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過去話・後日談・番外編など
もう一方のメリーミー 5
しおりを挟む夜彦が仕事で海外に向かったのはつい昨日。
誠が夜彦に新しい腕時計を買ってもらってから、ちょうど二週間後のことだった。
いい子で待ってろよ、と言って家を出ていった夜彦をどんな風に見送ったのか、誠はもう覚えていない。そんなことはどうでもよかったからだ。
はやる気持ちを抑えながら、誠は普段と同じ軽装で玄関へと向かった。
左手に新しい腕時計を付けて、財布だけをズボンのポケットに入れる。悩んだが、スマートフォンは後々位置情報を特定されそうな気がして部屋に置いていくことにした。
「あら、誠さん、お出かけですか?」
玄関で靴を履いている途中で、百合子に声をかけられた。誠は顔に人の良い笑みを貼り付けて振り返る。
「夜彦もいないので、ちょっと公園の方まで散歩してこようかと」
「まあ、いいですね。今日は良いお天気ですから」
なにも知らない百合子はにこやかに微笑む。
彼女は最近の誠が夜彦に心を開いていることを、心底喜んでいるらしかった。それが誠の演技だとも知らず、おめでたいことだ。
玄関を出て、門の前に立っている警備員と軽く雑談を交わしてから、誠は公園の方へと歩き出した。誠が散歩に行くことはよくあることなので、警備員もまったく誠を警戒する様子はなかった。
百合子も、警備員も、いつも通り一時間ほどしたら誠が家に帰ってくると思っているのだ。
これが散歩ではなく逃亡だと知っているのは、誠本人だけだった。
誠は公園に行く道から逸れ、駅の方へと向かう。
そして、その途中にある質屋に入った。
「買い取りで」
カウンターで店員に差し出したのは、二週間前、夜彦から貰ったばかりの腕時計だった。
誠になんでも買い与えてくれる夜彦が唯一与えてくれなかったのが現金だった。金を与えたら、自分から誠が逃げることがわかっていたのかもしれない。
だが、金がないのなら作ればいいのだ。
夜彦はいつも誠に良い物を持たせてくれる。それを売ったら金になる。その金でどこか遠くに逃げて、当分の間ホテルなりネットカフェなりに身を潜めればいい。
こんな簡単なことをなぜあの夜彦が見逃したのか──それはわからないが、気にする必要もない。
今頃夜彦は飛行機の中だ。いくらあの男でも、空の上では地上のことなどどうしようもないだろう。
新しい腕時計は三百万ほどで買い取ってもらえた。誠はその金で質屋にあった鞄を適当に購入して、残りの金をその鞄に詰めて質屋を出た。
身分証を提示したので、この店で腕時計を売ったことは足が付くだろう。
しかし、こんな近場でのことはどうでもいい。問題はここからだ。
誠は駅の窓口の列に並び、新幹線のチケットを買った。ここからある程度離れていれば場所なんてどこでもよかったので、座席に空きのある、あと数十分で出発するという新幹線に乗ることにした。
ふわふわするような、ハラハラするような、そんななんともいえない気分で誠は駅のホームへと向かう。あっけなさすぎて、現実味がなかった。
──これで、ようやく自由になれる。
駅のホームに着き、ようやく誠の口元に笑みが浮かぶ。
あとは新幹線に乗り込むだけだとホームを歩いていた、そのとき──ふと顔を上げた誠は、向かいに立つ女性がじっと自分の顔を見ていることに気付いた。
知らない女だ。大学生くらいだろうか。隣には彼氏らしき男がおり、ふたりともキャリーバッグを手に持っている。
──……なんだ?
なんとなく、嫌な感じがした。いや、誰だって知らない人間にじろじろと顔を見られたら不快にもなるだろう。
誠は女から視線を逸らし、その横を澄ました顔で通り過ぎた。すると──
「──今すれ違ったひと、あの神田議員の息子さんじゃない?」
ぞくり、と全身が粟立つような悪寒が誠を襲った。途端に心臓がどくどくと嫌な音を立てはじめ、歩みを進める足が震えそうになる。
「誰?」
「ほら、何年か前にニュースになったでしょ? ベータなのにアルファだって嘘ついてたのがわかって大騒ぎになったじゃん。顔かっこよかったから、今も記憶に残ってるんだよね」
「なんだよ、それ」
楽しげに話すふたり組から逃げるよう足を進め、誠は新幹線に乗り込んだ。
急いで席に座り、周りの視線から逃れるよう俯く。帽子もマスクもサングラスも持っていない自分の間抜けさが腹立たしかった。
──あれから三年も経ったのに、なんでまだ覚えてるんだよ……。
震える唇を隠すよう、手を口元に当てる。
予想外の出来事に、誠はなにも考えられなくなっていた。心臓の音が耳障りで、頭がやけに重くて、さっきまでの高揚感など一瞬で消え去ってしまっている。
今すぐ逃げ出したい。
逃げるためにここに来たはずなのに、自分の過去を知っているかもしれない人間がいるこの場が恐ろしかった。
いや、この場だけではない。これからどこに行っても、過去の罪は誠に付き纏う。夜彦に気を取られて忘れていたが、誠と父がしたことはそういうことだ。
誠は窓際の壁にもたれ掛かるよう、ずるずると体を倒す。
とても気分が悪かった。息苦しい。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、うまく息ができなかった。
誠は自身の胸あたりを手で押さえ、ハッと息を吐く。
バチが当たったのだろうか。多くのひとを騙してきたから。雅臣を傷付けたから。そんな誠を愛していると言ってくれた夜彦さえ出し抜こうとしたから。
視界がぐらりと揺れた気がした。
そのときだ。
嗅ぎ慣れた煙草の匂いがふわりと香った。
直後、なにかが誠の頭に触れ、ぐしゃぐしゃと雑に誠の髪を掻き乱す。
「ひとりでお散歩、楽しかった?」
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