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第二章 心の拠り所

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 どうにも八方塞がりだ。と言っても、もともと一本しかなかった道が、塞がってしまっただけなのだけれど。とにかく、一番可能性のあった経路が閉ざされた。
 増築工事に歯止めをかける方法がなくなったのだ。優璃が俺に寄越した手段、すなわち夜の学校のゲームに勝って優勝権限を行使するという、ほとんど唯一の個人的要望を貫く道が遮断された。
 ……どうしたもんかなあ。
 俺の分析では、現南校チームでの勝利は至難の技だ。何より、やり様や努力以前に、俺以外の人間に勝つ気がない。勝つ意味がない。
 その上アリア先輩には、いやに真剣な様子で俺自身の単独行動の禁止を言い渡されてしまった。個人ですら、動くにも動きにくい状況だ。
 ぶっちゃけたところ、そんな言いつけなど無視して一人で敵陣に突っ込んでみても良いのだが、と言うか相手の戦力を知るにはそれが一番わかりやすいのだが、それもまだ踏み切るまでには至っていない。アリア先輩は現状を悪くないものとして捉えているし、優勝権限を使おうとしている俺の目的を考えると、ミューにもあまり事情を詳しく知られたくなかったからだ。
 したがって俺は、毎度毎度浮かれたアリア先輩の雑談に付き合い、毎度毎度冷めた態度のミューの様子を気遣い、毎度毎度騒ぎ立てるソラとルナの相手をしながら、さりげなく相手校のことについて探ったのだった。
 それでも、俺一人で戦闘を避けながらできることなんて限られているものだ。せいぜい把握できるのは、東、西、北校それぞれの大雑把な人数や動き方。あとは、ホログラムに飾られてはいるものの構造が概ね変化しない、他校の地理状況。それくらいだ。
 調査の過程でざっくり見ている感じだと、西校が一番人数が多くて精力的。人員は二十人程度だ。単純に考えれば、ここが妥当な優勝候補だろうと思う。さらに次点には、北校がくる。西校と違うのは人員が多少減って十四、五人だということくらいだ。そして三番手は残る東校。十人程度からなる構成で、チームとしては割と緩い雰囲気もあるようだった。
 現状ではこの東西北校の三つ巴。戦力の偏りはあるものの、攻守の入れ替えは起こっている模様。これは俺たち南校がずっと攻撃側であるにも関わらず、三校全てと対戦カードが組まれるということから想像がついた。つまりは南校だけが、蚊帳の外状態というわけだ。
 また、敵陣の位置についてはゲームごとに固定ではなく変化するので、方角さえわからないときもあれば、だいたいの位置までつかめることもあった。たまたま敵陣の見当がついて近くの様子が伺えたこともあったが、どうにも相手校の雰囲気に、戦闘や警戒の色がなかったことを記憶している。それはおそらく、対戦校が俺たちだからだ。
 はあ……いや本当に、どうしたものだろうか。
 ゲームの数を重ねていくごとに、チャンスの数は減っていく。なのに、時期を見てアクションを起こすか、まだしばらく様子を見るか、それすらも予定として定かではない。
 優勝権限を得るには、決勝を行う二校に選ばれなければならないのだが、予選ってあと何回くらいあるんだろうか。その辺りもしっかり把握しておかなくてはならない。
 こんな風に、思考は巡る。ぼんやりと、ゆっくり回る。ぐるぐると、ただただ回る。しかし考えても結局は、どうしようもなさそうだという結論に行き着く。塞がれてしまった道の前で、行ったりきたりの立ち往生をしているのだ。
 机に頬杖をついて外を見れば、空ばかりが広がっている。そんな景色が見える二階の教室で、俺はのっそり頭を働かせていた。
 対して身体の方は、休み時間だというのに一向に動く気力を見せず、美術館の銅像のように固まったまま。今の俺は他人からしたらきっと、空腹で放心した生徒か、繰り返される授業に辟易した生徒の図そのものだろう。いやまあ、それが当てはまらないのかどうかと問われれば、自信を持って否定することも、なかなか厳しいところだけれど。
 だがそこで、俺がいかにも惚けたような状態を演じて一人自席に座っていると、すぐ隣に誰か人の立つ気配がした。
 俺が気付いて、どうせ隆弥だろうと思って首だけ捻ると、しかし見事に予想は外れる。
「椎名くん。今、いいですか?」
 振り向くとそこには、背筋を伸ばしてこちらの反応を待つ、朝比奈さんが立っていた。
「ん? ああ、構わないけど」
 うーむ、ボーっとしていて来客を見誤ったようだ。失敬、失敬。隆弥のいないときに彼女が俺に用があるとは、珍しいとまでは言わないが、いささか稀なことである。おおかた、授業関連のことだろうと目星をつけた。
 けれどもまたも予想は外れ、彼女は安穏とした柔らかい声で、こう言ったのだった。
「椎名くんを、呼んで欲しいと頼まれましたので」
 告げられて俺は、彼女の後ろの方、つまり教室の出入り口を見やる。おっと、これは驚いた。来客は隆弥だと思ったら朝比奈さん……ではなくて実は大穴の、九条羽望副会長様であった。
「羽望ちゃんが、何か用みたいです。行ってあげてください」
 朝比奈さんは珍客中の珍客を親しげに紹介すると、にこりと微笑みを一つ寄越す。俺の頬杖が解かれたところまで見届けると、笑顔のまま自分の席へと去っていった。
 俺はゆっくりと立ち上がり、廊下へ出る。
「これはこれは副会長様。わざわざ俺に用とは、何でしょう?」
 九条は廊下の壁に軽く背を預けて目を瞑り、顎を引いて片手の肘を抱えるポーズで俺を待っていた。待っていたというよりは、しばしの休息のポーズにも見えた。
 俺の声を聞くと、彼女はすっと元の正しい姿勢に戻り、黒目がちの瞳をわずかに開いて応答する。
「敬意のない様付けは、小馬鹿にしているように聞こえるわね」
「まさか。ありますよ、敬意」
「どうかしら。たかが生徒会に、本当に敬意を持っている人の方が、私からしたら気味悪いけど」
 別に自虐というわけでもなく、嫌味というわけでもなく、彼女はそう言った。続けてすぐに「それはさておき」と切り出してから、本題を述べる。
「今日の放課後、以前に片付けた資料室の荷物を運ぶから、あなたも手伝ってくれないかしら。量が多いから、一人くらい補佐がほしくて」
 言われてみれば、少し前にそんなことをやった気がする。
「……そ、それは、脅迫ですか」
「まさか。れっきとした依頼よ。私、脅迫なんてしたことないもの」
「…………」
 以前の片付けは、数学の授業をサボったときに手伝わされた。なにぶんその延長となると、どうもにも逃げにくい雰囲気を感じる。
「ちなみにあなたに白羽の矢が立ったのは、放課後に部活も委員会もやっていないから。あと、以前の続きで、説明の必要がなくて楽だから」
「なるほど。なんて合理的な理由だ……」
「でしょう。特に後者が大きいわね」
「脅迫じゃないって言うんなら、あれですか。手伝ったりすると、見返りに九条的な俺の評価が三点くらい上がったりするのですか」
「そうね、上がるんじゃないかしら。一億点貯めると握手券と交換できるわ」
「…………」
 真顔で冗談に乗ってきた。しかもひどい内容だ。単位がおかしい。なんて鬼畜設定。
「……まあ、うん。わかった、手伝うよ。前回の整理も途中かけだしな」
「ありがとう、感謝するわ。じゃあ放課後は教室にいて。呼びにくるから」
 九条は俺の了承を聞くと、まるで色好い答えがもらえることをわかっていたかのように、テンプレートな会釈と謝辞を置いて翻る。そうしてリズムの良い足音を残し、自分の教室へと去っていった。
 なんだかなあ。そんなに俺は、放課後のボランティアを断るはずのないお人好しに見えるのかね。実際手伝うんだから世話ないけどさ。まあ、乗りかかった船とでも言うのだろうか。一度手伝った作業くらいは、最後までやるべきってことかもしれないな。
 俺は彼女の背中を眺めつつ、それが見えなくなってから、軽く伸びをして自席に戻った。

 片付けに備えて体力を維持するため、授業を寝てやり過ごしたら、あっという間に放課後がやってきた。眠っていれば、体感時間は一瞬だ。
 帰りのホームルーム終了後、クラスメイトが部活や委員会、あるいは自宅かその他へ向かって教室を出て行く中、俺は九条に言われた通りに自席を動かず待っていた。
 すると視界の端に映る教室の入り口に、九条の姿が現れる。真っ先に俺を呼ぶのかと思いきや、ちょうど教室を出て行こうとしていた朝比奈さんと顔を合わせたようで、二言三言交わしているのが伺えた。
 朝比奈さんが可愛らしく手を振って去っていくと、九条も軽く微笑んでそれを見送る。もしかしたら、二人は懇意にしているのかもしれない。
 そして再び一人になった九条は、視線を俺の方に向けた。放課後だからだろうか、自分の教室でなくとも、彼女は気にせず踏み込んできて告げる。
「待たせたわね」
 俺たちは二人で、旧校舎の資料室へ向かった。
 教室の集まる新校舎から目的地までは、はるばる歩く。やっぱり遠いな、と思い直す頃に旧校舎に踏み入って、こんなに遠かったっけ、と疑問を抱く頃になってようやく着いた。
 以前とは違い室内は既に整っていて、扉の傍には、中から追い出された荷物たちがうずたかく積み上げられている。結構高めに重ねたものだが、人も通らず風もないので、地震でも起こらない限りは、立派な段ボールタワーがそびえている。
 ……はずだったのだが。
「あれ? なんか、減ってないか?」
 どうしてか、気のせいではないくらいに、目に見えて量が減っていた。
「前よりはね。ここの荷物は、二つの部屋に運ぶことになっていたの。図書室に運ぶ分は一人でやれそうだったから、先に私が運んだわ。それで、今から向かうのは新資料室。こっちの方の荷物は、量が多いの」
「へえ、そうだったのか」
「できるだけ大きめのものを運んでくれると嬉しいわ」
 九条はまた、制服のポケットから取り出した髪を縛り、ポニーテールを結い上げる。
「これ、台車とか使うわけにはいかなかったのか?」
「あなたに断られたら、そうしようかとも思っていたわ。別に使ってもいいのだけれど、新資料室は新校舎の三階だから、階段を上るのよね。一応割れ物もあるし、できれば人の手で運んだ方がよくて」
 断られたら、ねえ……。当たり前のように、俺の了承を受け取っていたくせに。
 まあしかし、随分と手慣れた判断だと思う。
 そこまで聞いて納得した俺は、積み上げられた荷物の中から、一番大きいものを選んで持ち上げた。目線いっぱいまで、両手で抱える形になる。前が見えにくい。
 中身は確かファイルの束だ。持てないほど重くはないが、軽いぜへっちゃらなんて宣えば、きっとそれは虚勢になるくらいの重さだった。華奢な九条が運ぶには、少々辛いかもしれない。
「じゃあ、行きましょう」
 九条は小さめの段ボール箱を持って俺を先導した。
 さて、校内の旅、再開。俺の記憶には新資料室なんて部屋は存在しないので、その辺りも考えるとやはり、新校舎の中でも辺境の地へ行くのだろう。道のりは長いとみた。今度も相変わらず、人通りの少ないルートを通るようだ。まあ資料室という使用頻度の少ない部屋の行き来なのだから、当然と言えば当然か。
 廊下を二人で歩くと、静けさが目立った。俺と九条の足音がよく響く。歩幅が異なるためだろうか、彼女の足音の方が、俺のそれよりも多めだった。二人で、隣同士ではなく、ほとんど縦になって進む。会話はない。それがまたなお、この静けさを一際増して感じさせる。
 俺の中の通常思考として、静寂はいいものだと思う。たとえば、放課後の音のない夕暮れ時の平穏は貴重だ。他にも、早朝の誰もいない図書室や、昼休みの喧騒から逃れた虚空に浮く屋上も、かけがえのない時間を演出する。だから普段ならば、静かであることは俺にとって心地の良いことである。
 けれども、この状況では、それもまた変わってくる。傍に九条が歩いている今、閑寂が俺にもたらす感情は“心地良い”よりも、どちらかと言えば“物足りない”だった。
 退屈……なのだろうか。まあ、穏やかさとは表裏一体の概念だ。ふと思考が暇を訴えてきたので、俺は周囲を眺めて歩くことにする。
 最初は一階を進んでいたが、すぐに階段に差し掛かった。そして景色が三階からのものに変わると、視界も一気に広がった。
 随分と遠くに見えるグラウンドでは、野球部が白球を追いかけている。内野で転がったように見えたが、三塁ランナーが素早くホームインするのがわかった。近くではサッカー部も練習をしている。球技同士のグラウンドの共有は、隣の競技の球が当たって危なそうだな、といつも思わせる。
 さらに校舎に視点を向ければ、ちらちらと何やら華やかになりかけている区画が目に入った。窓や壁に、赤や青の花模様。紙製のレース編み。整然と並ぶ、作りかけの未だ形知らぬ装飾品。きっと文化祭の準備だろう。確か、もうすぐ正式な準備期間に入るはずだ。施された飾りは、それを待ちきれない生徒のフライングに違いなかった。
 しかし、ざっと見渡して目に付くものもそれくらいだ。退屈を紛らわす材料には、少々及ばないと感じた。
 前方を定速で歩む九条は首一つ動かさないが、何を目にしているのだろうか。まさか進行方向の安全確認に全視界を注いでいます、なんてことはないだろう。ロボットでもあるまいし。
 ものの数分で周囲観測も飽きてしまった俺は、結局取り留めもないことを思って口を開いた。
「なあ、九条」
「何」
 彼女は前を向いて、やはりペースを変えないまま答える。
「九条って、朝比奈さんと仲良かったりするのか?」
「どうして?」
「いや、他意はないけど、仲良さそうに見えたからさ」
「そう見えたのなら、そうなんじゃないかしら。まあ、悪くはないとは思うわよ。琴葉とは同じ中学出身だし、一年のときも同じクラスだったし。あの子は今もクラス委員だから、私との接点も多い方ね」
 へえ。琴葉、か。
 確か朝比奈さんも、九条のことを下の名前で呼んでいたっけ。前からそうだったのかもしれないな。つまりは、互いに名前を呼び合う程度には親しいということか。
「隆弥の方とはどうなんだ? 去年とかは、よく朝比奈さんと三人で話したりしてたよな?」
「辻君? よくってほど話していたかしら? それってあなたが去年、辻君と同じクラスで仲が良かったから、そういう場面を覚えているだけじゃないの?」
「あれ、そなの? てっきり仲良し三人組なのかと。んで俺と九条が顔見知りになってから、四人で話すようになったんじゃなかったっけ」
「確かに、あなたが加わってからは、その四人で話すことも増えたかもしれないわね。まあ、もうよく覚えてないわ」
 九条は淡々とした口調で返答を寄越した。コミュニケーションかどうかは別として、単なる情報交換として見れば、会話のキャッチボールは良好だ。欲を言えば表情が気になるところだが、たびたびやってくる曲がり角で横顔を拝もうとしても、これが思うようにいかないものだった。
「でも、私とあなたって、あの二人とは全く関係のないところで知り合ったのよね。もちろん二人は、私とあなたの共通の知り合いだったから、あとから四人で話すようにはなったけれど……もし仮に二人がいなくても、遅かれ早かれ私とあなたは今、こうしていたと思うわよ」
「なんとまた。その心は?」
「だってあなた、数学サボるんだもの。私、誰もいない授業中の廊下であなたと出会ったことは、今でもよく覚えているのよね。前にも言ったけれど、あなたのクラスが数学のときって、こっちはいつも国語なの。出張の多い学年主任の先生が担当の国語。私はいつもその時間に許可をもらって生徒会の仕事をする。だから、きっとそのうち出会っていたわ」
 それは、きっとそのうち雑務を手伝わせていたってことだろうか。
「あなたは割と覚えがいいから、使いやすいしね」
 きっとそのうち雑務を手伝わせていたってことだな! 要はパシリに使ってやっていたと! そういうことだな! ちょっとばかり運命を感じさせるセリフに聞き入って損した!
「……そりゃ、どうも……」
 俺は苦い思いで、小さく声を絞り出すしかなかった。
「あら、褒めてるのよ」
 嬉しくねえよ。
 いかん、この話は分が悪いらしい。口ではまず彼女に勝てず、したがって俺の発言が弱く乏しく、劣勢になっていく未来しか見えない。話題を変えよう。
「そ……そういえばさ」
 俺はとりあえず、苦し紛れでこれまでの話を切り落とした。そして闇雲に記憶の引き出しを開け放って、脊髄反射的で舌を動かす。
「知り合った当時は知らなかったけど、九条って結構有名人なんだよな」
「何よそれ」
 話のすり替えにも影響なく、リズムの良い反応が返った。単調さが、彼女の足音とリンクしている。
「いや、だって、色々なところで見るらしいからさ。テストの順位表だったり、部活動の表彰だったり、あと副会長も一年の頃からやってるんだって聞いたし」
「全部、伝聞調じゃないの」
「そりゃまあ、聞いた話だし。俺は知らなかったから」
「ふうん」
 でも、確かに知ってからよく意識していると、九条の存在は十分に名を馳せていた。これは疑いようがなかった。本当によく見るし、よく聞いた。
 成績優秀。一芸と言わず二芸も三芸も有り。容姿も、悪くない。あと一応、品行方正。
評判良好も当然だ。
「でもね、そんなこと言ったら、あなただって有名よ。先生たちの間では、結構ね」
「え……なんで。もしかして、数学サボるからか……?」
「違うわ。椎名だから。あの椎名優璃の弟だからよ。自覚ないの?」
 ……自覚?
 そりゃまあ、姉貴絡みでのとばっちりは様々あるが……けどそれも、中学までが顕著だったくらいだ。高校では優璃も大人しくしていたようだし、現状では俺への実害もあまりないように思う。いや、大人しくっていうのが本人談であるところが、唯一疑わしいところだけれど。
「ないのね。それとも私がよく職員室に出入りするから、だから耳にするだけなのかしら。もう今でこそあまり頻繁でもないけど、それでもまだ話題に上がってるのよ。あなたのお姉さんは」
「………………」
 九条の言葉を聞き、俺は沈黙。
 もちろん、高校に入ってからでも、その手の話をされたことは多少ある。隆弥みたいに親しいやつならば、身内の話としてままあることだ。
 けれども、先生や知らない生徒とまで優璃の話をしたことは、もうほとんどない。三年離れて直接の登校時期が被っていないので、先生はともかく俺と同年の生徒なら、優璃を知らないやつの方が多いはずなのだ。
「まあ、その認識の甘さだとね。なんて言うか……いい性格してるわ、あなた。身近な人が有名すぎると、有名とかそうでないとか、感覚鈍くなるのかも」
 九条は俺の無言を受け取ったのか流したのか、続けて呆れ交じりの感想を漏らした。
 ぐ……。姉貴の話は、分が悪い。って、また分の悪い話題かよ。何でこうなる。
「み、身内ってなら、九条だって有名なんだろ。いや、九条の方が、か。九条一族って、ここら一帯の地主で、今でも衰退の色なしって聞いたぞ。それっていわゆる、正統派お嬢様ってやつだよな」
 俺はまた、わずかに話の向かう先を変える。進むヨットに横薙ぎの風を吹くように、無理やりに進路をずらそうとする。
 だが実のところ、これは全く誇張ではない。九条が有名な理由、その二。いや、ひょっとするとこっちの方が、その一かもしれないくらい、大きな要素だ。
 俺の返答を境に、すると彼女は若干、声の周波数を下げる。
「……それも、聞いた話なんでしょう。やっぱりほら、疎いんじゃないの」
「う、疎いのは事実だけどさ。仕方ないだろ。知らないものは知らないんだよ。家とかも広くてすごいらしいって聞くけど、地区違うから、お目にかかったこともないし」
「……そういう問題? 違うと思うけど」
 加えて彼女は、声の大きさまでも落としたようだった。
「印象に先立つものがないんだよ。当たり前だけど、俺は学校以外で九条に関するものを知らない」
「へえ、そうなの。この街にいれば、九条関係のものは何かしら目に入ると思うんだけどね、本当なら。……まあでも、案外それが真実なのかもね」
 歩くスピードまで、ゆっくりになった気がした。会話のテンポの低下が、歩行速度に波及しているのかもしれない。
「真実、って……?」
「あなたみたいな人にはね、九条の隆盛なんて見えないのかもっていうことよ。確かにうちは、よく立派って言われるし、家も大きいわよ。でもそんなの、私自身とは関係ないことだもの。家が大きいからって、住む人の器まで大きいかは疑問。裕福だからって、人が真の意味で豊かに生きているかは謎なのよ」
 口調に目立った感情は表れていないが、言葉だけなら皮肉交じりにも聞こえる。あるいは、卑下とも捉えられそうだ。いったい、どうしたのだろうか。
「九条。すまないが……何を言っているのか、よくわからない」
「………………」
 解説はなかった。
 俺は言葉の意味を考え、前方確認もそっちのけで彼女についていく。
 しかしすぐに、足音が自分のものだけになっていることに気づいて……荷物を少し下げて前を見やると、彼女は半身で振り返りながらこちらを向き、少しきつめの両眼で俺を貫いていた。
「………………」
 開かない唇は、美しく横一文字に結ばれている。目つきがいやに鋭い。凛とした空気を放っている。
「あの……なんで睨んでるの?」
「あら、失礼ね。こういう顔よ、元々から」
 彼女はさらっと答えた。
 えーっと……これは、冗談かなあ。わかりづらいなあ。俺は惑わされる。
 しばらくして、彼女は声の高さを元に戻し、おもむろに提案をしてきた。
「ね、疲れたんじゃない? ちょっと休憩にしましょうよ。ここは人があまり通らないところだから、荷物を置いても平気だし」
 告げながら、俺の了承よりも早く、彼女は抱える荷物を下ろした。そうして身軽になってから、隣の壁に重心を預ける。
「あ、ああ」
 遅れた承諾。俺も同様の動作をとった。
 よく見ると、そこは渡り廊下だった。旧校舎と新校舎を繋ぐ、三階に架けられた廊下である。壁面には窓が群れを成して並んでいて、景色は際立って良好だった。
 ……ん? そういえば意味深な発言の真相を受け取っていないな。もしかして休憩にかこつけて、話を逸らされた? 俺がさっきからやっていたみたいに?
 九条のし辛い話を振ってしまったのか。いや……考え過ぎか。
「そうだ。クッキーあるんだけど、食べる?」
 横についた俺が何も発言しないでいると、彼女はどうしたことか、突然片手を差し出した。
「クッキー?」
 尋ねつつ目線をやると、手にはこじんまりとした柄物の包みが一つ、リボンで口を閉じられている。
「お昼に焼いたんですって、後輩が。文化祭の練習かしらね」
「なんと、それを貰ったと」
「甘いものは苦手だって断ったんだけど、貰ってくださいって押し切られたの。ちょうどいいから、あなたにあげるわ。無償の手伝いも気の毒だし、美味しいと思うから」
 彼女は俺の腕をとって手のひらを上向きにし、そこに包みをポンっと置いた。未開封だった。
「って、丸ごとかよ。ここで食べるんじゃなくてか」
「私は苦手だって」
「でもせっかく貰ったなら、一つくらい食っとけよ」
 感想とか聞かれたら困るだろうに。まさか、慕ってくる後輩に対し、他人に横流したなんて言うわけでもあるまい。
 俺は渡された包みを開封し、中から一欠片をつまみ出して渡し返した。
「ほら」
 彼女は少しの間渋い顔をしていたが、やがて受け取って口に運んだ。ちょっと眉を寄せながら、でもそれを隠そうとするような、ほんのり苦い顔でクッキーを咀嚼する。
「美味しいけど、砂糖入れ過ぎ」
 それは直接、後輩に言ってやれよ。
 毒味、もといレディファーストを尊重してから、俺もおこぼれに預かった。と言っても、残りはほとんど俺が食うことになるのかな。
 数秒、二人でクッキーを口に含んで言葉を失う。
 また少しして、ふと一言、九条が零した。
「工事の日程が決まったみたいね」
 ちなみに正面で手を組んでいた。もうクッキーは寄越すなということだろうか。
「ん?」
「例の増設工事の日程。掲示板に貼り出されていたけれど、あなた気にしてなかったっけ?」
 ああ、そういえば、以前彼女とはその話をしたんだった。
 古い校舎の一画を新しい設備にする工事だ。そしてこの工事は、俺の好きな銀杏の樹の広場の消滅を伴っている。
「告知されたのか。うん、気にしてる。いつからだって?」
「文化祭の準備期間に重なって下見、行事後からすぐに着手。準備が出来次第施工、だって」
「……そっか」
 なるほど。本格的に始まるのは、文化祭のあとか。でもやはり……近い。今日明日や一週間先ってわけではないけれど、十分にもうすぐととらえて差し支えない時期だ。何もしなければ、あっという間にあの広場は更地になる。
 強がるなら、予想通りとでも言えば良いのだろうか。それ自体は嘘ではない。でも、俺自身がどう動くかも、まだ決まってはいない。焦る想いを無視などできない。
 俺は手元の包みを探り、クッキーをまた口に含んだ。
「……なあ、それって生徒会に頼んだら、止めたりとかできないのか?」
「どういうこと? 意味がわからないんだけど」
「いや、そのままだよ。工事、取り止めにしたりできないかなってこと」
「取り止めって……随分と難しいことを言うのね」
 九条は、さして興味もなさそうに言う。クッキーの包みを目の前に差し出したら、丁寧に押し返された。
「生徒会が言ったら、学校も聞き入れてくれそうじゃないか」
「まさか。そんなに簡単じゃないのよ」
「副会長なのに」
「たかが副会長に何を望むのよ」
 たかがって、会長の次に偉いはずなのに。
 口内のクッキーが溶けて消えると、俺は寂しくなって、また一つ放り込む。ついでに懲りもせず、彼女の前にも差し出したら、こちらを嫌そうに一瞥して、今度は一つだけつまみとった。
「あるいは、全校生徒の署名でも集めれば、可能かもしれないけど」
「あー……署名、ね」
 ほうほう。うん、そりゃ……無理だ。
 人に使われていない区画を新しくする工事なのに。あの銀杏の樹の広場は、その存在すらほとんどの生徒に知られていないのに。とても署名なんて集まらない。集まるわけがない。
 逆に署名が集まるような人気スポットなら、俺は寄り付かなかっただろうとも思う。
 駄目元の生徒会頼みは、やはり駄目ってわけですか。
「聞いても、いいかしら?」
 俺が安い諦めに浸っていると、隣の九条から質問が飛んだ。今更改まって、どうしたのか。
「どうぞ」
 答えて、ついでにしつこくクッキーもどうぞと差し出したら、今度は無視された。もう満腹ですか、そうですか。
「あなたが工事を止めたいのは、もしかしなくても、あれが理由よね」
 聞くと言いつつ、半分くらい断定的にそう述べると、九条はすっと片腕を上げ、窓から見える景色の一つを指差した。その指が示す先は……えー……壁?
「向こうの校舎が……どうかしたのか?」
 何の変哲もないコンクリートだが、汚れがウサギの餅つきにでも見えるのだろうか。ちょうどさきほどまでいた、資料室のあるあたりだった。
「そこからじゃ見えないかも。もう少し、こっち」
 違うようだ。
 九条は告げながら、わずかに横へとずれる。自分の元居た空間を、俺へと譲るように。
 俺がそこに移ると、視界に映るものが、一つ増えた。
「あなたがよく訪れる、小さな広場」
 校舎の壁に隠れて見えなかったそれが、この位置からだけ、隙間を縫うようにしてわずかに目に入る。
 俺は思わず、目を見張った。
 確かに俺が足繁く通う、銀杏の樹の広場だ。一本の、薄く黄色に色づき出した葉揺れている。こんなところから見えるなんて、知らなかった。
「……俺があそこによく行くこと、知ってるのか」
「まあね」
 ということは、九条もあの場所を認知しているということだ。
 意外……いや、でも考えてみれば、当然か。彼女は生徒会役員であって、校内のあちらこちらに仕事がある。校舎の地理について俺よりも詳しいのは、十分道理にかなうというわけだ。
「この渡り廊下の、この位置からだけ見えるの。あなたはあの場所に、よく通っているわね。だから、なくなってほしくないんでしょう。でも、どうして? あんな風に、ただ静かなだけで何もないところ、居て面白いの?」
 ここにきて、よりいっそう抑揚の欠けた声で彼女は尋ねる。
「面白いってのとは、ちょっと違うかな」
 それに合わせて俺も、至極平坦な声を選んで放った。
「じゃあ、なくなっても困らないじゃない。ちょっと喧騒から逃れたいだけの、それだけの場所だったら、他にいくらでも代わりはあるわ」
 返る声もまた、淡白だった。
 そして、だからだろうか。彼女の感想を聞いて、俺は妙に納得した。彼女はあの場所の存在を知ってはいても、その価値までは知らないのだと。そんな風に。
 だったら、次の言葉は自ずと決まる。
「……なあ、九条。九条はあの場所に、行ったことがあるか?」
「ええ、近くまでなら」
「じゃあ、あの銀杏の樹の下に行ったことは、ないんだな」
「そうね、ないわね」
「なら、一度行ってみることをお勧めするよ。行って、あの樹の根元に腰を下ろしてみるといい。そうしたら、たぶんわかる」
 そうしたら、理解できる。感じ取れる。きっと実感できるはずだ。
「……何が?」
「あの場所の価値が。代わりなんて、ないんだってことが」
 そこにしか、ないんだってことが。
「あの樹の真下から見える景色は、想像以上に心に残るよ。見た目は小さい広場だけれど、中心からだと不思議と、とても広く感じられるんだ。風の通りも良い。まばらに降る光の中で、木陰から仰ぐ空は最高だ。まるで別世界にいる気分になる。きっと九条の……いや、本当は誰の琴線にだって、触れるはずの場所だよ」
「でも、実際にそうじゃないから、なくなろうとしているんでしょう?」
「それは、みんながあの場所を知らないだけなんだよ。存在そのものを知らないんだ。旧校舎の方になんて、普通は誰も要なんてないから。だからだよ」
「……ふうん」
 九条は、半信半疑といった様子で返事をする。
「けれど、俺はあの場所を、とても大切に思っているんだ。大切なものに、代替はない。欠けがえないはずだ。絶対なくなってほしくないって、そう思ってる」
 語りつつ、想起する。思えば俺が初めて広場を訪れたのは、不可抗力からだった。
 その日。俺は突然、授業開始の予鈴と同時に腹痛に襲われたのだ。ゆえに甘んじて欠席を受け入れ、止むを得ず保健室に遁走。市販薬を飲んで、一時間ほど横になれば治るかな、という算段だった。
 けれども思いの外、腹痛はすぐに収束して。そして遅刻という形で授業に戻ることになって……。よもやそんな、心の準備もできていないのに、だ。
 しかしてまあ当然、再び廊下を歩くも授業を受ける気分になどなれず、空白の一時間を持て余し……つま先は向かう先を様々に変え、結果フラフラと校内を彷徨って……。結局、無意識に校舎を徘徊した末、行きついたのがあの銀杏の樹というわけだった。
 確か去年の六月初旬。一年生でもある程度学校に馴染み始めた怠惰な時期。俺は、広場のたった一人の常連となった。
 ついでに授業をサボったのは、このときが初めて。科目は数学だった。
「……そう、なんだ。大切、なんだ」
 九条は、広場の存続を願う俺の言い分を聞き、少しの間、何かを考えていたようだが、やがてまた口を開いた。呟くような細い声だった。
「そうだよ。まあ、今ここであの場所の良さを言って聞かせても、すぐにはわかってもらえないかもしれないけれど……でも、きっと九条にも大事なものがあるだろうから、今はそれと同じように考えてくれれば嬉しい」
「………………」
 九条は俺の言葉を、しっかりと聞いている。でも、すぐには応じなかった。黙ったままだ。そのまま数秒して、少しだけ視線を上げつつ空を見て、再び訪ねた。
「ねえ……じゃあ大切って、どういうことなのかしら」
 白いはずの雲は、横薙ぎに差し込む太陽の朱色に照らされて、塗り潰されそうになっていた。
「ん?」
 俺は彼女の傾いた横顔に、視線を流す。しなやかなポニーテールの先が、さらさらと真下に零れている。
「今あなたが、私の大切なものと同じようにって言ったから、そういう風に考えてみようと思ったのだけれど……でもよくわからなくて。それで、よくわからないまま考えたら、大切ってことがどういうことなのかも、わからなくなったわ。大切っていうのは、なくしたくないっていうことなのかしら。それとも、なくしたくないっていうことが、大切ってことなのかしら」
 おっと、これはまたよくわからない質問が。禅問答? いや、それもちょっと違うか。
「鶏が先か卵が先か、っていう類の話か。おいおい、やめてくれよ。頭のいいやつはとんでもないことを言い出すな」
 とりあえず鶏に一票入れておく。
「そういうことじゃないのよ。本当に、わからないだけなの」
 そういうことじゃないですか。
「うーん……どっちも間違ってはいないと思うけどな。大切っていうのは結局、九条の言う通り、なくしたくないもので……だからつまり、守りたいもので。傍においておきたいもので。近くにいたり、あったりすると、とても元気に、幸せになれる。そんなもの、じゃないかな」
 その辺の解釈については、俺は感覚に頼っているところがある。大切であることに理由が必要なのかどうかは、考えたことがなかった。だって自分が大事だと思ったものは、もはや自明の事柄として、大事なものだったから。
「……元気に、幸せに……」
 隣では俺の言葉が、ゆっくりと反芻されている。空か、あるいは流れる雲を眺めながら呟かれる。彼女の視点は定まっていない。深思に集中している様子だった。
 しばらくすると、彼女はまた前方を向き「そうね」と沈吟する。
 このとき俺は、それをただ肯定として受け取った。
 だがしかしながら、そうではなく、彼女の次なる発言にこの口は言葉を失うことになる。
「じゃあやっぱり、私には、わからないわ」
 澄んだ声を媒介に、俺の耳へと届いてくる。乾いた音の波が幾重にも重なって、俺の脳を、心を揺らす。
「あなたの言う大切なもの……私、わからない。何かからそんな風に感じたこと、今までに一度もないの。あなたにとってのあの場所のように、純粋で無垢な幸せを与えてくれるものに、私は出会ったことがないわ」
 こんな答えが返ってくるなんて、予想だにしていなかった。大切なものがあるだろうという問いに、首肯以外の選択があるなんて、俺は思ってもみなかったのだ。ちょっと……いや、かなり驚く。虚を突かれる。
「そんなことないって。絶対、何かあるよ。誰にだってあるはずなんだから。大仰に考えることはない。些細なことでいいんだ」
 大それたものである必要はない。たとえば、昔大事にしていたおもちゃや本。そんな小さなものだって、拠り所になるのだから。大切なもの。お気に入りのもの。好きなもの。誰しもそういうもの持っているのだと、俺は今まで思っていた。それが当然のように生きていた。知る限り、例外はなかったはずだ。
 けれども彼女は、あくまで冷静に、俺の主張と相容れない意見を述べる。
「誰にだってあるはず、なのかしら。でも、私はわからないの。本当に思い当たらないの。それどころか、むしろ私には、全く反対の考えすらある。傍にあって、守るべきもので、なくしてはならないもので……そんなものが自分の周りにいっぱいあったら、逆に身動き取りにくいんじゃないのかなって。もっと言えば、鬱陶しいんじゃないかって。視点を変えたら、荷物にもなりそうじゃないの、そんなものたち」
「………………」
 正直、驚愕だ。
 俺はただ、ごくありふれた一般論を盾に主張をしていたに過ぎない。誰にでも大切なものがあるという一般論が、非常に共感できるもので、自分の矜恃と噛み合っていたというだけだ。普遍的な感覚であるがゆえに、否定はないと信じ込んでいた。
 でも、今このとき、目の前の女の子はそれに対して、完璧なる否定を放る。
「だいいち、守らなきゃいけないものでも、時にはどうにもならないことだってあるでしょう。今回のあなたの件が、まさにそうじゃない。気の毒だけど、あの銀杏の樹の広場は、もう更地になるのを待っているだけよ。守りたいものがあっても、結果として失ってしまえば、その喪失の悲しみはあなたにとって枷も同然でしょう」
 こんな議論、したこたがない。こんな否定、受けたことがない。こんな感覚、感じたことがない。
「だったら初めから、大切なものなんてない方がいいって……九条はそう、思うのか?」
 素直に怖いと思った。平然として、何も大切なものなどいらないと言う彼女を。そしてその意見が真だとした場合の、拠り所のない生き方を。
「まあ、そういうことに、なるのかしらね。学校の決めた工事なんて、あなた一人ではどうしようもないわけだし、どうにもならなければ、遅かれ早かれ諦めるしかない。悲しみは確実にあなたを縛る。でも、いくら悲しんでも、結局はやっぱり諦めるしかなくて、受け入れるしかなくて……それで、ひとたび失ってしまえば、案外といつか平気になっていくものよ。平気になってしまうということは、それはきっと、その程度のもの。初めから大した価値など、持たないものだったということなの。だからどうも私には、大切なものを持つこと自体、あまり重要ではないように思えてしまうのよね」
 彼女の主張は、矜持は、あまりにも冷めて乾いている。寒々とした、無味乾燥とした恐怖を、俺の中に植え付けていく。
 彼女は、本当にそんな風に思って生きてきたのだろうか。生きているのだろうか。拠り所もなく、たった一人、個を孤として。まるで暗闇の中を、ずっと独りぼっちで歩くみたいに。
 違う。それは違う。絶対に、違う。違うはずだ。
「でも……俺は、今の意見には賛同したくないな。何だかその論理はさ、とても悲しいよ。愛が足りない」
 俺は、何も映らないガラス玉の目で語る彼女に向かって明言する。
「愛、ねえ……陳腐な言葉だわ。何かを守るのって、とても大変なことなのよ。人間一人に守れるものは、それ相応の数と範囲に限られる。易安と、何でもかんでも守れるわけじゃないわ」
 外見的には、九条の語りは落ち着いている。彼女らしい平坦で穏やかな口調だ。
 俺の心の中には、彼女に対しての異が芽生え、大きくなり始めてきている。口をつく言葉がほんのちょっとだけ、わずかに沈む。
「じゃあ……じゃあ、さ」
 次の声は反動で、やや強く、勢いを伴うものとなった。
「どうにもならなくても、どうにかすれば……諦めるしかなくても、諦めなければ……そして平気になんて、ならなければ……そうすれば、それはやっぱり、大切なものってことになるんだよな」
 彼女がふと、こちらを向く。いつも真っ新に澄んでいる彼女の瞳が、なぜか今は濁って見える。
「おかしなことを言ってるわよ、あなた。屁理屈にもなっていないわ」
「でも、そういうことだよな」
「だよなって……ええ、まあ。仮にそんなことが、可能だとしたならね。そうかもしれない」
 九条の正視には、力がある。一種の説得力にも似た、反論を許さない雰囲気がある。呆れた様子で視線を外されても、残り香のようにその雰囲気は漂った。
 普段ならば俺は、そんな空気の中でわざわざ反論などしない。いちいち面倒だと思う側面もある。彼女相手に口が立つわけもないし。
 だが今回、この場合だけは明確に、確実に、引き下がることはできないと俺には思えた。認めることはできないと感じた。
 俺の矜恃に対し、言葉を返した彼女には、別に他意などなかったのかもしれない。ただの雑談への返答だったのかもしれない。あるいは、俺への慰めですらあったのかもしれない。
 けれども、その彼女の言葉は、俺に刺さった。恐怖を与えた。認めれば、自分の信じていたものが嘘になってしまうという恐怖。迷っていた自分が、半ばどこかで諦めていたのではないかという恐怖。大切な場所が本当に失われてしまうという、近く訪れる現実への恐怖。
 ああ、やはり、道は一つしかない。時間だって、もう少ない。俺は今更、手段を選べる立場ではないのだ。
 我儘だろうか。勝手だろうか。エゴだろか。きっと、そうだろう。否定などできない。俺は自分の矜恃を貫くために、胸の願いを突き通すと、今ここで決めてしまったのだから。自分の行為に付随する多くのリスクを、顧みないと決めてしまったのだから。
 俺と九条の相対を、先に崩したのは彼女だった。回れ右をして反対を向き、床の荷物を持ち上げて、穏やかに言う。
「さて、もう休憩はいいわよね。少し話し込んでしまったわ。遅くならないうちに、仕事を終わらせてしまいましょう」
 コツコツ、と定速のリズムを奏でて廊下を進み出す。彼女の行動は、いつもいつも俺の了承を得るよりも早い。
 俺はその背中を見つめつつ、不本意ながら彼女のおかげで固まった決意を深く飲み込み、少し遅れてあとに続いた。
 そこからはもう、お互い口は開かなかった。
 地平線の向こうで、赤い太陽が地の底へ吸い込まれていこうとするのが、俺の視界の端に映っていた。
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