さようなら竜生 外伝

永島ひろあき

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魔血女王

さようなら竜生 こんにちは人生 外伝 魔血女王

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 ドランとクリスティーナとエドワルド達がワーグレールに帰還し、駐留している軍司令部やガロア魔法学院長オリヴィエに天空都市スラニアで起きた異変について説明をしていた頃、アークレスト王国南方にある別大陸ではこのような物語が綴られていた。



 夜の闇の訪れは、人々が昼に見る世界が幻だったとでも言うように世界を変えて見せる。
 朝露に濡れる木々の葉の緑も、降り注ぐ陽光に煌めく川面も、馥郁たる花々と緑の香りを運ぶ風も、生と死の連鎖する生物の営みも昼と夜とでは様相を異なるモノへと変える。

 鼓膜を絶え間なく震わせる得体の知れぬざわめきが、夜を渡って来た風が枝葉を揺らした音と分かっていても、それを耳にした者の心に理屈で抑えきれぬ恐怖が湧きおこってしまうのはなぜか。
 降り注ぐ月と星の光では到底払拭しきれない闇の中に、見通せぬ世界に相応しい得体の知れない怪物が潜んでいないと、一体誰が保証出来よう。

 影と闇と黒とが形作る夜の闇と言う世界の中を、一人の男が走っていた。折り重なる木々の天蓋から差し込む月光が、時折男に触れて荒い息を吐くその姿を暴き立てた。
 短く刈り込んだ金色の髪の下の顔は彫り深く、目鼻顔立ちはなかなかに整っているが、精悍な印象の方が強い。まだ若く二十をいくらも越えてはいないだろう。
 昼の世界でなら若さゆえの無鉄砲さとそれを補ってあり余る勇気と活力が、全身に眩い生命の輝きを纏わせるに違いない。

 若者は右手に鈍い銀色に輝く長剣を、左手には円形の鉄の盾を構え、それから全身を守る深緑色の甲冑を頼りに、およそもっとも似合わぬ黒に塗り潰された世界を行く事を強いられている様だった。
 一歩進むごとに生い茂る背の低い木々や茂みが甲冑に触れ、耳障りで更に心の水面に不安の波を立たせる音が夜の静寂を乱暴に打ち破っている。

 夜の静寂を殊の外愛でる詩人がこの場に居たら、血を吐くまで呪いの詩を綴って若者に投げつけたかもしれない。
 だが若者には夜の静寂を愛でる余裕を持ち合わせてはいなかった。若者の血走ったこげ茶色の目が忙しなく四方の闇を見回し、今にも闇の中から飛び出てくるかもしれないナニカに備えている。

「ニック、ニック! どこだ、居るなら返事をしろ!」

 ニックという誰かに呼び掛ける若者の声は、恐怖と不安と焦りと心配を孕んでいた。
  風に乗る木々のざわめきを上回る大声は夜闇の魔性共を引き寄せてしまうだろうが、若者は魔性を引き寄せる危険よりも探し人を見つける事を優先した。

  若者の声は糸のように細い月光だけでは到底見通せない闇の向こうまで響き渡ったが、ニックからの返事は無い。
  がさがさ、がさがさ、と老人が幼子を戒める為に語る昔話のように若者の背後で茂みが揺れる。

「ニックか?」

 背後を振り返った若者が揺れる茂みの向こうへと問いかけるが、こちらに声をかけるでもなく返事も無い事から、ニックではないだろうとほぼ確信していた。
 意思に応じて肉体も動き、茂みへと向けて左半身を前に出して盾を突き出し、長剣を腰だめに構えている。
 どっしりと重心が安定し、踵を浮かせて前後左右どこへでも瞬時に動ける構えは、この若者が日々滝のような汗を流して鍛錬に励んでいる事を伺わせる。

 はたして茂みの向こうからいらえはあった。茂みの向こうから弾丸の如く影が飛び出して来たのだ!
 天蓋を縫って降り注ぐ月光に一瞬だけ姿を見せたのは、ごっそりと体毛が抜け落ち、所々で皮膚も破れて骨や青黒く変色した内臓の覗く犬の死体であった。

 既に生命の炎は消えているにも拘らず、眼球の無い左右の眼窩には小指の先ほどの青い炎が揺らめき、骨が剥き出しになった口からは冥界に吹く風のような細い息が漏れている。
 死者を操る死霊魔法ネクロマンシーか死体に悪霊が憑依するかして、動く死体――ゾンビーと化した犬であった。

「糞犬め、大人しく死んでろ」

 若者は悪罵を放って萎縮しそうになる戦意を維持し、こちらの喉笛を狙って跳躍したゾンビードッグに対して、前面に掲げていた盾でその鼻面を思いきり殴りつけた。
 肉の大部分が無くなったとはいえそれなりの質量を持った物体を殴った反動が、じん、と腕に伝わる。
 鉄の盾はゾンビードッグの鼻面の辺りの骨を砕き、地面に砕けた骨や牙がバラバラと落ちる。

 ああ、どうして死体にも関わらず、ギャン、とこればかりは生きていた時と変わらぬ悲鳴を上げるのか。
 緑の苔が繁茂する地面に叩きつけられたゾンビードッグが体勢を立て直すよりも早く、若者は駆け寄って長剣を何度も叩きつけた。

 ゾンビードッグの四肢を斬りおとし、それから斬ると言うよりも砕く事を意識して五体を破壊して行く。
 自然なる生命ならばその命の炎が消える傷を受けても、ゾンビーでは痛みや恐怖を感じる事も無いし、失うべき命も無いから動く事を止めはしない。
 何も出来なくなるように細かくばらばらにするのが最善手なのだと、若者はここ数日の体験から理解していた。理解せずに済んだならどんなに良かったかと、痛切に思うが。

 ようやくゾンビードッグをほぼ原形を留めていない状態まで壊しきり、こちらに危害を加えられなくなったのを確認してから、若者は長剣を動かす手を止めた。
 この装備のまま全力疾走をした後のように息は荒く、肺は新鮮な酸素を求めて痛いほどに膨縮を繰り返している。
 顎を伝った汗の粒がひとつふたつと、ゾンビードッグの残骸と体液とに濡れる地面に滴り落ちた時、若者の耳は不穏な音を聞き取り、肌は不穏な雰囲気を敏感に感じ取った。

 ゾンビードッグはあくまで猟犬の代わり。獲物を見つける事と獲物の居場所を主人に知らせる事が役目だ。
 そして獲物である若者はすでに見つけられた。ゾンビードッグとの戦いは、こちらの位置を教えるのに十分な騒動であっただろう。
 黒い柱としか見えぬ木々の合間を縫って、死せる馬に跨った五騎の騎士が二十を越える兵士を伴ってこちらへと向かって来ている。

 逃げられない、これはもはや明確な事実であった。若者の心には名誉ある戦いでは無く、死者達に葬られて彼らの仲間へ加えられる事への怒りと悔しさばかりがあった。
 それでもと盾と長剣とを構え直し、今ある命の炎が消えるまで戦い抜いてやる、と瞳に決意を輝かせる若者の前で、死せる兵士と騎士達が動きを止める。
 兵士も騎士も馬でさえも呼吸一つしていない。
 彼らには既に不要な事なのだ。動く死人は呼吸も食事も睡眠も、およそ生命を維持する為に必要な行為とは無縁の存在なのだから。

 兵士や騎士達の装備は、長く土の中で眠り肉を蛆虫に食べられていた死者に相応しからず、若者の所属する王国の一流のそれと比較しても遜色が無い。
 若者を中心に兵士達が四方を囲いこみ、騎馬の上の騎士達はと言えば、縦に細長いスリットが何本も走った庇の奥の濁った瞳で若者を見ている。

 騎士達にはある程度の判断能力はあるにせよ、基本的にゾンビーはその製造者からの命令を受けて動く極めて受動的な意志なき存在だ。
 そして製造者から騎士達に与えられた命令の一つは、生ある者の殺害であった。

 兵士達は全員が鋼鉄の槍と長剣とを携帯しており、一糸乱れぬ動きで若者へと槍の穂先を向ける。
 見事に統率された動きは、兵を教育する立場にある者ならば、理想とする光景の具現に思わず羨望してしまいそうだ。

 騎士達の内、兜に猛禽類の尾羽を刺した筆頭らしい騎士が右手を上げる。
 それを振り下ろした時が若者に対する死刑執行の合図だ。
 若者はひりひりと焼けつくように乾いた咽喉を鳴らし、唾を飲んだ。
 他の兵士達は全て無視だ、あの糞生意気な騎士の首を刎ねてやる、と決意した。
 まず無理だろうが、それでも一太刀浴びせなければ死んでも死にきれない。

 砂上の楼閣のように脆い均衡は、しかし若者でも死者達でも無い第三者によって破られることとなった。
 風が吹いた。夜の風、死者の風、闇の風。この夜に吹く風のどれもが怯えて吹く事を拒否し、動く死体さえも緊縛する鬼気を含んだ風であった。

 若者も騎士も兵士も馬でさえもとある一角を見た。
 木々の天蓋を頭上に戴き、周囲には深い闇を侍らせて、一本の大樹の下にソレは居た。
 真っ黒い毛並みに炎のような白い鬣、そして六本の足を持った巨馬に跨った人影だ。
 大輪の黒薔薇のコサージュを縫いつけた鍔の広い帽子を目深に被り、月光の粒に飾られた紫銀の長髪が滝のように流れている。

 周囲の闇を布地と変えて仕立てたように黒いマントと、同じ布地のジャケット、シャツ、ズボンを纏い、膝丈の黒い革製のブーツを履いている。
 ジャケットの左胸には帽子同様に黒薔薇のコサージュが飾り付けられ、ベルトにはやはり薔薇の刻印が施された黄金のバックルが嵌められていた。
 そして左腰には、それなりの町の鍛冶屋や武具屋へ行けば手に入るありふれた拵えの長剣が下げられている。この長剣だけがこの人影に相応しくない並みの品だ。

 恐るべき風を吹かせたのはこの黒と薔薇とに飾られた騎手であった。
 だが真に若者と死者達の肉体を骨から緊縛し、精神を凍てつかせたのは騎手の放つ鬼気ばかりでは無かった。
 赤く染めたジゴクカイコの絹のスカーフで顔の下半分を隠しながらも、死者にさえ分かったのだ。この騎手のこの世の者とは思えぬ、在りうべからざる美貌を。

 スカーフと帽子の間に垣間見えるわずかな鼻梁の線と目鼻の配置、窺い知れるたったそれだけの事で、若者は騎手がおとぎ話の中にしか存在しない姫君ではないかと思った。
 纏うのは宝石に飾られたドレスでは無く黒を主体とした男装で、跨っているのも穏やかな気性の白馬などでは無く、途方もない威圧感を持った巨馬であるというのに。

 若者と死者達が騎手の素性を問う間もなく、騎手が跨る六本足の魔馬スレイプニルの腹を蹴った。
 戦う気だ! 若者の脳裏に稲妻の如く閃いた思考が正しかった事は、騎手が若者を無視して最も近い兵士へとスレイプニルを走らせた事で証明された。

 騎手から新たに放出された無色の闘気に、死者達の緊縛が解かれる。
 兵士達は再び一つの意思に統合されたかのように乱れの無い動きで、騎手へと鋼鉄の槍を向けて囲い込む動きを見せる。
 いかな魔馬を駆るとはいえ四方を囲まれては串刺しの運命は免れない、と若者が目を見張った瞬間、世界を横断する光が走った。
 光と同時に空中に舞う物がいくつもあった。それは光によって断たれた穂先の数々だ。

「鋼鉄の槍を、断ったのか……?」

 呆然と若者は呟いた。
 ありふれた長剣で鋼鉄の槍を断った騎手の人外の技量もさることながら、いつ腰の長剣を抜いたのか若者の目は捕捉する事が出来なかったのだ。
 穂先に続いて兵士達の首も尽く舞った。騎手は槍ばかりでなく死者の首さえも斬っていたのか、と若者は更なる驚きに見舞われる。
 若者が見えなかったのは一度の斬撃ではなく、二度の斬撃だったのだ。

「だめだ、そいつらは首を斬ったくらいじゃ死なない!」

 既に死んでいる者に死を、というのもおかしな話だが、焦りに塗れて忠告する若者の言葉は騎手に届いていただろうが、騎手は一瞥を向ける事もしない。
 その代わりにその場でどどっと音を立てて倒れ込む兵士達が答えであった。
 兵士達は騎手の長剣に斬られた瞬間、その死せる体を動かす呪わしき力も同時に斬られて消滅し、二度目の死を迎えたのだ。

 騎手がスレイプニルを走らせて十と数える間もなく二十体の兵士は全滅し、騎手は残る死人の騎士達へと挑みかかる。
 騎士達は単に死者を動かしているゾンビーの兵士達とは異なり、特殊な素養を持った死体を媒体に造り出されたデスナイトと呼ばれる上位のアンデッドだ。

 死霊魔術師ネクロマンサーの技量と魔力にもよるが、デスナイトは少なく見積もっても生きた騎士十人分以上の戦闘能力を有する。
 高位の死霊魔術師が造り出しとなれば、戦闘能力は二十人分、三十人分と加速度的に増す。
 ただの五騎の死せる騎士では無い。一騎当百にもなりうる恐るべき死の騎士たちなのだ。

 デスナイトが騎馬の鞍に括り付けていた長槍を、あるいは騎乗槍を、あるいは弓を構えるのにも構わずに騎手は行く。
 待ち構える死の体現者達に恐れなど欠片も無いと、その背がなにより雄弁に語る。
 ただ見ているばかりでは、と若者がなけなしの勇気を振り絞って騎手に加勢しようとした時、正しく眼にも映らぬ速さで騎手の長剣が閃き、折り重なった剣閃はさながら空中に裂いた月光の花のような軌跡を若者の網膜に焼き付けた。

 そう、兵士に留まらず恐るべきアンデッドである筈のデスナイトでさえ、騎手の刃の前には身動きのできない案山子にも等しく、若者が一歩を踏み出す間に乗っていた馬ごと真っ二つにされて、地面にもの言わぬ骸へと戻って転がってしまった。
 騎手は長剣を腰の黒い金属製の鞘に納めると、馬首を巡らせて若者へと振り返る。
 若者は体を強張らせた。騎手は死者達を再び安らかな眠りにつかせこそしたが、だからといって自分の味方とは限らない事に、ようやく思い至ったのである。

 デスナイトや兵士達を相手にした時と異なり、若者は目の前の美しすぎる騎手へ一矢向かわんという気概を抱く事が出来なかった。
 同じ世界の生物とは思えぬほど桁外れの戦闘能力もさることながら、月の女神かと見紛う美しいこの騎手になら殺されても良い、と自らの死を厭わぬ誘惑に駆られていたからである。

「もう大丈夫ですよ、こちらへおいでなさい」

 先程までの苛烈とも凄絶とも形容し得る戦いとは裏腹に、スカーフの奥から聞こえて来た騎手の声はその戦いぶりにそぐわぬ優しい響きを持っていた。
 若者は一瞬自分に声が掛けられたのかと心臓を高鳴らせたが、それが勘違いである事は騎手の視線を追えばすぐに分かった。騎手は若者の背後へと赤い瞳を向けていたのである。

 若者が騎手の視線を追った先に姿を見せたのは、何度も継ぎを当てた麻のシャツとズボンを纏った十歳頃の少年だった。
 さほど肉付きは良くないが健康を損なっている様子は無く、月光の薄明かりの中でも太陽のような輝きを思わせる溌剌とした印象が強い。

「ニック、ニックじゃないか。お前、何処に行っていたんだ!」

「ガランドさん」

 少年は若者――ガランドが死者の跋扈する森の中で探し求めていたニックだった。
 ニックは若者ことガランドの姿にほっと安堵の息を吐いて、森の寒気に赤らめた頬を緩める。

「ごめんなさい。ばあちゃんの腰痛に効く苔を取っていたら犬の死体に追いかけ回されて、逃げている間に迷子になっちゃったんだよ。
 でも危ない時に、その人が助けてくれたんだ。すごく強いんだぜ。
 あっという間に犬達を追い払って、その後に出て来た色んな死体もあっという間にやっつけたんだ」

 ガランドはニックの言うその人――騎手に視線を移し、馬上からこちらを見るその美貌に思わず立ち眩みを起こした。慌てて頭を振り、騎手の顔から視線を外して問いかける。
 ガランドの長剣も盾もそのままだが、騎手から敵意らしきものは感じられない。
 それにこれほどの使い手が相手では、こちらが武器を構える間もなく斬られるだろう、と情けないが認めざるを得ない以上、言葉に頼るのが最善手に違いない。

「聞こえていたとは思うが、おれはガランドだ。この近くにあるマルゼル村の警備をニグレル男爵様から任じられている。
 おれとニックの命の恩人の名前を聞かせてはくれないか?」

 すると騎手は少し考える素振りをしてから、空けていた左手でスカーフを下げ、赤い布地の下に秘していた残りの美の結晶を露わにし、ガランドとニックに束の間意識を失わせた。
 あまりにも美しいものを見た時、人間の脳と精神は理解の範疇を越えた衝撃に機能を一時失ってしまうらしい。
 二人が意識を取り戻すのを待ってから、騎手はこほんと人並みに間を取り直して名前を告げた。

「根無し草――タンブル・ウィード――とお呼びなさい」

「タンブル・ウィード? 偽名だな。傭兵か何かか?」

 明らかに偽名だが、傭兵や旅人などの流れ者にはそう珍しい事では無い。 この妖美なる騎手の如く、自然現象や植物の名前、あるいは得意技を名乗る事もある。
 もちろんガランドはタンブル・ウィードと名乗った目の前の騎手を、傭兵などとは思ってはいなかった。

 その魂から揺さぶられる美貌、千人で挑んでも返り討ちにあいそうな尋常ならざる剣技、そして死者さえも緊縛せしめた鬼気と闘気。
 大陸中に名前を知られた剣豪か、はたまた野に出奔したさる国の高名なる騎士か。いや、そも人間とは思えない。
 だが同時にその美貌はともかく、姿形は人間としか見えない。一体、この剣士は何者なのだろうか?

「そういう事にしておきましょう。私からも一つ問いかけます。騎士ガランド、あのゾンビー達に何か心当たりはおあり?」

「おれにも良く分からない。ここ六日ほどで他の村々から死体が動いているっていう噂が伝わって来て、警戒していた所にいきなり死体の群れが襲って来たんだ。
 ニックはちょうど外出していて見つからなかったから、おれがこうして探しに来た所さ。貴女がニックを助けてくれていて、正直助かったよ。
 おれ自身、あの騎士と兵士が相手じゃ命がいくつあっても足らなかっただろう」

「ゾンビーの大量発生ですが、滅多に起きる事ではありませんが歴史をひも解いてみれば、前例が無いわけでもない事。
 しかしデスナイトが居たとなれば十中八九死霊魔術師か、高位のアンデッドが糸を引いていると考えるべきでしょう。
 それで貴方達はこれからどうするのですか?」

「ばあちゃん達と一緒に領主さまの所まで行くんだよ」

 ニックの答えをガランドが捕捉した。

「男爵様の治めるゲルドーラの街へ行くのさ。あそこは城塞都市だし、ここらで一番兵力もある。非常事態になったらあそこに村人達を避難させる手筈になっているから」

「そうですか。ふむ、よろしければお二人を村人達の所まで送りましょう」

 タンブル・ウィードからの提案は、ガランドとニックにとって渡りに幸いであった。
 ガランドの同僚が村人達を守りながらゲルドーラへ向かっているが、ニックを見つけるのに随分と時間が掛っている。

 今から合流しようとしても徒歩の二人では、ゲルドーラに着く前に合流できるか怪しい。
 それに道中でゾンビーやデスナイトに襲われようものなら、二人の命は無いものと考えた方が良いだろう。

「良いのかい? 正直、貴女が一緒に来てくれるなら百人力だが、大した礼も出来そうにないんだ。なにせ、薄給なもんでね」

 軽薄と言っても良いガランドの言動は、タンブル・ウィードにとって気に障るものでは無かったらしく、血の赤色を湛えた口元は柔らかな笑みの二歩手前位に見える。

「構いませんよ。急ぐ旅をしているわけでもありませんからね」

 タンブル・ウィードのスレイプニルは二人を乗せる事をひどく嫌がったが、結局主人に言い含められてタンブル・ウィードの前にニックが、後ろにガランドが同乗する流れとなった。
 ニックはタンブル・ウィードの美貌を前にしても、その幼さからタンブル・ウィードの絶対的な強さと優しさに対し、素直に憧憬の念を示している。

 一方でそうは行かないのがガランドであった。
 健全な肉体と精神を持つ彼は、これまで見た女性とは比べ物にならないタンブル・ウィードの美貌に、当然ながら魅惑されておりしかもその細腰に腕を巻きつける事に大きな羞恥の念を抱いていた。
 鍔の広い帽子から流れる紫銀の髪から香る芳しい匂いに、ガランドは一瞬天国に昇り詰めそうな気分になったが、タンブル・ウィードの腰に巻きつけた腕から伝わる冷気に背筋を凍らされた。

 なんだこの冷たい身体は? ニックは気付いていないのか? いや、気付いていて気付いていない振りをしているのか。
 だがやはりこれでますます分からなくなった。タンブル・ウィード、この女剣士は一体?
 ひょっとして自分はゾンビー達以上に恐ろしい何者かに出くわしたのではないだろうか……。

 タンブル・ウィードの愛馬スレイプニルの脚力は凄まじく、三人を背中に乗せても月下を黒い風の如く駆け抜けて、ガランドの案内に従って野を駆け、川を飛び越えて行く。
 ガランドは騎士の嗜みとして当然のことながら馬術の心得はあったが、それにしてもスレイプニルの速度は異常であった。
 跨っているガランド達にまったく振動が伝わらないのも凄いが、これまでガランドが乗った事のある馬の全てが走っていたのではなく歩いていたのではないかと、思わず疑ってしまうほどに早い。

「うわ、速い! 速いね、タンブル・ウィード!」

 感嘆の声を上げるニックが落ちないように細心の注意を払って手綱を操るタンブル・ウィードは、少年の純粋無垢な反応に穏やかな笑みを返した。
 どことなくスレイプニルも誇らしげである。

「ニックの真似じゃないがとんでもない速さだな、君の馬は」

「スレイプニルを普通の馬と一緒にするのが間違いでしょう」

「スレイプニル?」

「知らないのですか? さる大神の愛馬たる八本足の馬の事です。
 この子はそのスレイプニルの子孫の内の一頭。この地上で最も速く霊格の高い馬の一種なのです」

「ユニコーンやペガサスよりもか?」

 ガランドはスレイプニルは知らなくても、乙女にしか心を許さないと言う一本角を持つ白馬ユニコーンと、翼を持つ天馬ペガサスの事は知っているらしい。
 ガランドの問いにタンブル・ウィードよりも早くスレイプニル自身が異を唱えた。ユニコーンやペガサス如きと同じと思うな、と嘶きを上げたのである。

「うお!?」

「ふふ、この子達は誇り高い。ですから貴方に一角獣や天馬と同列扱いにされたのが腹に据えかねたのです」

「ユニコーンもペガサスも霊獣だろう、それほどの違いがあるってのか?」

 魔法に造詣の深くない一般の騎士ならば、誰もがガランドと同じ反応をするだろう。
 額の角に万病を治癒す力を持つとして有名なユニコーンや、通常の馬に変わって騎士団が結成される事もあるペガサスと比し、スレイプニルの数は極めて少なくその霊格の高さから人間を背に乗せる事は百年に一人いれば多い方だ。

 それを考えれば主人の頼みとはいえニックとガランドがスレイプニルの背に跨る事が出来たのは、奇跡的な幸運と言えた。
 またスレイプニルを怒らせるような事を口にしてしまうガランドに苦笑を零し、タンブル・ウィードが窘めようとした時、彼女の視線は前方に広がる闘争の光景を映し出していた。

 主の考えを即座に理解したスレイプニルは速度を緩め、人間の全力疾走程度に抑えた。
 ニックとガランドが突然の失速に訝しむ間こそあれ、タンブル・ウィードは待つ事をしなかった。
 待てばそれだけニックやガランドの見知った顔に危機が迫るからだ。タンブル・ウィードは手綱から手を離し、ニックとガランドの首根っこを掴んだ。

「え?」

 とニックとガランドから異口同音の一言が出た瞬間、タンブル・ウィードの両手がぐいと左右に開かれて、二人は宙づり状態になった。
 タンブル・ウィードの行動に二人が一瞬の間を置いてからぎょっとした顔を作り、顔色を青くして美貌の主を見つめて、すぐに逸らした。
 まともに見るには美しすぎる。形容しようの無い美貌の主と言うのも時には考えものだ。

「なな、タンブル・ウィード、なんのつもりだ!」

 声を大にするガランドに、天上世界にのみ咲く花の精と言われても疑う余地のない美貌が、真剣な表情で答えた。

「貴方達の村の方かは分かりませんが、ゾンビー達に襲われています。この子を全力で走らせるには二人に降りてもらわねばなりません」

 それは本当か、嘘じゃないだろうな、とガランドとニックが問いを発さなかったのは、この瞬間にもルビーさえも屑石に見える赤い瞳で前方を見据えるタンブル・ウィードの横顔に、凄絶と言っても良い気配が浮かんでいたからである。
 これは戦いを前にした者だけが浮かべる闘争者の顔であった。

「ですから多少手荒い真似になりますが、二人にはここで降りて貰いたいのです」

「……分かった。そういう事情なら仕方が無い。ただニックはこっちに。おれが抱きしめておけば、落っことされてもニックは怪我をしないで済むだろう」

「見上げた覚悟ですが、気にする必要はありませんよ」

 ふわっという浮遊感がニックとガランドに襲い掛かり、両者はタンブル・ウィードに首根っこを掴んでいた手を離された事を理解した。
 抗議の声をガランドが上げようとした時、再びの浮遊感が体を包みこんでガランドのみならずニックも、まるで羽毛が落ちるみたいに柔らかく着地していた。
 見ればガランドとニックの身体を淡い月明かりのような光が包みこんでおり、それが二人の落下速度を緩やかなものへと変えたようであった。

「こりゃあ、魔法か?」

「すごい、タンブル・ウィードは魔法も使えるんだ!」

 更なる感動に瞳を輝かせるニックにガランドは賛同したくなったが、自分達はこれから一体どうなってしまうのか、その運命にタンブル・ウィードが大きく関わるのは間違いがないだろう。
 二人を降ろした事で遠慮する必要の無くなったタンブル・ウィードは、愛馬に全力疾走を命じて先程までとは比較にならぬ速度で、六つの馬蹄が大地を抉り始める。

 血の海に映った満月の如く輝くタンブル・ウィードの瞳は、背の低い茂みや灌木が生い茂る平野の向こうに、大きな荷物や荷馬車を牽く五十人ほどの人々と、それらに襲い掛かる死者達の姿を認めていた。
 先程葬ったデスナイトや兵士達の姿もあるが、狼や猪、熊や馬のゾンビーに加え、真っ赤に染まった骨の姿もある。
 赤い骨はそのままレッドボーンと呼ばれるアンデッドの一種で、膨大な血と憎悪や呪い、負の感情を込める事で造り出される極めて危険な存在だ。

「ふむ、レッドボーンを使っていると言う事は生死は問わないと言う事……。殺戮が目的か?」

 盛大に土煙を上げて疾駆するスレイプニルの馬上で、タンブル・ウィードは鞍から腰を上げて立ち上がると、長剣の切っ先をはるか前方の砂粒程度の大きさのアンデッド達へと向ける。
 いかな魔技の使い手とはいえ、これだけの距離を越えて斬撃を届かせる事は不可能と見える中、夜の空に輝く月が目撃した。

 見る間に長剣が溶けた飴のように形を崩すや、光も飲み込む深い闇の色に染まった長弓へと変わるのを。
 タンブル・ウィードは無手のまま長弓の弦に指をかけて、まるで矢を番えているかのように弦を引く。淀みない動作はそれが一つの儀式であるかのように美しさを持っていた。

 タンブル・ウィードが弦を引くのに合わせて、周囲に降り注ぐ月光が流れ星のようにタンブル・ウィードの指へと集まって行く。
 ほどなくして月光は白く輝く光の矢の形を成し、タンブル・ウィードは全力疾走するスレイプニルの馬上から矢を放つ。

 ひゅん、と風を貫く音に先んじ、月光の矢は今まさに人々の最後尾へと襲いかかろうとしていたゾンビーベアの胴を貫き、どれほどの威力と速度であったものか、上半身を丸ごと吹き飛ばした。
 タンブル・ウィードが弦を引く度に月光の矢が一本に留まらず三本、六本、九本と一度に放たれる矢の数は増して、襲撃を受けていた人々が困惑する間に死体達は再びもの言わぬ骸へと戻り続ける。

 スレイプニルの全力疾走はほどなくしてタンブル・ウィードを五十余名の人々の元へと運んだが、月光の矢の洗礼を免れていた残りの死者がタンブル・ウィードへと向かって襲い掛かってきた。
 死者達のほとんどは月光の矢によって壊滅していたが、一体だけ無事な者が居たのだ。
 デスナイトでさえ月光の矢によって葬られている事考えれば、より上位の強力なアンデッドである事は疑いようが無い。

 タンブル・ウィードの手の中で長弓が再び長剣に戻った時、タンブル・ウィードと生き残り(?)の死者が相対し、彼我の距離十メートルの位置でスレイプニルと死者双方が足を止める。
 死者は実に奇妙な風体をしていた。腰から下は尋常な人間のソレであったが、上半身が二人の人間を接合した異様な姿をしているのだ。
 脇腹の辺りまでが接合され、そこから上が枝分かれしている上にそれぞれ両脇の下と背中から一本ずつ腕が生えていて、上半身一つにつき五本、合わせて十本の腕が生えている。

 他の兵士や騎士同様に鎧を纏い、それぞれの腕に強力な呪いを帯びた魔剣を握っていたが頭部は剥き出しだ。
 その頭部にしてもこめかみと後頭部にも等間隔に眼があって、一つの頭部につき六個の目がある。
 百の目と百の腕を持つヘカトンケイルという巨人なども居るが、この死者は尋常な人間の死体を解剖し接合したものなのだろう。

「オオ、コレハ何と美死イイイイいいい。ナあ、兄弟!」

「そうダネエ、キョウダイ。キレいなあ、人ダアネエ。でも変だよオ。この人からニンゲンの気配ガシナイヨオぅ」

 枝分かれした上半身が濁った声で会話している間に、タンブル・ウィードはスレイプニルから降りてゆっくりと奇妙なゾンビーへと歩き始めている。

「オリはゾーナ!」

「おイらハゴロン」

「二人合わせてゴロンゾーナ゛兄ァダあ゛イイ!?」

 二人で一人のゾンビーが高らかに自己紹介を始めている間に、タンブル・ウィードは容赦なく長剣を振るい、ゴロンゾーナ兄弟の肉体を縦に両断し、返す刃でそれぞれの首を刎ねて見せた。

「戦いの最中に自己紹介とは悠長な事」

 これでこちらの攻撃に反応できる使い手であると言うのならまだしも、なんの反応も出来ぬ程度の実力で自己紹介とは、とタンブル・ウィードは嘆息した。
 四つに分断したゴロンゾーナ兄弟のもの言わぬ死体に、タンブル・ウィードは着火の魔法を放って燃やし、こちらへ向かってくるニックとガランドを待つ事にした。
 死者達を葬ったとはいえいきなりタンブル・ウィードが行っても、人々は警戒するだけだろう。

「こんなにも月の綺麗な夜に死者の怨嗟の声が渦巻くとは、いかなる無粋者の所業か……」

 長剣を鞘に納め、タンブル・ウィードは頭上の月を瞳に映して切なげに唇を動かす。月が喋る事が出来たなら、きっとこう返した事だろう。
 あなたの方がずっと綺麗だと。
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