もどろきさん

藤瀬 慶久

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第19話 真知子

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 産まれた赤子にお乳をあげていると、隆がそっと赤子の顔を覗き込んで来た。
 目尻はだらしなく緩み、いつものしかめっ面は鳴りを潜めている。

 千佳はそんな隆の顔を見て思わずクスリと笑った。

「何か、おかしいですか?」
「いいえ。ただ、隆さんでもあんなに焦ることがあるんだなぁと思って」

 子供が産まれたことを報せた次の休暇時、隆は心底慌てた様子で帰宅した。その時の隆はいつものしかめ顔では無く、まるで泣き出しそうな情けない顔をしていたものだ。

「子を持つなど初めてのことです。何も勝手がわからんのです」
「あら、それは私も同じですよ」

 二人でクスクスと笑った。あれほどに辛かったお産だが、隆と二人で赤子を見ているとそんな苦労も何も無かったかのように感じられる。つくづく、赤子とは不思議な物だった。

 子供は『真知子まちこ』と名付けた。
 春を待つ季節にちなみ、隆が付けてくれた名だ。

 満腹になったのか、真知子が乳首を咥えたまま眠り始めた。ちょうどそのタイミングを見計らったかのように父が顔を出した。

「準備できたで」

 今日は近所の八所はっしょ神社じんじゃへお宮参りに行く予定だ。
 千佳としては還来もどろき神社さんへ行きたかったが、道が悪く距離も遠いことから、真知子がもう少し大きくなってからということになった。

 千佳は真知子を抱き、隆と並んで歩いた。両親は二人の前を歩いている。
 季節はすっかり春めいており、つい先日まで満開だった桜も今はほとんどが散っている。田舎道には桜の花びらが絨毯のように広がり、田起こしの済んだ田には雀が遊んでいた。土中のミミズを狙っているのだろうが、はた目には雀が戯れているように見える。
 良く晴れた、好い日だった。

 散り遅れた桜がひとひら、風に乗って真知子の顔の上に落ちた。
 花びらがむずがゆかったのか、よく眠っていた真知子が少しぐずり始める。千佳が立ち止まってあやしていると、不意に隆の手が千佳の頭上に伸びた。

 千佳が驚いて上を向くと、ちょうど隆が千佳の頭についた花びらを指でつまんだ所だった。

「あ、驚かせてしまいましたね」
「待って」

 隆が慌てて手を引っ込めようとしたが、千佳がそれを制止した。

「手をそのまま、ゆっくり下ろしてください」

 言われた通り隆が手の位置を下げると、ちょうど千佳の顔の位置に隆の手の平が来た。千佳はそのまま隆の手に頬ずりをする。

「あの……何か?」
「こうしているの、好きなんです」

 千佳が臆面も無くそう言うと、隆の方もどうしていいか分からず明後日の方を向いた。隆は既に耳まで真っ赤になっている。

「おおーい。なにしとるんや」

 はるか前を行く父から声をかけられ、隆が戸惑いながら手を離した。

「……行きましょうか」
「はい」

 神社に着くと、既に神主はご祈祷の準備をして待っててくれていた。
 赤子の機嫌が悪くならないようにとご祈祷は簡素に済ませ、その後、バスに乗って堅田の町に降りて写真館に入った。

 当初は隆、千佳、真知子の三人での予定だったが、両親が孫と共に写真を撮りたいと言って聞かなかった為に全員での家族写真も撮ることになった。
 待望の男子では無かったものの、両親も真知子の誕生を心から喜んでくれている。
 千佳の心は満ち足りていた。

 本堅田駅で帰りのバスを待っていると、駅前で街頭演説の若者に出くわした。
 日本の国際連盟脱退を称揚しょうようし、関東軍の戦いぶりを絶賛し、米英何するものぞと気勢を上げている。千佳には難しくて何を言っているのかよく分からなかったが、隣の隆は難しい顔をしていた。


「また、戦争になるのですか?」

 家に戻った千佳は、たまりかねて隆に聞いた。ここの所真知子の世話にかかりきりで、ほとんど世情を知らない。
 また突然隆が戦争に行ってしまうのではないかと思うと、途端に不安が頭をもたげて来た。

 隆はしばらく逡巡していたが、やがてはっきりと言った。

「満州では、再び戦争が始まっています」

 昨年の昭和七年十月に国際連盟に提出されたリットン調査報告書は、日本側にも一定の利益を認める内容ではあった。だが、その報告書を踏まえて昭和八年二月に国際連盟総会にて採択された内容は、そうした日本への配慮も失われていた。
 満州における日本の軍事行動を中華民国に対する侵略行為と断定し、日本の満州における権益地域は満州鉄道沿線まで後退させ、併せて中華民国の領土保全と門戸開放の原則を決めた『九か国条約』の遵守を日本に求めた。

 要するに日本の支配地域を満州鉄道沿線まで戻し、それ以上満州に領土を広げることは認めない、とした。これは、日本がこれまで満州各地に投資したインフラをそっくりそのまま中華民国に明け渡せということだ。欧米自身は世界各地の市場から日本を締め出しているにも拘らず、である。
 日本にとって、とても納得できるはずがない。

 しかも、当時日本は国際連盟の常任理事国であり、年六十万円(現在価値でおおよそ六十億円)の分担金を滞納なく負担している。にも拘らず、一般加盟国であり、その分担金も滞納している中華民国の言い分だけを一方的に通した形だ。

 これでは、日本が怒らない方がどうかしていた。

 これらの情勢を受け、日本政府は昭和八年三月に国際連盟脱退を正式に決定し、これによって日本の国際的な孤立は決定的な物になった。


 心配そうな顔をする千佳に対し、隆は少し気まずそうに笑った。

「大丈夫です。舞鶴は後方支援の要港部ですし、いきなり自分が前線へ派遣されるということはありませんよ」

 そう言われると、千佳は納得するしかない。だが、それでも胸は騒いだ。
 夫は軍人なのだ。戦争が長引くのならば、いずれはかぬわけにはいかなくなるだろう。

 ――何故、この人は軍人なのだろう

 この時の千佳は、痛切にそう思った。
 隆が軍人でなければ、危険な戦地に赴くことも無かっただろうに……。

 だが、すぐに考えることをやめた。
 隆自身が軍人であることを選んでいる以上、千佳に口出しできることではない。
 自分が好きになったのは、朴念仁であり、不器用であり、心に傷を持ち、その分だけ人に優しい隆だ。
 軍人であることも含めて、そのすべてが隆なのだ。

 辛いと思っていても、諦める他無かった。
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