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第一章

第16話:遅々として(エマ視点)

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神歴五六九年睦月八日:王都郊外・エマ視点

 新たにフランク魔術師団副師団長と百人の魔術師が人質に加わった事で、それでなくても遅かった私達の歩みが更に遅くなってしまいました。

 フランク副師団長は、王子や公爵、第三騎士団団長と一緒にされました。
 実力が伴っていないので、危険だから側で見張っているのではないでしょう。
 身分が高く人質の価値が高いからでしょう。

 ジョルジャに厳しく叱られる前なら、多少は汚らしく感じたと思います。
 ですが今は身代金の大切さがわかります。
 その大切なお金も考えなしに使ってはいけないのだと教えられました。

 軍や騎士団が民から食糧を強制徴発する事が如何に悪いかを教わりました。
 強制的に徴発しなくても、安く買い叩く場合があるとも教わりました。

 それどころか、その時の正当な値段で買い取らせたと思っていても、戦争で食糧が暴騰するので、買取責任者は暴利を貪る事ができて、食糧を根こそぎ奪われた民は餓死するしかないという、とんでもない現実を思い知らされました。
 
 そのような恐ろしい現実を全く理解していませんでした。
 第三騎士団の補給担当者を、英雄騎士様のパーティーメンバーであるヴァレリオ殿が尋問されるのを見学させていただき、初めて知ることができました。

 ジョルジャが私に凄惨な拷問現場を見学させた真意を、その自白を聞かされたことでようやく知ることができました。

 英才教育された箱入り娘が、現実のどうしようもない汚さと強かさを何も理解していないのだと思い知りました。

 下情に通じた公平無私 な忠臣が側にいないと、王侯貴族育ちのおぼっちゃまやお嬢様では、何をやってもその真意とかけ離れた結果になってしまう。

 特に私利私欲で働く奸臣佞臣悪臣を側に侍らせていると、国や領地が荒廃してしまうと理解する事ができました。

「お嬢様、高位貴族の側近は、家臣であっても大身騎士である事がほとんどで、民の生活など全く知らないのです。
 ウラッハ辺境伯家ならば、平民からの叩き上げ騎士が辺境伯閣下側近として仕える事がありますが、グダニスク公爵家だと、平民出身者が騎士として取立てられる事など絶対にありません。
 ロイセン王国では、下級貴族であっても平民を騎士に取立てたりしません。
 つまり、下情に通じている貴族が独りもいないのです」

「民の気持ちを全く理解せずに、民を統治ができるはずがありませんね。
 だから王家直轄領であるはずの王都近郊が、これほど寂れているのですね」

「はい、これほど交通量が多いので、何かと利益を手に入れられるはずの街道周辺の村々ですが、僅かな利益も全て代官が奪い取るのです。
 全て奪われた民では、どれほど交通量が多くても売る物すらありません。
 女子供が自分の身を売るしかない、それほど酷い状態なのです」

「本当にこのまま逃げてしまって良いのでしょうか?
 お母様を探し出すのは当然として、この国の民を見捨てていいのでしょうか?
 父親とはとても思えないグダニスク公爵ではありますが、血の繋がった父親である事は間違いなく、私が公爵家を継承してもいいはずです。
 低いとはいえ、王継承権もあります。
 私が立ってこの国の民を救うべきなのではありませんか?」

「お嬢様にお教えした帝王学の理想が、正しく伝わっていることを喜ばしく思いますが、同時に理想と現実の擦り合わせができていない事を哀しく思います。
 どれほど気高い理想を掲げようと、現実にできなければ夢想に過ぎません。
 お嬢様の理想をどうすれば現実にできるかお考えください」

「この国に残って戦うと言ったら、現実を何も分かっていないと叱るのでしょう?」

「当然でございます!
 そのような戯言を申されるようでしたら、幼い頃のように、お尻を強く叩いて差し上げます」

「この歳になって、ジョルジャにお尻を叩かれるのは嫌です。
 死んだ者には何も成し遂げられないと言うのでしたね?」

「はい、死んだ者の負けでございます。
 どれほど素晴らしい理想を心に持っておられても、死んでしまっては現実に反映させる事ができません。
 悪辣非道な者でも、生き残った者が世の中を好き勝手にするのです。
 多少妥協する事になっても、生きて少しでも世の中を良くするのです。
 公爵家の民を救えるのはお嬢様だけでございます」

「お母様を助けるためにこの国に残りたいと言っていた私は、何も分かっていない我儘なお嬢様だったですね?」

「お嬢様が母親のアンジェリカ様を慕われるお気持ちは痛いほどわかりますが、公爵令嬢の責任と義務を考えると、粗相王子と大差ない身勝手な言動です。
 内心の温かい情があるか、私利私欲に満たされているか、は関係ないのです。
 責任と義務のある王侯貴族として、生き残って現実を動かす必要があるのです」

「憶病卑怯、母を見殺しにした人非人。
 そう罵られても、生き残らなければいけないのですね。
 お爺様の所に辿り着き、戦力を整えて民を救わなければいけないのですね」

「はい、その通りでございます。
 辺境伯閣下は、この国の民を救うために、泣く泣くアンジェリカ様をあのような品性下劣で卑怯憶病な公爵に嫁がされたのです。
 それが分かっておられたからこそ、アンジェリカ様も涙をこらえて公爵家に嫁がれたのでございます。
 正々堂々をロイセン王国を占領できる機会を待っておられたのです」

「老王と王子は、愚かにも私達に絶好の機会を与えたという事ですか?」

「はい、この機会を無にされては、辺境伯閣下やアンジェリカ様の涙と苦しみを無駄にしてしまいます。
 お苦しいでしょうが、どうか涙をぬぐってお逃げください」

「分かりました、もう残ってお母様を探したいとは申しません。
 ですが、どうやって逃げるのが一番安全なのかが分かりません。
 このまま英雄騎士様を頼って逃げればいいのですか?
 それともお爺様の密偵達に護られて先に逃げた方が良いのですか?」

「英雄騎士様が騎士の誓いをしてくださる前でしたら、何を置いてでも急いで辺境伯領にお逃げいただきました。
 ですが今なら、英雄騎士様と同行された方が良いでしょう」

「理由を教えてくれますか。
 今までなら、何も聞かずにジョルジャの言う通りにしていました。
 或いは自分の考えた方法を押し通そうとしました。
 ですが今は、少しでも多くの考えを理解しなければいけないと思い至りました。
 何故英雄騎士様と同行した方が良いのですか?」

「今回はお嬢様が辺境伯領方面に逃げたことが明白になってしまっています。
 予定では、完全に行方を晦ました形で辺境伯領に向かう計画でした。
 足取りをつかませなければ、裏をかいてアバコーン王国方面に逃げたと考えさせる事もできて、追手の数を少しでも減らせました。
 その上で抜け道を使ってお逃がしする予定でした」

「今は私がどこにいるか明白で、敵を欺きようがなく、既に辺境伯領方面に待ち伏せがいるから、少数で抜け道を行くのは危険だと言いたいのですか?」

「はい、効果と危険を天秤にかけて、お嬢様を安全にお逃がしできるのなら、英雄騎士様を囮にする事も躊躇わないのですが、今回は危険の方が大きいです」

「分かりました、できるだけ英雄騎士様の側を離れなければいいのですね?」

「はい、例え私達がいなくなる事があっても、英雄騎士様が居てくだされば、お嬢様を無事に辺境伯領まで送り届けてくださいます」

「ジョルジャ!」

「お嬢様!
 もう甘える事は許されないのです。
 これまでは箱入り娘だったから色々大目に見させていただいていました。
 ですが、事ここに至っては、甘い顔などできません。
 お嬢様自身がご自分の立場を自覚し、変わると申されたのですよ!」

「確かに変わると申しました。
 ですが、ジョルジャ達を見殺しにして独り逃げるのは嫌です!」

「お嬢様、先ほどの言葉は嘘だったのですか?!
 何があっても生き残り、民を幸せにすると仰られたのは口だけだったのですか!」

「嘘ではありませんし、言葉だけでもありません。
 心から民を幸せにしたいと思っています。
 ですが、家臣や使用人も大切にしなければいけないのではありませんか?」

「ジョルジャも辺境伯家に仕える士族でございます。
 アンジェリカ様の側近であり、恐れながらお嬢様の乳母でございます。
 王侯貴族の責任とまでは言いませんが、騎士の誇りと誓いがあるのです。
 お嬢様を守り、領民を幸せにするのが騎士です。
 お嬢様は私の誓いを蔑ろにされるお心算か?!」

「……分かりました、最悪の場合はジョルジャを見捨ててでも生き残ります。
 ですが、できる事なら、そのような事にならないようにしてください。
 お願いです、ジョルジャ、私の側から居なくならないで」
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