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第15話 シンイチ

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「これはデジャヴか? そうやって、真面目に馬鹿正直に生きてきて何かいいことあったか? お前の友人だろうが誰だろうがお構いなしに咥え込むアバズレのカモにされただけじゃないか」

 背中に浴びせられたトーマの怒声を振り切り、シンイチはまた夜の町に逃げ出した。ひっそりとした住宅街の窓はどれも暗く、住民が全て死に絶えた廃墟のようだ。
 しばらくでたらめに走って角を曲がり、完全に方向感覚を失った(元より、トーマのアパート周辺の地理にはあまり詳しくなかった)。急な運動のせいで酔いが回り、よろめいて電柱に手をついて、吐いた。明らかに飲みすぎであった。元々酒には弱いのに。
 誰も彼の後を追う者はいなかった。
 右手に握りしめていた邪魔な包みを上着の内ポケットに突っ込んでからハンカチで顔を拭い、まずは自販機かコンビニでペットボトルの水を手に入れようと考えた。
 そして、内ポケットに入れたの存在を、シンイチは完全に忘れていた。さっき警官から職務質問を受けるまでは。

 昨晩、トーマのアパートをあとにしてから半ば呆然自失で彷徨っている間に一人の警察官にも遭遇しなかったのは、全く運がよかった。深夜に虚ろな目をして徘徊している酔っ払いは不審者以外の何者でもない。
 それは一夜明けても同じ、いやむしろ陽の光の下ではうさん臭さ倍増、だから先ほど、危うく交番に連れて行かれそうになった。あの事故が発生しなければ、今頃どうなっていたことか。

 夜が明ける前に、公衆便所で袋の中身を廃棄するとか、その他諸々をコンビニのゴミ箱に捨てるなどして、処分してしまえばよかったのだ。前回は確かそうしたはずだ。いや、前回? 何の話だ。とにかく、長い夜の間、こんなものをポケットに入れたまま後生大事に持ち歩いていたとは。

 酒はとっくに抜けていたが、頭痛と睡眠不足のせいで考えがまとまらないシンイチは、土曜の午後に賑わう人の流れから外れて、ファミリーレストランの壁際ぎりぎりで立ち止まった。ようやくスマホを掲げて騒動の中心地を目指す野次馬の姿も途絶えていた。
 ネクタイをすれば少しはまともな見た目になるかもしれないと、上着、ズボン、ワイシャツまであらゆるポケットを探ってみたが、見つからなかった。どこで無くしたのか、そもそもいつネクタイを外したのか思い出せなかった。どうしてワイシャツの一番上のボタンが千切れてなくなっているのかも。
 気休めに、だらしなくはだけていたシャツの残存するボタンを留め、髪を手櫛で撫でつけた。これで少しでもしゃんとして見えますようにと祈るしかない。

 公衆便所は探すと見つからないもので、気が付けばコンビニさえないような住宅地に迷い込んでいた。大通りがどちらにあるのか見当がつかない。スマホを使えば容易に解決する問題なのだが、そのためには電源を入れねばならず、着信があるのかないのかそれを確認することになるのが耐えられないために、ポケットから取り出す気になれずにいた。土曜の午後だというのに、外に出ている住民の姿がなく、道を尋ねることもできない。
 閑散とした細い道路の先に、五、六歳だろうか、女児が電柱の陰に立って、シンイチをじっと見つめていた。膝丈の赤いスカートに白いブラウスを着て、可愛らしい顔立ちをしているが、無表情だ。シンイチは、笑顔を作ろうとするのだが、強張った頬の筋肉が痙攣を起こし、慌てて顔を背けて少女の傍らを通過した。
 どうせあの年齢では、道を尋ねたところで満足な答えは得られないだろう。怖いおじさんがいるといって泣かれでもしたら、不審者どころか変質者認定されかねない。それこそ、泣きっ面に蜂だ。
 足早に遠ざかりながら、ふと足を止めて、周囲を見回した。誰か、女児の面倒を見ている大人がその辺にいないのだろうか、とふと思ったのだ。埃っぽいアスファルトが伸びた両側には民家が並んでいるが、赤いスカートの女児以外、人間は勿論猫や犬の姿もない。
 迷子なのだろうか?
 だが、それにしては落ち着き払っている。まだ自分が道に迷ったことに気付いていないのかもしれない。
 一方通行の道路の幅は狭く、車も今のところ一台も通らないが、こういう道で車を走らせるのは地元の住民、慣れているために不用意にスピードを出し過ぎる場合が多々ある。例えあの少女がすぐそこの家の子だったとしても、幼児を一人で遊ばせておくのは危険ではないか。
 電柱の傍らから、女児は右手を肩の高さまで上げて、バイバイするみたいに手を振った。顔は無表情のまま。
 シンイチも手を振って、踵を返した。交番に連れて行こうにも、シンイチ自身が迷子のようなものなのだ。幼い子供なら、手を差し伸べてくれる親切な大人は他に居よう。
 角を曲がる時にもう一度振り返ってみたが、女児の姿は消えていた。

 
 かなりの時間を見ず知らずの町を彷徨うことに費やし、ようやく飲食店の並んだ少し賑やかな通りに出たときは心底ホッとした。
 若者で賑わうカフェを避けて場末感漂う閑散とした喫茶店に入り、機械的に注文したホットコーヒーがテーブルに置かれると、シンイチは落ち着きのない様子で(本人は平静を装っているつもりだが)トイレに立った。
 ところが、一つしかない男女兼用の個室は、今時珍しい和式トイレであった。洗面台は個室の外、つまり客から見えるところにあり、小洒落たカフェのようにペーパータオルとゴミ箱が設置されてはおらず、掴んでで捻るタイプの旧式な蛇口のついた水道の横の壁には、古ぼけたタオルがかかっていた。

 シンイチはとりあえず個室に入り、鍵をかけた。乾燥させた葉っぱはトイレに流してしまえばいいが、空になった袋とペーパー、ライターはどうすればよいか。葉っぱ以外に違法性はないが、ライターやペーペーのパッケージにだって残留物が付着している可能性があるから、これらも処分が必要だ。警察官なら、空の袋の残り香で中身を推測することができるかもしれない。
 気は進まないが、袋とペーパーもできるだけ細かく裂くなどしてトイレに流してしまおうかとも考えたが、それによってトイレが詰まり、原因は何かと調べられてしまったら藪蛇だと思い直した。まさか迷惑な客にトイレを詰まらされただけで警察を呼ぶとは思えないが、何がどう転ぶかわかったものではない。客が少ないから店主はきっと「あのスーツ姿の若い男が……」と気付くだろう。気付いたところで、現金で会計を済ませてさっさと店を出てしまっていれば、どうしようもないはずだ。
 しかし、異物で詰まったトイレから溢れ出た水がたちまち店内にまで流出するようなことになれば、被害は甚大だ。シンイチが支払いにもたもたしている間に怒れる店主に捕まってしまうかもしれない。その場合――
 そんなことをつらつら考えているうちに形容し難い疲労感に襲われ、シンイチは結局なにもせず、用を足してすらいないのに水洗タンクのレバーを引いて外に出た。神経質になりすぎていると自分でも思うが、どうしようもない。
 冷たい水で手を洗いながら、鏡に映った自分の姿をじっくりと見た。これならば薬物中毒者の疑いをかけられても仕方がない。髪を水で濡らし、手櫛でできる限り整え、歪んだ眼鏡を直したが、目の下を黒々と縁取る隈や血走った眼は、顔を洗ったぐらいではどうにもならなかった。
 これまで職質など一度も受けたことがなかったのだから、普通にしていればいいのだ、とシンイチは鏡の中のみすぼらしい自分に言い聞かせた。真面目なだけが取り柄の眼鏡、そんな風に揶揄されるのが似合いの、違法薬物に手を出すなどという大それた行動は一生とれない類の人間と誰からも太鼓判を押される退屈極まりない男。客観的に評価したときの自分はそんなものだと、嫌というほど自覚している。
 だが今のシンイチには、「普通」がどういうものだかわからない。
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