75 / 117
金継ぎの青 下:ブルー編
ふたり
しおりを挟む
がたがたと、窓枠が揺れる。
それは庭園用の農具が詰められた小さな納屋だった。小さな納屋の隅に、蹲るようにして更に小さな影が膝を抱えていた。
誰もいない。
誰も僕を探しにこない。
「あれ」が———どこを探しても、見つからない……。
約束を破ったから、自分は罰を受けるのだ。見つけに来てくれる人はもういない。
この町にやってきた夏。手癖のように物を盗んでは納屋に隠した。窓の外ではひぐらしが鳴いている。
この町で生きていたくなかった秋。みんなの遊びに混じることが憚られて、ここに隠れた。薄い硝子窓には、紅葉の赤が映り込む。
この町から出ようと決心した冬。少ないおやつを袋に詰めては、農具の後ろに隠して時を待つ。外は白い。暗い小屋の中で、雪の白さだけが窓から差し込んでいる。
春になったら、きっと出て行く。そう決めていたのに、毎年の冬は厳しくて、ひもじさに負けていつも袋を空にしてしまう。来年こそ、そう思いながら幾度もその愚を繰り返した。
……春が、来たら。寒い氷雨から出て行ける筈だった。それなのに、いつの間にかずぶずぶと、自分は大人になってしまった。
春は二度とはやって来ない。手が「あれ」を探すけれど、いつの間にか何処かへ失せてしまって、何年も探したけれど……ついに見つかることはなかった。しっとりと手に馴染むあの重しが恋しい。
納屋のまわりには、纏わり付くように幾つかの影がへばりついている。それらは入り口を探しているようだった。低い地響きが、ここまで響いてくる。
『かね、かねをぉ、』『よこせよぅう』田代さんだ。
『どこにいった、にく———。』『そこにいるんだロ、ォを』役場の先輩。
『かえれるかエれかえせぇえ』『にくを』『よこせ』……誰なのか、重複する声の主はわからない。
小屋を取り巻く寒さが酷くなった。窓の外には雪が降っている。覗き込む目とかち合わないよう、身を縮こまらせて死角に身を寄せる。しかし、大きくなりすぎてしまった図体は、もう農具の影には収まりきらなかった。鋤の倒れた音に触発されて、影のざわめきが激しくなる。喜一は薄い壁が軋む音から悟る。夢の終わりがやってくるのだ。
———響いてくる呻きが大きくなった。いよいよ納屋ごと潰されそうな軋みに背筋が竦むけれど……一向に影たちが屋内へ侵入してくる様子はない。がさがさと膿んだ肉の塊が壁の向こう側を這いずって、彼らは小屋の外にいる何かを威嚇している。一際大きく威嚇の雄叫びが響きわたり———ついに小屋の一角が内側にへしゃげて、喜一の頬を木片が掠める。視界が開けた。弱々しく光る月が魑魅魍魎を照らし出す。
化け物共は全体重をかけた跳躍で、喜一とは別の生き物に躍りかかった。
夜闇に目をこらすまでの数秒。月の光を受けて、血の滴る剣先が怪物の背から天に背を伸ばす。……既に勝負はついていた。腐った汚泥はばしゃばしゃと剣士の足下を汚して、未練がましく庭園の染みに消えていく。剣を携えたその人は———一突きにした何かを拾い上げる。
「……あ」
本革の野球ボールだった。二つに裂かれた内側から、ぼろぼろと劣化したコルクが零れ落ちている。喜一は小屋の外に出た。ボールの残骸を、懐かしい背中が拾い集めて、喜一の手に戻す。
「遅くなってごめんな」
誰あろう兄がそこにいた。持っていた一降りの剣を地上に放ると、彼は迷わず喜一の手を握る。兄の手は温かかった。記憶の通りの彼が目の前に立っている。
「…………夢?俺、約束破ったのに。兄貴がいる」
家を守れなかった。母を守れなかった。頼まれていたのに、兄に石まで投げたのに、駄目だった。だからボールが見つからないのだと、喜一はずっと悔やんでいた。
「……そうだ。これは喜一の夢だよ」
だから行こう。手を引かれて歩き出す。兄の背中は……石で打ったあの夜と同じだったけれど、髪の色は元の漆黒に戻っていた。
「どこへ行きたい?喜一の好きなところへ行こう」
「いいの?帰らなくてもいいの」
「いいんだ。……やっと気づいたけど、俺たちは、どこへ行ったってよかったんだ」
手を引かれて雪道をゆく。月は重なり合い、一つに戻りかけている。夢路をいく二人ぶんの足跡が、先の見えない春まで続いていた。
それは庭園用の農具が詰められた小さな納屋だった。小さな納屋の隅に、蹲るようにして更に小さな影が膝を抱えていた。
誰もいない。
誰も僕を探しにこない。
「あれ」が———どこを探しても、見つからない……。
約束を破ったから、自分は罰を受けるのだ。見つけに来てくれる人はもういない。
この町にやってきた夏。手癖のように物を盗んでは納屋に隠した。窓の外ではひぐらしが鳴いている。
この町で生きていたくなかった秋。みんなの遊びに混じることが憚られて、ここに隠れた。薄い硝子窓には、紅葉の赤が映り込む。
この町から出ようと決心した冬。少ないおやつを袋に詰めては、農具の後ろに隠して時を待つ。外は白い。暗い小屋の中で、雪の白さだけが窓から差し込んでいる。
春になったら、きっと出て行く。そう決めていたのに、毎年の冬は厳しくて、ひもじさに負けていつも袋を空にしてしまう。来年こそ、そう思いながら幾度もその愚を繰り返した。
……春が、来たら。寒い氷雨から出て行ける筈だった。それなのに、いつの間にかずぶずぶと、自分は大人になってしまった。
春は二度とはやって来ない。手が「あれ」を探すけれど、いつの間にか何処かへ失せてしまって、何年も探したけれど……ついに見つかることはなかった。しっとりと手に馴染むあの重しが恋しい。
納屋のまわりには、纏わり付くように幾つかの影がへばりついている。それらは入り口を探しているようだった。低い地響きが、ここまで響いてくる。
『かね、かねをぉ、』『よこせよぅう』田代さんだ。
『どこにいった、にく———。』『そこにいるんだロ、ォを』役場の先輩。
『かえれるかエれかえせぇえ』『にくを』『よこせ』……誰なのか、重複する声の主はわからない。
小屋を取り巻く寒さが酷くなった。窓の外には雪が降っている。覗き込む目とかち合わないよう、身を縮こまらせて死角に身を寄せる。しかし、大きくなりすぎてしまった図体は、もう農具の影には収まりきらなかった。鋤の倒れた音に触発されて、影のざわめきが激しくなる。喜一は薄い壁が軋む音から悟る。夢の終わりがやってくるのだ。
———響いてくる呻きが大きくなった。いよいよ納屋ごと潰されそうな軋みに背筋が竦むけれど……一向に影たちが屋内へ侵入してくる様子はない。がさがさと膿んだ肉の塊が壁の向こう側を這いずって、彼らは小屋の外にいる何かを威嚇している。一際大きく威嚇の雄叫びが響きわたり———ついに小屋の一角が内側にへしゃげて、喜一の頬を木片が掠める。視界が開けた。弱々しく光る月が魑魅魍魎を照らし出す。
化け物共は全体重をかけた跳躍で、喜一とは別の生き物に躍りかかった。
夜闇に目をこらすまでの数秒。月の光を受けて、血の滴る剣先が怪物の背から天に背を伸ばす。……既に勝負はついていた。腐った汚泥はばしゃばしゃと剣士の足下を汚して、未練がましく庭園の染みに消えていく。剣を携えたその人は———一突きにした何かを拾い上げる。
「……あ」
本革の野球ボールだった。二つに裂かれた内側から、ぼろぼろと劣化したコルクが零れ落ちている。喜一は小屋の外に出た。ボールの残骸を、懐かしい背中が拾い集めて、喜一の手に戻す。
「遅くなってごめんな」
誰あろう兄がそこにいた。持っていた一降りの剣を地上に放ると、彼は迷わず喜一の手を握る。兄の手は温かかった。記憶の通りの彼が目の前に立っている。
「…………夢?俺、約束破ったのに。兄貴がいる」
家を守れなかった。母を守れなかった。頼まれていたのに、兄に石まで投げたのに、駄目だった。だからボールが見つからないのだと、喜一はずっと悔やんでいた。
「……そうだ。これは喜一の夢だよ」
だから行こう。手を引かれて歩き出す。兄の背中は……石で打ったあの夜と同じだったけれど、髪の色は元の漆黒に戻っていた。
「どこへ行きたい?喜一の好きなところへ行こう」
「いいの?帰らなくてもいいの」
「いいんだ。……やっと気づいたけど、俺たちは、どこへ行ったってよかったんだ」
手を引かれて雪道をゆく。月は重なり合い、一つに戻りかけている。夢路をいく二人ぶんの足跡が、先の見えない春まで続いていた。
14
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる