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金継ぎの青 下:ブルー編

雪花散るとき

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 揺り起こされて、清一は目を覚ました。冷やい夜の空気が肌に染みる。
 ……見上げると、まず目に入ったのは夫の顔であった。気を許して微笑む青年に対して、大鬼の表情は強張っている。珍しいこともあるものだ。
 「起きたか。……悪いが、ちょいと付き合ってくれるか」
 「ぅええ……?うん……」
 ぐらぐらする頭で頷くと、バルドは寝台から清一を担ぎ上げる。浮遊感に目を瞬かせるが、抱っこの姿勢は既に慣れたものだ。青年は男の胸に頬を擦り寄せる。ぼんやりと身を預けている清一を慣れた手つきで膝抱きにして、バルド自身も寝台に腰掛けた。
 ———窓辺から、赤まだらの月明かりが部屋に差し込んでいる。
 「……?どうしたの」
 バルドの顔は浮かない様子だ。半ば考え込んでいるように見えて、清一も寝ぼけ眼を擦りながら、居住まいを正して夫の顔を覗き込んだ。
 幾度か瞬きと歯噛みを繰り返した後、バルドは青年の肩をしっかりと掴み、青の瞳を見て話し始めた。
 「清一。……好きだ、お前を愛してる」
 「え、な、なに急に……?お、おれも……好きだよ。……どうかした?」
 人型になっても金環の瞳は変わっていない。大鬼から縫い止めるように見つめられて———らしくもない表情で口説かれると、反射的に耳まで茹だる。目を逸らそうとして、頬を分厚い手のひらに戻された。バルドは神妙な表情で言葉を探り続ける。
 「———お前と暮らしてからこっち……毎日愉快で仕方ねえ。魔族はな、長く生きれば生きるほど、頭がいかれていくもんだ。世の中に飽いて腐り出す。……オーガなんてのはその典型だ。やたらと寿命が長いくせして、身体も丈夫でなかなか死なねえときた」
 「…………」
 「俺様は……お前とずっと、楽しい喧嘩を続けたかった。馬鹿で真っ直ぐなお前と死ぬまで遊んでいたかった……。……何もかも助けたがるお前に。少しだけ、回復するまでの間だけ……俺様のことだけを、見ていて欲しかった」
 大鬼の瞳に、遙か遠くの景色が映る。なぜか己にも懐かしいように思えて、ぼうとする頭で夫の頬に手を伸ばす。体温が高いオーガの皮膚にたどり着くまであと少しのところで、その手首を掴まれる。倍ほども違う大きさの手のひらが重なりあう。清一の手中へと、どこか温かな金属片が握らされた。欠けた片手剣の柄だとわかったとき———清一の瞳に鮮やかな群青が渦巻き始める。
 バルドは口惜しそうに低く唸る。
 ———瞬きの間に、失われていた理性の光がその目に戻ってしまう。
 「……糞。とんだ新婚旅行だ」
 「ぁ、あぁ、ああぁ……!!」
 その眼底に去来するのは、かつて剣を握っていた頃の記憶だった。自分は魔族ではない。人間だ。この地で育ち戻れなかった……———鬼に聞かされていた話と、記憶の破片がどんどんずれていく。番わされた夜、ヒーローだった過去、剣の鍛錬を繰り返した学生生活。しかしまだだ。違和感は取り払えなかった。まだ大事だったものがある。この男が返した記憶の他に、何より大事な記憶が、未だ丁寧に切り取られたままだ。
 清一は反射的に大男の横っ面を張った。あらゆる情報が握り込んだ剣の柄から清一に流れ込んできて、混乱から自然、批難の声が絞り出される。
 「っ返せ!!俺の、何を……!!取りあげたものを!返してくれっ!!」
 バルドの胸に掴みかかる。忘れちゃいけないものを、ようやくブルーは思い出した。しかし記憶を盗み取られた怒りよりも……この男に欺かれた悲しさが勝った。どうしてなのか、いいように心のうちを弄くられたことが、なんとも言えず胸を痛めつける。
 思い出せたのはヒーローとして戦っていたこと、このオーガが己の宿敵であったこと。そして魔界に連れられてからの、全てを忘れた安穏とした生活が追いついてくる。記憶の抜けはそれでも多い。……特に、魔界へ売り渡された日の前後を全く思い出せない。

 頬を張られたバルドはといえば、憮然とした表情で膝に捕らえた清一を見つめている。まるでいつかこうなることがわかっていたかのように、落ち着いた態度であった。
 「……悪かったな」
 「今更何を……っ」
 「約束を破っちまった。お前の古巣を危険に晒した」
 思い出せていない記憶の中で、黒く塗りつぶされた部分が疼く。バルドが空をなぞると、巻かれた羊皮紙がひらと一枚姿を表した。身体を離そうともがく清一の腰を引っ掴んだまま、大鬼は紙面の文字を読み上げた。魔界の古語だ。清一には聞き取れない。
 「わ、わかるように話せ!一体どうなってる?」
 「お袋さんの身柄の安全を、俺様は約束した。終戦協定が締結された当日……お前を確保したあの日のことだ。思い出せんと思うが、お前はいくつか条件を出して、俺様に魂ごと権利を引き渡した。まさか頭の中弄くられて娶られるはめになるとは考えもしなかったんだろう。俺様はお前の記憶を大なり小なり切り取って……完全に同族にするために、お前の家族に協力を仰いだ。青井雪乃、お前の養母にな」
 「お、俺は……人間だ……。魔族じゃない。母親……?俺に家族がいたのか?なんでそれを今更思い出させる!」
 バルドは羊皮紙をなぞる。端から溶けて失せた紙の代わりに、禍々しい黒煙を纏った小瓶が現れた。大男はそれを大きな手で摘まんで、清一の手に無理矢理握らせた。
 「契約上の保障だ。俺様じゃあ婆さんに渡せねえからな。お前が行って説得するしかない……すぐ行って、母親にそれを飲ませろ。できなけりゃ婆は死ぬ」
 小瓶には紫色の液体が波打っていた。視線を大男に戻し、清一は問うた。
 「死ぬ……?どういうことなんだ、説明しろ!」
 「お前の母親は、教会で火事に遭った。つい二三時間前のことだ。火傷が酷いうえに年もあってか治療が間に合ってねえ。……これ以上は後だ。礼拝堂に行け。早くしろ———間に合わなくなるぞ」
 ふらつく足取りで、清一は男から解放された。板張りの床を裸足のまま駆けだして、小瓶だけを握り締めて階段を駆け下りる。はやる足は不思議と行き先を知っているようだった。軋む木造の別邸を脱出して外へ出ると、空には病んだ赤い月と今にも消えそうな白い月が寄り添って下界を照らしている。

 庭園を抜けて教会の戸を開くと、古びた長椅子に、誰かが腰掛けていた。簡素なつくりの教会だ。女神像に、祭壇と、二列に整えられた長椅子が八脚。
 清潔な冷気が満たされていて、嫌に静かだ。誘われるように、人影に近寄っていく。
 接ぎの目立つ修道服に、年老いて小さな背中。
 「……あらまあ」
 嬉しそうな声が戸惑う清一を出迎えた。振り返った老女は、懐かしいものを見るように清一を見つめ、隣を勧めてきた。夜の礼拝堂は独特の雰囲気を醸しているが、この人のまわりだけ空気が温かい。初対面の老婆に戸惑う清一の手を引いて、半ば押し切られる形で二人は横に並んだ。
 老婆は口ごもる青年に少し考えたあと、思い出したという仕草で膝に抱えていたバスケットを手渡した。
 「本当に良かったわ。預かっていると言ったのに、このままだと……。困っていたの」
 青年は促されるままにバスケットを開け、動きを止めた。静かに寄せられた眉は次第にハの字を描き、追憶に揺れる瞳が潤んでいく。籐で編まれた籠の中には、いつかの夢で見た薔薇が大事そうに仕舞われていたのである。
 (夢なんかじゃなかった)
 脳裏に夢魔の姿が蘇る。夢魔は人の夢を行き来する魔族だという。あのとき自分はこの人を夢に招いたのだと、言葉もなく青年は悟った。家族の記憶を取り除いたのは母だったのだ。おそらくそれが自分を気遣って為されたことだというのも、察しがつかないほど愚かではなかった。
 「大きくなりましたね、清一」
 「……っ、……はい……」
 「立派になったわ」
 「ごめん、ごめんなさい……俺は……!」
 「謝るのはこちらの方です。本当に苦労をかけました……おかえりなさい、清一」
 長きにわたる別離の壁は存在しない。雪乃は安心したように笑みを浮かべる。唇を引き結びながらぼろぼろと涙を溢す息子の手を、彼女はようやく握ることができた。

 それから二人は少しばかり話し合った。
 本当は老女の夢を滞在先に据えた、清一の里帰りがもっと先に計画されていたこと。バルドの屋敷が壊れたので、計画が前倒しになったこと。前々から鬼の部下が何度か尋ねてきては、清一の安全を知る機会に恵まれたこと。食料の配給と資金の援助によって、孤児達はおおかた安全な町への引き取り手が見つかったこと……オーガたちの護衛があらゆるものから孤児院を含め町人全体を守ってくれていたこと。
 ———そして現実では、もう彼女の身体は焼け焦げて、機能していないということも。
 事件があったのはつい先ほどのことらしかった。血相を変えた清一が、剣呑な声で詰め寄ってくる。
 「火を放ったのは誰、ヒーロー協会ですか?それとも俺に同族を殺された魔族ですか?何か覚えていることは……」
 「余市さんです」
 青井雪乃は淡々と答えた。
 「……余市って、二軒さきの」
 「いつものようにやってきて、説教を聞いたあとでした。持っていた包丁で私のお腹と背中を刺したあと、彼は油を撒いてマッチを擦った」
 すぐに護衛見回りのオーガ衆がやってきて男を引き剥がしたが、火傷はともかく刺し傷はどうにもならなかったという。魔術が使える者が治療にあたろうとしても、老いた身体には複数の刺し傷を癒やせるほどの生命力は残されていなかった。
 あまりのことに清一は声がでない。下手人は母の説教を毎日のように聞きにきて、ままならない生活の助けを乞うていたただの町人だ。記憶の中の余市は気が弱くてどこか危うさを感じさせる所はあれど、修道院の子どもにだって優しい人だった。……ずっと助けてきた町の者に、理由も無く母は害されたことになる。
 「彼を支えきることは、どうにも難しかったらしいわ」
 泣かないの、そう言って老女は、絶句する清一の目元を手で拭ってくれた。母の手に体温はなく、それがいっそう清一の絶望を深くする。
 「で、でも、これを飲めば助かります!バルドがくれた薬です、すぐ飲めばきっと間に合うから……!」
 「……だから彼はお前をここにやってくれたのね。私が受け取らないものだから」
 結論から言えば、彼女は薬を受け取らなかった。
 涙ながらに懇願する清一に言い聞かせるように、はっきりと拒絶の言葉を口にする。
 「もう寿命だったのよ。それに、最後まで息子に迷惑をかけるわけにはいきません」
 「俺は、そんな……」
 「……その薬はね。お前の夫の寿命でできているの」
 お前には言わなかったのね。そう言って雪乃は笑う。安堵したような笑みだった。
 「少々乱暴だけど。いいひとを見つけましたね。万が一にもあの男がお前を残して先立つことのないように、その薬は受け取れません」
 「……もう、もう……俺にはわからない……あいつ、そんなこと一言も……」
 清一は、震える手をどこにやればいいかもうわからなかった。様々なことがありすぎて、おろおろ情けなく狼狽えることしかできない。青年の肩に、骨張った細い腕がまわされる。やっとこうすることができた。酷い夜だというのに、母は至極満足そうであった。清一とて元は戦場を駆けた一人の兵士である。嗅ぎ慣れすぎた死の匂いが、母の背には濃く染みついていた。
 「惜しまれる最後というのは……いいものですね」
 「……こんな……俺は今まで何のために……!!」
 「やさしいこ。本当に、みんな……いい子たち……。ああ———もう、時間だわ。……息子よ、最後に……頼みたいことが、あるのです……」
 鼻を啜る清一に、雪乃は耳打ちをする。息子が確かに頷くのを見届けると、修道女は光に溶け落ちて眩い銀糸となり———雪のように、泡沫の夢から退去していった。
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