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金継ぎの青 下:ブルー編
死に際に咲く
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「いない……ここも、ここも……」
本当にどうしてしまったのか。喜一は混乱していた。
ふらつく足下をどうにか整えながら、夜半の道を歩いている。着替えて風呂に入って、飯をどうにか取らなければ明日の出勤に間に合わないのに、それでも確かめずにはいられない。
———また住人の家族構成を間違えた。
教会の軒先へ撒かれていた塵を回収し終え、職場に戻ってすぐの出来事である。電灯の切られたデスクで燭台に火を灯して書類仕事を片付けていた喜一は、ふと思い至って氷雨町の住民登録票を見直してみた。
田代の爺さん。いもしないという息子夫婦。産まれる予定だったはずの、———初孫。「いない」と認めるには、喜一はあまりにもその家族に関わり過ぎていた。息子夫婦の入籍届けを受理したのも彼だったし、初子が産まれた後行う手続きについて、子細説明を要求されたのもついこの間の話だ。
「いないはずがないだろう……!」
表札を確かめに行かなければならない。……役場を出てからの答え合わせは散々だった。
この町では、人が産まれると玄関横の柱に名彫りの札が嵌め込まれる。この土地特有の風習だ。住民が生きて死ぬまで戸口を飾る石札は、最後は砕かれ骨壺へ入れられ、土の中まで住民の供をする。
石塀の囲う民家を一件ずつ練り歩いた。そう多くはない住人たちは、丑三つ時をゆうにまわった今、当たり前に寝入っているらしい。耳に痛いほどの静寂が雨に溶けあって喜一の皮膚を冷やす。
田代家。探した札は息子夫婦に当たる二枚だ。『トオエ』と『ノリコ』。見当たらない。
四野家。石札三枚。『ヘイゾウ』。『クニ』。『キセ』。なし。
郡家。石札二枚。『エニシ』。『リョウコ』。なし。
洞衛家。石札四枚。『セイジ』。『サチ』。『ユミ』。『トオヤ』。……なし。
(いない……。いない、いない……存在していない)
洞衛家に至っては、がらんどうの空き地があるだけで、どこに家屋を認めることもできなかった。皆の記憶から消えた住人を探す道行きはそこでお終いになった。いつか昔に縁側で柿をご馳走になったその場所で、喜一は途方に暮れて立ち尽くす。洞衛家は珍しく喜一に優しい家族だった。自分の食い扶持を保つだけでも精一杯なこの村で、庭の柿や栗を分けてくれるのはこの一家ぐらいなものだ。
「全部、幻だったのか……?」
消えていなくなった住人は、喜一の妄想の産物なのだろうか。そんなはずはないと思いたくても、彼らの痕跡がどこにも見当たらない。世界がおかしくないとするならば、おかしくなってしまったのは自分だということになる。
爪先から震えが上ってきた。記憶障害ということになるのだろうか。現実との齟齬は日増しに酷くなるばかりだった。昼の仕事を思い出す。記入し終えた書類が机の上から消えていたり、こなした手続き自体がなかったことにされていたり。こんなざまでは、働き続けていくのは不可能だ。症状を誤魔化しきれなくなるのは時間の問題だった。働けなくなったらどうなる?もう教会には俺くらいしか働き手は残っていないのに。職を失ったら給金を失う。給金が無くなれば、「慰謝料」が払えなくなる。払えなくなれば、今度こそ……。
「どうしよう、守れない……。これじゃ、俺は何のために……!!」
掠れた声が漏れ出たとき、後ろから声がかけられた。
「どうしたの?いったい何を———守れないのかしら」
聞き覚えのある声だ。震え上がって振り向こうとした喜一の背を、ざらりとした感触が撫でる。身動きの取れないまま意識が遠のいて、喜一はその場に倒れ込んでしまった。背にのし掛かられて、立ち上がることができない。羽毛に似た感触が地面に伏した頬とは反対の表皮を撫でる。
巨大な怪物に似た生き物から確かに旅客の声がする。香水の艶めかしい香りに混じって、鉄臭い生臭さが鼻孔を突いた。喜一の口から漏れた悲鳴は、口蓋を舐める怪物の舌に絡め取られてついに輪郭を奪われる。何か尖ったものが首を突いて、その薄い皮膚を破った。
「ぃっぐ、ぁ、ぁあ……!!」
「がんばって、もう少し……貴方の夢を借りるわよ」
「ンぅ……~~~ッ!!ぅ、がぁっ!ひ、きゅっ……!!ァッア」
ぢるぢると水音がして、視界が廻る。痛いのか苦しいのかはもう判別がつかなくて、大きな獣にのし掛かられた青年は手足をばたつかせて最後の抵抗を示した。首に感じる冷たい熱を最後に、喜一の意識は暗闇へ転がり落ちていく。
あらかた喜一から悪夢を啜り尽くした怪物は、巨大な怪鳥から、その羽根を折りたたむように人間の四肢を象った。暗闇の中に、生白い手足をドレスに包みこんだ美女が現れる。
「……濃い穢れ。結局この子、魘されてばかりで休めなかったわね」
リリスは夢魔として最も完成された魔族だ。しかし他人の夢を、舞台そのまま他人に移し替えるのは、いささか肩の凝る作業であった。辺り一帯を見回すと、寒々とした民家が連なる景色はそのまま、二つ月の明かりが照らしている。満ちた月は赤く雲に陰ったまま病みついている。……隣に並ぶ欠け月は清廉な白を保ってはいるが、薄い明かりはそのまま消えてしまいそうだ。リリスは夜空を見上げながら、胸元の薔薇細工に囁きかけた。
「聞こえてる?そう。———今さっき引っ越しを済ませたところよ。当分はこの子の夢はもつでしょう。……母親のほうはもう時間が無いわ。だましだまし繋いでた寿命が、尽きちゃったみたい。だからそのまま移せる子を見つけたのに……混じりものが多すぎる。これじゃ戻れないわ。そう、そうね。……意識を取り戻して貰わないとね」
リリスは昏倒している喜一を見つめる。夢魔は夢を渡り、精気を食らう生き物だ。修道女の清い夢を旅することができるとはしゃいでいたのに、これではとんだ超過労働だ。夢を渡った途端に現実での滞在先が駄目になるなんてついていない。付け火をされた修道院から運び出された彼女とその息子は、今も搬送先の病院で意識不明の重体だ。
薔薇のブローチから雇い主の指示がとぶ。この男も随分穏健派になったもので、見境の無い粛正はしなくなったらしい。しかしそのぶん、リリスへの依頼が面倒なものになるのではあるが。
「わかったわよ。でもね、夜明けまでに済ませて頂戴な。死に目に間に合わないわ」
綺麗ないきものは儚い。美しいものは、そうでないものにとって気に障ることが多いから、とびきり下らない理由で呆気なく壊れてしまう。
よくないものたちが夜陰に乗じて騒ぎ始めた。死にかけとはいえ、何しろ生者の器がかかっている……喜一の夢には既に多くの死者が群がっていた。
リリスは白魚のような指を二度打ち鳴らした。地面を割って花弁が湧き———二羽の怪鳥が産声をあげる。
「いい?貴方たち!今回の任務はこの子の夢を守ること!私は表に出て元凶を叩くわ、しっかりお願いね」
大魔女の眷属たちが翼を広げて雄々しく空へ舞い上がり、月光を遮る翳りへと突っ込んでいく。
———月を赤く覆うのは雲では無く、遠くに騒ぐ亡者の群れだった。人間界には未練がましい魂が多いらしい。
この若者の探していた者がいないなんて、当然のことだ。死に際の夢に入ってこられるのは幽鬼だけ。喜一の頭がおかしくなったわけではない。現実で既にいないのは田代の隠居のほうなのだ。
死にかけの魂と、鬼籍に入った者だけが、この世界を闊歩することができる。逆を言えば、金をせびりに来る老人も、役場の職員も、この青年に接触した人間はみな既にこの世にはいない者たちであった。
足下を見れば、喜一の姿は失せていた。夢の主人は弱った時、必ず心の拠り所へ向かう。きっと、彼のことはそうすべき者が見つけてくれるだろう。
真白い月が完全に欠ける前にことを終わらせる必要があった。喜一の身体を乗っ取りにくる亡者を片付け、自分は現実に戻ってこの騒動の下手人を捕まえなければならない。
「彼のつけた護衛がやられる相手だもの……誰かしら、ハーピー?デモン?……やっぱり魔女かしら。お腹をざっくり……せっちゃん、痛かったでしょうに」
夢を間借りしてすぐ、足湯に連れて行ってくれた彼女のことを思う。清らかな心の美しい人。気の多いリリスは出会ったその日に恋をした。
———仇はとってあげるからね。嘴が光を受けて、緩やかな曲線を描いた。
本当にどうしてしまったのか。喜一は混乱していた。
ふらつく足下をどうにか整えながら、夜半の道を歩いている。着替えて風呂に入って、飯をどうにか取らなければ明日の出勤に間に合わないのに、それでも確かめずにはいられない。
———また住人の家族構成を間違えた。
教会の軒先へ撒かれていた塵を回収し終え、職場に戻ってすぐの出来事である。電灯の切られたデスクで燭台に火を灯して書類仕事を片付けていた喜一は、ふと思い至って氷雨町の住民登録票を見直してみた。
田代の爺さん。いもしないという息子夫婦。産まれる予定だったはずの、———初孫。「いない」と認めるには、喜一はあまりにもその家族に関わり過ぎていた。息子夫婦の入籍届けを受理したのも彼だったし、初子が産まれた後行う手続きについて、子細説明を要求されたのもついこの間の話だ。
「いないはずがないだろう……!」
表札を確かめに行かなければならない。……役場を出てからの答え合わせは散々だった。
この町では、人が産まれると玄関横の柱に名彫りの札が嵌め込まれる。この土地特有の風習だ。住民が生きて死ぬまで戸口を飾る石札は、最後は砕かれ骨壺へ入れられ、土の中まで住民の供をする。
石塀の囲う民家を一件ずつ練り歩いた。そう多くはない住人たちは、丑三つ時をゆうにまわった今、当たり前に寝入っているらしい。耳に痛いほどの静寂が雨に溶けあって喜一の皮膚を冷やす。
田代家。探した札は息子夫婦に当たる二枚だ。『トオエ』と『ノリコ』。見当たらない。
四野家。石札三枚。『ヘイゾウ』。『クニ』。『キセ』。なし。
郡家。石札二枚。『エニシ』。『リョウコ』。なし。
洞衛家。石札四枚。『セイジ』。『サチ』。『ユミ』。『トオヤ』。……なし。
(いない……。いない、いない……存在していない)
洞衛家に至っては、がらんどうの空き地があるだけで、どこに家屋を認めることもできなかった。皆の記憶から消えた住人を探す道行きはそこでお終いになった。いつか昔に縁側で柿をご馳走になったその場所で、喜一は途方に暮れて立ち尽くす。洞衛家は珍しく喜一に優しい家族だった。自分の食い扶持を保つだけでも精一杯なこの村で、庭の柿や栗を分けてくれるのはこの一家ぐらいなものだ。
「全部、幻だったのか……?」
消えていなくなった住人は、喜一の妄想の産物なのだろうか。そんなはずはないと思いたくても、彼らの痕跡がどこにも見当たらない。世界がおかしくないとするならば、おかしくなってしまったのは自分だということになる。
爪先から震えが上ってきた。記憶障害ということになるのだろうか。現実との齟齬は日増しに酷くなるばかりだった。昼の仕事を思い出す。記入し終えた書類が机の上から消えていたり、こなした手続き自体がなかったことにされていたり。こんなざまでは、働き続けていくのは不可能だ。症状を誤魔化しきれなくなるのは時間の問題だった。働けなくなったらどうなる?もう教会には俺くらいしか働き手は残っていないのに。職を失ったら給金を失う。給金が無くなれば、「慰謝料」が払えなくなる。払えなくなれば、今度こそ……。
「どうしよう、守れない……。これじゃ、俺は何のために……!!」
掠れた声が漏れ出たとき、後ろから声がかけられた。
「どうしたの?いったい何を———守れないのかしら」
聞き覚えのある声だ。震え上がって振り向こうとした喜一の背を、ざらりとした感触が撫でる。身動きの取れないまま意識が遠のいて、喜一はその場に倒れ込んでしまった。背にのし掛かられて、立ち上がることができない。羽毛に似た感触が地面に伏した頬とは反対の表皮を撫でる。
巨大な怪物に似た生き物から確かに旅客の声がする。香水の艶めかしい香りに混じって、鉄臭い生臭さが鼻孔を突いた。喜一の口から漏れた悲鳴は、口蓋を舐める怪物の舌に絡め取られてついに輪郭を奪われる。何か尖ったものが首を突いて、その薄い皮膚を破った。
「ぃっぐ、ぁ、ぁあ……!!」
「がんばって、もう少し……貴方の夢を借りるわよ」
「ンぅ……~~~ッ!!ぅ、がぁっ!ひ、きゅっ……!!ァッア」
ぢるぢると水音がして、視界が廻る。痛いのか苦しいのかはもう判別がつかなくて、大きな獣にのし掛かられた青年は手足をばたつかせて最後の抵抗を示した。首に感じる冷たい熱を最後に、喜一の意識は暗闇へ転がり落ちていく。
あらかた喜一から悪夢を啜り尽くした怪物は、巨大な怪鳥から、その羽根を折りたたむように人間の四肢を象った。暗闇の中に、生白い手足をドレスに包みこんだ美女が現れる。
「……濃い穢れ。結局この子、魘されてばかりで休めなかったわね」
リリスは夢魔として最も完成された魔族だ。しかし他人の夢を、舞台そのまま他人に移し替えるのは、いささか肩の凝る作業であった。辺り一帯を見回すと、寒々とした民家が連なる景色はそのまま、二つ月の明かりが照らしている。満ちた月は赤く雲に陰ったまま病みついている。……隣に並ぶ欠け月は清廉な白を保ってはいるが、薄い明かりはそのまま消えてしまいそうだ。リリスは夜空を見上げながら、胸元の薔薇細工に囁きかけた。
「聞こえてる?そう。———今さっき引っ越しを済ませたところよ。当分はこの子の夢はもつでしょう。……母親のほうはもう時間が無いわ。だましだまし繋いでた寿命が、尽きちゃったみたい。だからそのまま移せる子を見つけたのに……混じりものが多すぎる。これじゃ戻れないわ。そう、そうね。……意識を取り戻して貰わないとね」
リリスは昏倒している喜一を見つめる。夢魔は夢を渡り、精気を食らう生き物だ。修道女の清い夢を旅することができるとはしゃいでいたのに、これではとんだ超過労働だ。夢を渡った途端に現実での滞在先が駄目になるなんてついていない。付け火をされた修道院から運び出された彼女とその息子は、今も搬送先の病院で意識不明の重体だ。
薔薇のブローチから雇い主の指示がとぶ。この男も随分穏健派になったもので、見境の無い粛正はしなくなったらしい。しかしそのぶん、リリスへの依頼が面倒なものになるのではあるが。
「わかったわよ。でもね、夜明けまでに済ませて頂戴な。死に目に間に合わないわ」
綺麗ないきものは儚い。美しいものは、そうでないものにとって気に障ることが多いから、とびきり下らない理由で呆気なく壊れてしまう。
よくないものたちが夜陰に乗じて騒ぎ始めた。死にかけとはいえ、何しろ生者の器がかかっている……喜一の夢には既に多くの死者が群がっていた。
リリスは白魚のような指を二度打ち鳴らした。地面を割って花弁が湧き———二羽の怪鳥が産声をあげる。
「いい?貴方たち!今回の任務はこの子の夢を守ること!私は表に出て元凶を叩くわ、しっかりお願いね」
大魔女の眷属たちが翼を広げて雄々しく空へ舞い上がり、月光を遮る翳りへと突っ込んでいく。
———月を赤く覆うのは雲では無く、遠くに騒ぐ亡者の群れだった。人間界には未練がましい魂が多いらしい。
この若者の探していた者がいないなんて、当然のことだ。死に際の夢に入ってこられるのは幽鬼だけ。喜一の頭がおかしくなったわけではない。現実で既にいないのは田代の隠居のほうなのだ。
死にかけの魂と、鬼籍に入った者だけが、この世界を闊歩することができる。逆を言えば、金をせびりに来る老人も、役場の職員も、この青年に接触した人間はみな既にこの世にはいない者たちであった。
足下を見れば、喜一の姿は失せていた。夢の主人は弱った時、必ず心の拠り所へ向かう。きっと、彼のことはそうすべき者が見つけてくれるだろう。
真白い月が完全に欠ける前にことを終わらせる必要があった。喜一の身体を乗っ取りにくる亡者を片付け、自分は現実に戻ってこの騒動の下手人を捕まえなければならない。
「彼のつけた護衛がやられる相手だもの……誰かしら、ハーピー?デモン?……やっぱり魔女かしら。お腹をざっくり……せっちゃん、痛かったでしょうに」
夢を間借りしてすぐ、足湯に連れて行ってくれた彼女のことを思う。清らかな心の美しい人。気の多いリリスは出会ったその日に恋をした。
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