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1 コーヒーの匂い
しおりを挟む――――あの夏の日、愛を知った。
◇◇◇◇
――――深い眠りから覚めれば、コーヒーの香りがふわりと鼻をくすぐる。
そしてカタカタッとキーボードを軽やかに打つ音と蝉しぐれ。クーラーが動く音に俺はゆっくりと目を開けた。
そうすれば、ブラインドの窓から入る夕焼けの光に照らされた男の横顔が見える。
椅子に座ってパソコン画面を見つめる真剣な眼差し。シャープな輪郭と、黒髪の柔らかいくせっ毛。風呂上がりなのか、首からタオルだけをかけた上半身裸の体は弛みなく、骨ばった大きな手は軽やかにキーボードの上を滑る。
そして前を閉めずに履いただけのジーンズから、ボクサーパンツが見えてセクシーだ。
……うーん、色っぽいなぁ。とても四十二歳のオジサンには思えない。
大人の男の色気を目の前にして、俺は思わず心の中で呟く。
でもベッドの上で横になったまま仕事姿を見つめていると、その視線に気がついたのか、彼は俺を見た。
「夏生、起きたのか」
低い声で呼びかけられ、俺はむくりと体を起こす。
「うん。今起きた」
「本当か? この前もそう言って、ずっと寝たふりしてただろう」
「そうだったかな?」
俺がすっとぼけて見せれば、彼はくすっと笑って俺の頭をくしゃりっと撫でた。大きな手に撫でられて俺の頭は少し揺れる。
「俺を見て、何が楽しいんだか」
彼は笑いながら言い、そしておもむろに俺の額に優しく手を当てた。じんわりと手の平の熱が伝わる。
「もうすっかり熱が下がったな」
「もう今朝には下がってたよ。ちょっと夏の暑さに体調を崩しただけって言ったじゃん」
「そうかもしれないが、ぶり返す時もあるからな」
彼は安堵した表情を見せて、それから席を立った。
「もう六時過ぎだ。素麺を作るつもりだけど、食べれるか?」
彼は椅子の背に掛けていたTシャツを手に取ると、着ながら俺に尋ねた。勿論、元気になった俺の答えはひとつだけ。
「食べる!」
俺が元気に答えると彼はくすっと笑った。
「はいはい。じゃあ俺は夕飯作ってるから、もう少しだけ寝とけ」
そう言うと彼は先に部屋を出て行き、一人残った俺は体を倒してパフンッと枕に顔を押しつけた。
……あー、もう。なんであんなにカッコいいかなぁ。
頭を撫でた大きな手、少しはにかんで笑った顔に優しい言葉。そして枕から香る好きな人の匂いに、胸はぴょこぴょこと躍る。
……京助さんって、もう存在自体がズルい気がする。全部が格好良すぎる。なにより、『体調悪い』って連絡したら家に呼んで看病してくれるなんて……惚れちゃうだろぉー。
俺は枕から残る香りを嗅ぎながらしみじみと思う。
―――――大嶋京助。俺の好きなひと。
京助さんは俺が住むマンションの二軒隣の住人で、有名な小説家だ。どれほど有名かと言うと、京助さんが書いた小説はドラマや映画化されてるほど。だから、お金持ちだと思う……聞いたことはないけど。
その上、京助さんはスタイルもよくて、顔もカッコいい。きっと顔出しして作家活動していたら、芸能人並みにファンがついただろう。
だから時々不思議に思う、どうしてそんな人が俺に構ってくれるのか?
俺と言えば、十九歳の大学二年生で。顔は、まあ普通だと思うし。頭も反射神経も人並み程度。特技と言えば、子供の頃に習っていたピアノが少し弾けるぐらい。
つまり、どこにでもいるただの大学生。
でも京助さんはそんな俺と仲良くしてくれている。俺が高校一年生の頃から。
……今思い出しても、あれは恥ずかしかったよなぁ。俺ってば、よくあんなことを聞けたなぁ。
俺は枕に顔を押しつけたまま、京助さんと出会った時の事を思い出す。
それは今日みたいな、うだるような暑さと蝉の騒音に眩暈がするほどの真夏日。
夏休みも間近な俺は、このマンションの非常階段で一人泣いていた――――。
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