 お店を出ると冷えている風が首元の隙間を吹き抜けていき、一気に酔いがさめた。

「まんまと、食べに行く約束しちゃった……いいのかな、これ?」

 今になって、プライベートなお誘いに乗ってしまったことに困惑が押し寄せてくる。でも、戸惑いと同時に胸がほんの少しだけドキドキする。

 明後日には、家の門前ににこやかに立っているであろう編集長の姿が想像でき、落ち着かない気持ちになってしまった。

「どこまで行くんだろ?」

 まあ、どこでもいいや。美味しいものが食べられるなら。

 お蕎麦が楽しみでちょっと緩んでしまった口元に気付き、絃は急いでマフラーを鼻の上まで持ち上げた。


 *


 美味しいものが食べられると思うと、休日というのも悪くない。

 いつもならば家の掃除だ、洗濯だとせわしなくてげっそりするのだが、やらなくてはならないことの大半は昨日の夜に片づけておいた。

 おかげでくたくたになってしまい、布団に入った瞬間に眠った。アラームと同時に目が覚めたが、気持ちよく晴れているのも相まって、気分は爽快だ。

 いつもは歩きやすく動きやすく、そして鹿にかじられてもいい服しか着ない。

 でも今日は案内ではないのだからと、お気に入りのニットのセーターとロングスカートにした。

「着てあげないと、箪笥の肥やしでかわいそうだもんね」

 マニッシュな印象は普段と変わらないが、普段着というだけでなんだか気持ちが高揚する。いつもと違う口紅にしたのも、楽しみな休日が久しぶりだったからだ。

 しっかり家の戸締りを終えると、待ち合わせのコンビニへ向かった。

 時刻は九時五十分。なにか飲み物を買っておこうかと思っていたが、お店の扉の前で編集長と鉢合わせた。

 バッファローホーンのフレームの眼鏡に、チェスターコートと彼は変りない。いつもはいているトリッカーズのカントリーブーツの色が、今日は明るい茶というくらいだろうか。

 今日の絃は、そんな彼の隣にいてもおかしくない格好だったので、ほんの少し安堵した。

「おはようございます、絃さん」

 編集長の指の間に、車の鍵が絡まっている。駐車場を見るとシルバーの乗用車が停めてあった。

「車だったんですか?」
「少々山のほうなんです」

 驚いている絃に向かって、編集長の手が伸ばされる。反射的に手を握ってしまった。

「本日はワタクシのわがままにお付き合いくださり、誠にありがとうございます」

 エスコートしますねと言われて、絃はびっくりして手を放した。

「冗談やめてください。早く行きましょう!」

 くすくすと笑い声が聞こえてきて、からかわれたのだとわかる。絃が助手席に乗ると、運転席で編集長はシートベルトを締めた。

「では参りましょうか」

 ハイブリッド車独特のモーター音が聞こえて、滑らかに車が走り出す。

 小さくかけられたラジオからは、八十年代の洋楽オールディーズが流れていた。

 それに耳を澄ませながら、すいすいと進む道に視線をぼうっと流した。緊張するかと思ったのだが、そんなことはない。無言のほうが長いけれど心地悪くはなかった。

 しばらくして信号で止まったところで、絃ははっとした。

「編集長、車だとお酒飲めませんよ!?」
「今日はお蕎麦を食べに行くので、飲めなくてもいいんです。絃さんは、飲んでいいですよ」

 信号が変わって、車が走り出す。絃は眉根を寄せた。

「編集長が飲めない横で飲むのはちょっと気が引けますが……でも、飲んでもいいでしょうか?」

「いいですよ。ちょうどお昼時には到着します。お休みの時こそ、昼間から飲むのがよろしいでしょう」

 本人がいいと言ってるのだから、今日も甘えさせてもらうことにしよう。
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