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第11話 シンイチ&トーマ

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 居酒屋を出たとき、トーマは相当酔いが回っていた。決して酒に弱い方ではないのに、それが自分のせいであることをシンイチは自覚していた。物怖じせず誰とでも軽口を叩けるトーマが、なぜか初対面の時からアヤに対しては突き放すような態度をとることにだって、当然気付いていた。

「今だから言うけどな」と昨晩トーマは前置きをして言った。ほとんど酒に手を付けないシンイチをよそに、一人急ピッチで、かなりのアルコール量を摂取したあとのことだ。
「初めからあの女の態度が気に入らなかったんだ。彼氏が隣にいるのに、上目づかいで唇を舐めまわして見せるような女はろくなもんじゃねえ。おれは女に不自由してなかったし、おまえの女にちょっかいをかけてもめ事を起こしたくなかったから無視してたけどよ」

 シンイチは呻き声を発しただけでうなだれていた。

「思っていたよりも時間がかかったが、お前があの女の本性に気付いてよかった」ともトーマは言った。
「そんなに簡単に割り切れる話じゃないんだ」とシンイチは弱々しく返した。
「トーマがぼくのことを心配してくれているのはよくわかる。だけど」
「なにが『だけど』だ。お前はバカか。この先一生寝取られ亭主役を続けていくつもりなのか。子供ができたとしても、誰の子だかわかりゃしねえぞ」
「別れないなんて言ってないだろ。ただ」
「ただ、なんだ」
「そんなに簡単にふっ切れるものじゃない」
「お前、バカじゃねえの」

 結局、二人が居酒屋を出たのは真夜中近く。終電の心配をしなければならない時間帯で、自分のマンションにはまだ帰りたくないとごねた(「お前は、面倒くさい彼女か?」)シンイチは、トーマのところに泊めてもらうことになった。
 トーマのアパートまでは、地下鉄で五駅。
 金曜の晩だ。終電内は、明らかにきこしめして陽気な学生や会社員、吊革に掴まりながら半分眠っている者、座席でいぎたなく爆睡している者、残業帰りなのか陰鬱な顔で疲労に押し潰されそうな者など、すし詰めより少し余裕がある程度の混雑具合で、二人は進行方向に向かって右側のドア付近に陣取った。
 がたがたと今にも分解しそうに車体を軋ませる轟音のため話をするには適さない環境がシンイチには有り難かった。もっとも、居酒屋の気まずい数時間のうちに、重要なことは吐露してしまっていたのだが。

「正直、どうしたいのかわからない」

 情けないことに、それがシンイチの偽らざる気持で、あんな姿を見せつけられた後で関係を続けていくなどありえないと頭ではわかっていながら、どこかに抜け道はないかと必死に探している、そんな状態にあった。抜け道も魔法のような解決策もありはしないと、わかっているのに。
 だから、最後の瞬間を少しでも先延ばしにしたくて、トーマのアパートに逃げ込もうとしていた。
 駅に停車するたびに、車内の密度にいくらか隙間が生じていった。二人が下りる駅まであと二つ。
 反対側のドア付近に立つ二十歳前後の二人連れの女が、他の客の頭越しにちらちら、トーマとシンイチの方向に視線を投げかけてはクスクス笑っていることにシンイチは気付いた。正確には、トーマのほうに彼女たちの視線は向いていた。シンイチはそっと目を逸らし、真っ暗な窓ガラスに額をつけた。

「はん」

 彼女たちの視線に気づいたトーマは、低い忍び笑いを漏らすと、シンイチに意味深な目配せをして、にやけ顔のまま他の客の隙間をすり抜けて二人に近づいていった。

 おい、勘弁してくれよ……

 似たような経験なら、これまで何度もあった。トーマはサッカーの花形選手でなくなったあとも、とにかくモテた。二人でつるんでいれば、いつだって女性達の熱い視線を集めるのはトーマで、シンイチは透明人間のような存在になる。
 それでも、これまではアヤを裏切ることなどゆめゆめ考えないシンイチに合わせて、トーマはいくら熱い視線を送られても――時には直接女性の側から声をかけてくることもあったが――シンイチと一緒に居る時には決して相手にしなかった。

「どうしたら、そんな風に一人の女にのめりこめるのかな」
 いつだったか、トーマが冗談とも本気ともつかない口調で呟いたことがあった。
「おれは……他人は信じられない。特に女は」

 それにはどうやら、トーマが話したがらない家庭の事情が関与しているらしかった。小中学生の頃、何度かトーマの家に遊びに行った際に顔を合わせた彼の母親は、少し神経質そうだが、ごく普通の中年女性に見えた。少なくとも、シンイチの目には。
 どこの家庭にも、他言できない隠し事の一つや二つはある。
 そんな秘密には、おいそれと踏み込んでいってはいけないのだ。当人自らが打ち明ける気になるまでは。おそらく、そういう点が、表面的にはまるで共通点のない互いを結び付けたのだった。

 お願いだから、やめてくれ

 本人がその気になった時には、躊躇いなく目当ての女性を口説くし、非常に高い確率でそれを成功させてきたトーマだったが、どんな相手とも三ヶ月以上続いた試しがなかった。女性の側から「浮気」を詰られて平手打ちをくらわされたとしても、トーマは言いわけをするでも腹を立てるでもなく、一切の執着を見せずに別れてしまう。
 そういう彼に現在彼女がいるのかどうか、シンイチは知らない。例えいたとしても、その子のために貞節を守ろうなんて考えはトーマにはないし、もはやシンイチの側にも彼女に義理立てをする理由がなくなったことを知っている。シンイチの切実な心の声が聞こえたとしても、きっと無視しただろう。
 トーマがにやけ顔で近づいていくと、地下鉄車内の二人連れの女性の顔は喜びに輝いた。
 それは、嬉しいだろうとシンイチは思う。女性達より優に頭一つ分は背が高く、サッカーを辞めた今、以前よりは筋肉が落ちたのだろうが、それもまだ十分に引き締まった体をしており、当人曰く「ようやく普通のズボンが履けるようになった」脚はすらりと長い。昔からおしゃれに興味がなく、どこのブランドのものなのかわからない(おそらく、その辺で適当に購入した安物だ)洗いざらしのシャツとズボンに身を包んでいても、休日をラフな格好で過ごすモデルのように見える。
 だから、初対面では近すぎると思われるほどトーマが顔を寄せて耳元に何やら囁いても、女性達が嫌がる素振りは一切ない。三人はすぐに打ち解けて、楽しそうにお喋りを始めた。
 羨ましくないと言えば、嘘になる。だが、今日はやめてくれ、と叫び出したい気持ちをシンイチは懸命に堪える。気持ちの切り替えが追いつかない。

「今日がダメなら、いつならいいんだ?」

 きっとあいつはそう言うだろう。あいつに、モテない男の気持ちなんてわかるはずがない。
 ああいうことが自分の人生には決定的に欠けている、と横目で見ながらシンイチは痛感する。シンイチはこれまでナンパは勿論、自分から女性に告白をしたこともない。高校一年でアヤからの積極的なアプローチで交際するようになってからは、稀にシンイチのような堅物が好みという物好きな女性から好意をよせられても断ってきた。
 しかし、シングルに戻ったからには、一から始めなければならない。だが、どうやって? シンイチは絶望的な気持ちになる。二十四にもなって、恋愛の始め方すら知らないなんて。

 二人の女は明らかに酔っており、見た目にはそれほど表れていないものの、やはり酩酊状態にあるトーマとたちまち意気投合して、トーマ宅で飲み直すことに同意した。二人は大学生、ともに実家暮らしだが、今夜は予めお互いの家に泊まることにしてあるのだと、顔を見合わせて笑った。張り切って合コンに出かけたのに、しょぼい男しかいなくて今晩どうしようかと困っていた、と。

「頼むよ、おい……」

 巨大な鉄の入れ物が暗闇を疾走する轟音にかき消され三人の会話は聞こえなかったものの、状況を察したシンイチは小声で意を唱えたが、無論トーマには届かない。
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