あのチョコレートの甘さは、まだ口の中に残っている。

音央とお

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バレンタイン当日ということで、校内のあちらこちらで一喜一憂する男子の姿、友チョコを交換する女子の姿が見受けられていた。

私は休み時間になるたびに逃げ回っていた。

「怜花ちゃんはどこに行ったんだろう? ……素直じゃない、照れ屋さんだからなぁ」

なんて、ドア一枚を隔てた向こうで呟かれた時には寒気がした。
ましゃに見つかるとまずい。

顔はいいから、チョコレートを渡したい女子はいるのに、義理チョコすら拒絶しているらしい。

ましゃは私と別れていることを周囲に伝えていないようで、喧嘩中という状態なんだと広められていた。
私が別れたと言っても、みんな信用していない。
説明したところで、犬も食わない話だからやめてくれと笑い飛ばされるだけだった。

「じゃあ、出席番号でペアになってお互いの顔をデッサンしてみて」

ジャージにサンダルという姿の先生は、生徒たちに指示を出した。
私とペアになった子が描いている間、じっと先生のことを見つめた。

前髪があると幼さがあるし、表情豊かで笑顔には親しみやすさがある。

――昨日は、怪しい雰囲気に包まれていたのに。

あれから何度も、あの無感情な黒い目を思い出している。
「はあ」と吐息を漏らせば、周囲からの視線が刺さるようだった。みんなこっちを見過ぎ。

私が視線を返せば、みんなバツが悪そうに目を伏せる。何も見ていないフリをするかのように。
ただ考え事をしていただけなのに、私の何が、そんなに気になるんだろう。

授業が終わり、昼休みになった。
生徒たちがそれぞれバラけていくのを見送り、私は誰にも見られないように美術準備室に潜り込んだ。
後ろ手にドアを閉める。

「……先生」

購買のパンと牛乳をデスクに置いて、先生はご飯を食べるところだったみたい。
人好きのする顔で「ん?」と聞き返される。

……違う、これじゃないのに。

「昨日のことなんだけど」

引きずり出したくて、その話題を出す。
けれど先生は仮面を剥がなかった。

「柾木がうろついているみたいだな。大丈夫か?」

こちらを気遣うような優しい声。
何もする気がないくせに、心配していますと言いたげで腹が立つ。

「大丈夫じゃないって言ったら、助けてくれますか? ……先生、助けてよ」

「それは……」

話を遮るように、ドアがノックされた。

「はい」と先生は返事をした。

「あら? お取り込み中でしたか?」

数学担当の早本先生だった。
……一瞬、ましゃが来たのかと焦った。

早本先生は私を見つけ、顔色を曇らせた。

「大丈夫ですよ。どうしましたか?」とパンを食べながら先生は話を促した。

「えっと……」と言い淀む早本先生の手元には、小さなショッパーがあった。
……高級チョコレートだ。

「これみんなに・・・・配っているんですけど、先生も食べてくださいね」

「わざわざありがとうございます」

「じゃあ、また」なんて後ろ髪を引かれるようにして、早本先生は出ていく。
チラリとこちらを見る表情は浮かないものだった。

机の上に置かれたショッパーを見る。

「それ、本当にみんなに配っていると思う?」

「……まさか」と先生は笑った。
スイッチが切り替わったように、あの冷たい目をして。

「配らないって言ってたじゃん、先生同士でも」

「義理チョコは、な。……でも、本人が言うんだからみんなに・・・・配っているんだろう」

そう扱うのだと、宣言されているようだった。

「そのチョコ、食べるの?」

「……」

「もったいない。高いのに」

そう責めれば、先生はショッパーを手に取り、中に入っていたチョコの包みをおもむろに開け始めた。
丸いトリュフをつまみ上げたかと思えば、「広瀬」と呼ばれた。
その目は「来い」と言っているようで、吸い寄せられていく。

「ほら」と言って、私の唇にチョコレートが差し出された。
口を開かずにいると、じとっとした目が促してきた。ぱくりとかじりつけば、チョコレートの香りが口の中に広がった。

「美味いか?」

「……自分で食べないんだ」

「残りも全部やるよ」

ショッパーを押し付けられた。悪い大人だな。

「先生からバレンタインのチョコをもらっちゃった」

「嬉しいだろう?」

「……何もしていないくせに」

早本先生の想いを踏みにじっているようで、それは先生と共犯になるようだった。



*   *   *



「うーん……」

早本先生のチョコレートを持ちながら、教室へと帰っていた。

さっきのやりとりが刺激的で、脳を焼かれたような気分だった。
だから、ぼんやりしすぎていたと思う。

「怜花ちゃん」

後ろから声を掛けられ、飛び上がった。
慌ててブレザーの中にチョコレートを隠した。

「……ましゃ」

にこにこと笑いながら、ましゃは立っていた。

「やっと会えて良かった」と言われて、同意しかねる。

「どこに行ってたの? ……今日は怜花ちゃんとかくれんぼしていたみたいだった。本当にあなたって男を焦らすのが上手だよね」

「そんなこと、したつもりはない」

「その拗ねたような上目遣い、大好き」

こんなこと言う人じゃなかった。
ずっとそんな風に思っていたの?

別れてからの豹変具合に驚いていると、スンッとましゃが鼻を鳴らした。

「……チョコレートの匂いがする」

「……」

口の中には、早本先生のチョコレートの甘さが残っていた。それを嗅ぎ取ることに戦慄を覚える。

「俺の分は?」と首を傾げながら、ましゃは笑顔を深めた。

「人から貰ったものを食べたの」

「ねえ、俺の分は?」

「……ましゃにも分けようか?」

それで納得してくれるならと、隠していたチョコレートを差し出す。
しかし、ましゃの目は冷たかった。

「いらない。そんな誰かの手垢の付いたもの。あなた以外のものなんて、汚らしい」

はっきりと切り捨てられた言葉。
一切の迷いを見せない思考に、足が震えそうになった。

「……ましゃ、チョコレートは用意してないの。昨日も言ったと思うけど……」

「鉄ちゃんは、ちゃんと“教育”してくれなかったんだね」

忌々しそうに、ましゃは言った。
教育って、何。

「大人なんて信用できないな。もう鉄ちゃんに近づいたら駄目だよ、怜花ちゃん。俺が全部教えてあげるから安心していいよ」

恍惚とした表情で、ましゃは視線で私を舐めまわした。頭から足の先まで見られている。
その感覚が全部伝わってきて、気持ちが悪い。

「チョコレートのことは、ちゃんと反省してね。恋人である俺に用意していなかった。それは怜花ちゃんが悪いことだからね」

もう恋人じゃないのに。
いつの間にか復縁させられていた。

……でも、私はそれを止めることをやめた。

先生の「お前もこっち側の人間なのに、無自覚でいる」という言葉を思い出したからだ。

人を狂わせる側だという、先生が見ている世界。
ましゃといれば、知れるのかな?

唇を舐める。
ほんのりとチョコレートの味がしたような気がする。

あのチョコレートを食べた瞬間みたいに、先生と共犯になってみたいと、魔が差したんだ。



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