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翡翠挽回 中:グリーン編

コマンドミス

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 コールが三回繰り返される前に、嘉名は内線ボタンを押した。支配人の声は震えている。
 『嘉名様。申し訳ありませんが……』
 「また館替え?昨日来たばかりなんだけど」
 『あいすみません、当館の僕が尽きてしまいまして……もう動ける接客係がおりません。先ほど最後の奉公人が海へ還りました。……可能な限りお早く、ご移動を』
 「……おたくが世話してくれても構わないよ」
 嘉名の提案に数秒の沈黙が返される。絞り出された返事には明確に批難の色が浮かんでいた。
 『どうか遷座を願います。次の宿泊施設は使い魔に案内させます故』
 今すぐにと急かしたいのをどうにか抑えた様子であった。受話器を置き、黴の生えた長椅子に身体を放る。仰向けに見上げれば、腥い傷口を晒したままの死体が嘉名を見下ろしていた。

 ———思えばルブルはあっさりと、呆気ないほど無抵抗にその首を差し出した。配下に連なる十三貴族の代表達の存命を条件に命を落としたのである。嘉名は落とされた頸と、その胴体を言われるままに縫い合わせればよかった。呪禁を唱えられぬよう舌と思われるものを削いだ。与えられた縄で目、鼻孔、口と考えられる全ての穴を繕うた結果、この遺骸は復活することなく、只静かに起き上がってみせた。
 それから現状、死体は嘉名専用の魔力タンクだ。影のように付き従うエネルギー源。ルブルを通じて、連発すれば死んでしまう筈の技も無尽蔵に撃つことができた。嘉名は魔力の枯渇を気にせず魔界のどこへでも行けるようになり、殆ど無敵に近い力を手に入れたつもりでいた。
 ……異変を感じたのは遺骸を従えて間もなくのことである。
 深海から陸に上がり、宛がわれた魚人族の街へ拠点を移そうか考え始めた頃だ。逗留先に据えた宿屋の子供が行方不明となる事件が起きた。嘉名の飯を世話していた赤耳の魚人である。はじめは気にも留めなかったが、続けざまに宿屋の女将が姿を消した。宿のエントランスには木板の上でのたうったような痕だけが残されていた。
 「うみに、還ったんだ……」宿屋の主人は呆然と呟く。
 耳慣れない文句を繰り返し、それは神に捧げる言葉らしい。彼は翌日、妻子と同じ所へ還っていった。床に重なった三つの染みは、迷い無く海岸を目指していた。
 何度拠点を変えても同じ事が起きた。ルブルの領地は赤く濁った魔海とその周辺、海岸沿いにできた魚人族の街である。海辺から遠ざかるほど事態は深刻化した。遺体の周辺にいた者達は唐突に気が触れ、海へ還っていく。例外なく。種族も年齢も、男も女も関係なく———エラを持つ異形となって海に戻っていくのだ。
 数日ごとに拠点を変えてきたが、影響が出るまでの速度が確実に速まっている。
 この遺骸は非常に、よろしくない。間違いなく事態の震源地だ。
 「ったく面倒くさいったら……。おい、鈍間。荷造りやっとけよ」
 青年は寝転がって乱れた髪を結い直すと、元凶である死肉に指令を出した。天に吊られたように棒立ちになっていた彼の、脂が浮いた触腕が持ち上げられる。匂いが気になったのは最初だけだ。最近は腐肉が溶け崩れる悪臭も気にならない。
 「かゆ……」
 細い首の下。チョーカーに覆われたそれが存在を示すかのように、疼く。



 荒れ地の中心にぽつんと浮かぶ小さな陸の孤島、魔界全土に比してその一割にも満たない人間界の臍。さらにその中央、霊峰に戴くよう建造された都市部は、俯瞰すれば銀細工の王冠にも見えた。建設当時の記念絵画を見るに、その推測は正しかろうと嘉名は思う。首都はかつて聖域であり礼拝のための箱庭であった。人々は各地から銀冠都市へ巡礼に訪れた。当時まだ丈夫ではない吊り橋を渡り、山や谷を越えて遠路はるばる霊峰へ登ることが信仰の証とされた時代。魔物を始めとする外敵から民を守るヒーロー達は神の遣いとして英雄視されてきた。
 ……数百年をかけて冠は傾いた。人口の増加に伴い無計画な建て増しを繰り返したせいだ。旧聖域は各国特権階級の居住区とされ、人間国際防衛軍とヒーロー協会の中枢、その家族の移住に併せて増改築が押し進めている。白銀の外郭は数百年かけて輝きを喪った。……そう考えるのは嘉名だけではないだろう。しかし口に出す愚か者は、都市部に長く住むことはできない。
 ———箱庭の内は光で満たされていた。×××××という少年は、心地良い陽だまりでぬくぬくと生まれ育った生き物であった。
 「大きくなったらヒーローになる!!」
 子供達は希望に満たされて育つ。実際都市部上層に住むことを許された階位の子供は、全体から見れば幾分夢を叶える可能性に恵まれている。ヒーローは名誉職だ。人間界ではその名の通り英雄として珍重される。しかし金だけ積めばなれるものではなく、叙任式に至る道程には十の試練が待ち受けている。ヒーローに欠員があれば協会主催で毎年選抜試験が開催され、その機会は万民に認められていた。かつて魔界にほど近い田舎街から抜擢されたヒーローの実例がある。彼女は緑衣を纏うことを許され、都市部に一族を呼び寄せ生涯栄光に満ちた人生を送った。……嘉名の先祖を遡ると、御伽噺の彼女に行き当たる。
 貧乏暮らしから一発逆転、夢のようなサクセスストーリーだ。
 少年も他の子供の例に漏れず、英雄になることを願った。テレビの向こうではヒーロースーツの美男美女が、コミカルな怪人の着ぐるみをやっつけている。ヒーロー人形を抱えて子供は興奮気味に喚く。
 「僕レッドになりたいな。やっぱり一番がかっこいいし、ビームが撃てるの最高だもん。ブルーも嫌いじゃない。イエローとピンクはちょっと地味だからイヤ。……グリーン?ええ、だってさあ」
 曾婆ちゃんと一緒は嫌だった。何しろ蝶よ花よと育てられた為、自分は特別で世界に愛された存在だと少年は信じきっていた。
 幼子が駆ける。真白の回廊を無邪気に駆けていく。
 居住区を視察に訪れた「それ」を追いかけ、大人のごつごつした手にしがみついた。目当ての彼が歩みを止め、不思議そうに後ろを振り向く。自分を認めたときの優しげな顔つき。きっと願いを叶えてくれる。
 嘉名碧になる以前、幼い子供が紅衣の彼に訴える。
 「———ぼく×××××。ヒーローになりたいんだ!!」
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