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翡翠挽回 上:グリーン編

緑衣の怪物

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 バーテン服の彼は、嘉名をリスノワの裏手に位置するゴミ捨て場へと誘導した。人間界の繁華街とさして変わらず、建物に挟まれた狭い路地には回収を待つ生ゴミの饐えた匂いがかすかに漂う。
 護衛のオーガはぎりぎり攻撃の届く範囲でこちらを睨んでいる。同じ距離に付き人を立たせ、嘉名は悠々と目当てのもとへ向かった。
 「……久しぶり、と……普通に言いたかったよ」
 「あっれぇ、何か怒ってます?怖いなあ」
 かつての群青色はすっかり抜けきっている。青年は短く切り揃えられた黒髪を眩しそうに見上げた。彼が襲名したのは十八のときだ。一歳年下で役をこじつけられた自分と頭一つ分の身長差があった。時を止められたお互いの、身長差が埋まることは永遠にない。
 「先輩変わりましたね。黒髪のほうが似合ってますよ。心なし筋肉量増えました?」
 「その先輩というのもやめろ。……思ってもないだろう」
 「心外だな。そんなふうに思ってたんですか」
 養成所での修行期間を含めれば確かに彼は先輩だ。嘉名の姓をもらいながらも、裕福な生家で着任寸前まで過ごすことができたミドリは長く訓練生であった経歴を揶揄ってそう呼んでいる。
 「……ていうか態度。忘れちゃいました?ブルー先輩の火消し、やってあげたのが誰だったか」
 精悍な顔が見る間に強ばっていく。協会斡旋の枕仕事を盛大に隠し撮りされた清一は、一時期表通りを歩くことができなくなった。ネット上に拡散された動画を掲載したサイトやアカウントを逐一潰して回らせたのはサイバー対策班を擁していた嘉名だ。
 「あの動画、やろうと思えば余裕で発掘できるんですけど。困るでしょ……旦那とか、息子クンに見られちゃったら」
 電子機器の普及が未発達な魔界にも記録媒体は存在する。飛行型モノアイに映像を見せれば焼き増しも可能だ。水晶伝いに流布させることも容易である。
 がたいのいい清一が唇を噛んで返事に窮している姿は、愉快の一言に尽きた。
 「な、何が目的なんだ……。もうあの件は思い出したくないんだ、何か気に触ったのなら謝るから……」
 「いやいやいや!勘違いしないで下さいよ。……僕はアンタを苛めに来たんじゃないんだ。これはとてもまっとうな、ビジネスの話」
 指先を擦り合わせて睨め上げる。あくまでオネガイの体で悪魔は囁いた。
 「――引き抜かれてくれますよね?海洋魔族の中枢。我がクラーケン・カンパニーへ」
 「何を言って……」
 言い淀み、少しの間頭を揺らした清一がうめく。
 「わ、わからない……俺の就職口を用意して何の得がある?俺たちは――助け合うような仲じゃなかっただろ」
 憎み合ってさえいた。清一は出会い頭に柔らかく辱めてくるこの男が苦手であったし、それは嘉名とて同じことだ。……ブルーが人間界と魔界の端境で侵入してくる魔族の掃討に追われる中、グリーンは内地で首都防衛任務についていた。境界線で排除しきれなかった魔族を探知し、見つけ次第排除する仕事だ。ブルーの仕事が荒いので尻拭いが大変だと、顔を合わせれば喜色を滲ませてこちらをなじった。
 「確かにねえ。先輩の尻拭いは毎回大変だったけど……こっちも人手が少なくて。大変なんですよ……多少仕事ができなくても、人間の配下が欲しい」
 肩をすくめて青年は清一を見た。
 「魔王軍幹部第五位のルブルを除いて、海洋議会の十三貴族を全員溶かしてやったんです。あいつらが悪いんですよ。たかが人間と舐め腐った態度だったもので」
 「ルブルはどうしたんだ。魔海の頭目が、そんな狼藉を許すわけがない」
 「ん……ああ、そいつですよ。配下を人質にとったら簡単に降伏しやがった」
 嘉名が顎でさすのはギレオの隣で待機していた付き人である。すっぽり被っている上着は黒いビニルの雨合羽に似ている。フードの下には黒いマスク。顎の形から男の魚人だと推測できた。ヒレつきの素足が2本、裾から伸びている。……よくよく目を凝らして、清一は口元を抑えた。
 「……うっ、――!!」
 認識に係る邪法が施されていたのだろうか。それを確かめる術はない。しかし、注視すると付き人の様相は一変して見えた。

 雨合羽に見えたそれは剥ぎ取りきらず宙ぶらりんになった皮であった。フードに見間違えた頭部の分厚い皮の下、口元は太い糸か何か、紐状のもので隙間なく縫い合わされている。マスクのように覆われた口腔の肉が、上下に身体を揺すぶる動きに合わせてぎちぎちと軋んでいるようだった。

 ギレオは気づいているのだろう。腰に下げたサーベルの柄をしっかりと握り、いつでも応戦できるよう意識を集中させている。今まで気づかなかった事が信じられない程の異様である。血が滴り落ち、鼻先へ腐敗の匂いがやってきた。
 あれが――ルブル。魔王軍幹部第五位に座す海洋魔族の王。
 「――ッお前は!何をやってんだ!!」
 澄ました元同僚の襟首を掴んで清一が叫ぶ。彼の王は死んではいない。だが生きている気配もない。魔術の類いで操作されているのだろう、今はただそこで怨みを溜めるだけの存在だ。時折もの言いたげに収斂する剥き出しの筋肉が、清一の背筋を凍り付かせる。
 「大きな声出すなよ。なに怒ってんの?口を塞がなきゃ安心できないでしょうが」
 「自分の立場を考えろ!!俺たちは保護観察下にある戦時犯罪者だぞ!!身元引受人に怪我を負わせて、停戦協定を反故にされたらどうするつもりだ!?」
 「どうって。――どうでも」
 嘉名の瞳には温度が感じられない。白々と、心底関心がなさそうに、ため息をついてさえ見せた。
 「ほかのひとなんか知らないよ。こいつを押さえてさえいれば、世界がどうあっても僕の地位は安泰だ。衣食住は勿論召し使いにも事欠かない。……理解してますか先輩。僕ら、生け贄にされたんですよ?」
 清一の手首を掴み、緑の瞳が睨め上げる。口惜しそうに。ぎりぎりと万力のように捻り上げて襟首から引き剥がす。
 「人間界の連中は僕らを代償に今ものうのうと生きている。あれだけ媚びへつらってきた下民どもが……。気持ち悪いですよ。戦後たった数年で、首都の餓鬼は学校に行って第二言語に魔界語を学び、馬鹿みたいな魔族人形の出てくる教育テレビを見て、家に帰れば暢気にヒーローごっこなんかしてる……。生理的にどうです。嫌じゃありませんか?僕はヤですね、虫唾が走る……もう一度あの時代に戻してやれるなら、戦争もアリかなって」
 「そんな事があってたまるか、ふざけるなよ!!」
 「もう一度言いますよ先輩。僕と一緒に来て下さい。戦争が起こる前に――アンタだけは、船に乗せてやってもいい」
 嘉名はこちらへ手を延べる。答えが返ってくることを疑わない様子で、真っ直ぐと。
 喉の奥に熱が溜まる。伸ばされた手を、間髪入れず清一は払いのけた。
 「願い下げだ。……俺はもう、こっちでやり直すと決めた」
 脅しかけるように嘉名の手が持ち上がった。禍つ指輪の填まった三本の指は二人の背後に控える護衛へ向けられる。
 「……無駄だ」
 「強がっちゃってさ。今度こそあの豚野郎、を――?」
 手の甲がギレオに向けられた時点で決着はついている筈だった。「流転の瞳」は海洋議会宰相が誇る秘蔵の魔術装身具である。それぞれに獣の瞳孔が彫り込まれており、三つ全てと目を遭わせた者は溶け、朽ちる。上級魔族であろうとこの呪いを防げるものはいない。真に恐ろしいことには、朽ち果てた肉体は指輪を嵌めた者の意のままに「生まれ直させる」ことができる。
 とっさに顔を背けた金髪の大鬼が慌てているが、本来それは全く意味のない防御であった。見つめるのは指輪たちだ。視線を逸らしてどうにかなるものでは――。
 「……傷?いつの間に、」
 嘉名は目をすがめて指輪を検める。三つ目に一閃、針の目よりも細い切り傷が走っていた。瞳たちは全て内側から砕け、今や只の鉱物として街頭の光を反射している。まじまじ見なければわからないが、呪物は完全にその機能を破壊されていた。
 「どこかに手をぶつけて壊したんじゃないか?自損事故だからな。店側での保証は致しかねる」
 「ふざけるなよ。アンタ以外に誰が――!!」
 「動くな。……手が滑る」
 カチ、と静かに刀身と鞘が合わさる音がした。……視線を追うと、ルブルを拘束する呪詛縄のうち、エラ周りを覆うものが切断されていた。ばっさり切り落とされた糸束が、ぱらりと間抜けな音を出す。嘉名は目を疑った。糸の切り口が落ちたのは目視で確認した直後だ。会話の最中に、目の前の自分に全く気取らせず清一は剣を抜いたことになる。
 ――いや、わからない、剣を抜く瞬間はまだしも。いつ剣を鞘に収めた?腕を上げる仕草さえ嘉名は認識できなかった。
 聞こえたのは、かすかに金属のぶつかる音だけだ。
 「……へええ……」
 引き攣り笑いを浮かべて嘉名は清一を見上げる。あの時だ。バーカウンターで護衛のオーガに仕掛けた瞬間に、この男は視認できない速さで仕事を終えていた。
 「学舎での仇名は冗句じゃなかったんですねえ。笑っちゃいそうな二つ名、いっぱい持ってたじゃないですか。最後の剣聖とか、首狩り清一とかァ……」
 「初耳だな。過去に拘る男は大成しないらしいぞ。俺はもう仕事に戻る、明日も食っていかなきゃならないんだ……主人を連れて帰れ、嘉名。轡の縫い目が解れぬうちに」
 嘉名にも留まるようゆっくりと、清一の指が剣の柄にかけられる。今度はルブルの口元を狙うと言っているのだ。沈黙を経て、路地裏に舌打ちが響いた。今奴の封を解かれると面倒だ。嘉名は見目麗しい顔を醜悪に歪めて捨て台詞を吐いた。
 「……また来ます。後輩として忠言しますが、アンタは必ず僕に降る。一度誘いを蹴ったこと、後悔しないといいですねぇ」
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