京助さんと夏生

神谷レイン

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2 出会いは非常階段で

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 ―――――夏の夕方五時も過ぎた頃。
 日暮れはまだ遠く、35℃近い気温の中。当時、まだ高校一年の俺は非常階段に一人で座って泣いていた。

「うっ……ぅぐっ……うぅっ」

 俺は夏の暑さに汗を掻きながら、止まらない涙を手の甲で何度も拭った。それでも涙は落ちていく。

 それもこれも今日、人生で初めてできた彼女にフラれたからだった。

 しかもその原因が、初めての時にうまくできなかったから。端的に言うと、勃たなかったからだ……何が、とは言うまい。そしてその日以来、俺の下半身は沈黙を貫き続けている。だから俺はフラれたショックと不安でいっぱいで。

 ……これからどうしよう。フラれた事も悲しいけど、今後もずっとこのままだったら。でも……こんな事、誰にも相談できないし。

 特に親には恥ずかしくて言えない。そう思うと益々涙が出て来た。だって、この時の俺にとっては本当に真剣な悩みだったから。

 けれど、ぽろっと涙を零した時、滅多に人が来ない非常階段の扉が突然開いた。

 現れたのはおじさんとは言い難い、どこか華のある長身の大人の男。そして彼こそが、まだ見知らぬ京助さんだった。

 京助さんは人がいた事に驚いたようだったけど、それ以上に俺が泣いている事に驚き、口に咥えていた火の点いていない煙草を一瞬落としそうになっていた。

「あ、えっと……大、丈夫か?」

 京助さんはとても気まずそうな顔をしつつも、俺を見て尋ねた。さすがに見て見ぬふりはできなかったんだろう。でも俺は泣き顔を見られた事がただ恥ずかしくて、ついふいっと顔を逸らした。
 そうすれば京助さんは少し困惑した後、静かに開けた扉を閉めて戻っていった。

 ……追い出したみたいで申し訳ない事したな。返事ぐらいした方が良かったかな? でも恥ずかしいし。

 俺は閉まった扉を見つめながら、そんな事を思う。そして驚いたおかげか、俺の涙はいつの間にか止まっていた。

 ……また人が来るかもしれない。そろそろ家に帰った方がいいかな? でも、仕事から帰ってきた父さんと鉢合わせても恥ずかしいし。

 俺は俯きながら考える。でもしばらくそうしていると、また扉が開いた。
 ハッとして顔を上げれば、そこにいたのはさっき出て行ったはずの京助さんで、その手にはさっきは持っていなかったペットボトルのスポーツドリンクがあった。

「ほら、水分補給しとかないと干からびるぞ」

 京助さんは持ってきたスポーツドリンクを俺に差し出した。でもあまりに突然で、俺は戸惑うしかなかった。

「え、えっと」
「ほら、いいから。それとも苦手だったか?」
「いいえ」

 俺が答えると京助さんはスポーツドリンクを俺にずいっと差し出し、俺は戸惑いつつも両手で受け取った。スポーツドリンクはすごく冷えていて、熱を持つ体を少し冷やしてくれる。

 どうやら思っていたよりも体は熱くなっていたみたいだ。なので急に喉に渇きを覚える。でも、飲もうとする前に京助さんは一言俺に尋ねた。

「煙草、吸ってもいいか?」

 京助さんに聞かれて俺はこくりと頷く。
 そうすれば京助さんは「悪いな」と言いつつ風下に移動し、ズボンの後ろポケットに入れていた煙草の箱とライターを取り出した。
 そして箱から一本の煙草を手にするとおもむろに口に咥え、右手でライターの火を点ける。左手で風よけを作りながら煙草の先に火を灯せば、じわりと白の先端が赤く染まった。

 それから京助さんはライターを仕舞い、ゆっくり、じっくりと、味わうように深く吸い込み、咥えていた煙草を片手で取ると空に白い煙を吐いた。その煙は風に流されて、夏のまだ明るい夕空に消えていく。

 俺はその流れるような、でもどこか格好いい仕草と横顔に魅入ってしまう。

 だって京助さんの吸い方は、世の中の煙草を吸う人たちがするような、ただただ煙草を吸う行為とは全く別物のように見えたから。

 ”大人の男の吸い方”、そんな風に見えたんだ。

 でもあんまりに俺がじっと見ていたせいか、京助さんが俺の視線に気がついた。

「ん? やっぱり匂うか?」

 京助さんは煙草を片手で口元から離し、俺に尋ねた。でも俺は首をぶんぶんっと横に振って「これ、頂きます」と貰ったスポーツドリンクを開けて、ごくごくっと飲む。よく冷えたスポーツドリンクは美味しい。

 汗と涙で失った水分を補給するかのように、俺は一気にペットボトルの半分まで飲んでしまった。でも、飲んだ後になって気がつく。

「あ、あの」

 俺が声をかければ京助さんは「ん?」とこちらを見た。

「これのお金」

 そう尋ねれば、京助さんはプハッと笑った。

「俺が勝手にしたことだから気にするな」
「そう、ですか」
「そうだ。だから気にしなくていい」

 京助さんはそう言いながら、持っていた携帯灰皿にトントンと煙草の灰を落とした。だから俺は何も言えなくなってしまう。でも、最初に会った気まずさはもうなくなっていた。

 そして京助さんも俺にそれ以上何かをいう訳でもなく、淡々と煙草を吸っていた。一方、俺はまだ冷たいペットボトルを両手で握りしめながらそんな京助さんを見つめる。

 なんてことのない普通のジーンズとTシャツを着ているだけなのに、どこか艶っぽくて華がある男の人。

 ……なんていうのかな。……ああ、色っぽいって言葉が合うのかも。

 俺は京助さんを見ながら、そう思った。自分よりも圧倒的な大人の男に。
 でもそんな事を思っている内に京助さんは煙草を吸い切り、携帯灰皿に吸殻を押しつけて片付けた。そして俺を見る。

「じゃあ、俺は行くけど。困りごとがあるなら誰かに相談した方がいいぞ。意外とあっさり解決する時もあるからな」

 京助さんはそれだけを告げて、俺の前から去って行こうとした。けれどその言葉を聞き、俺は思わず京助さんを呼び止めた。

「あ、あの、待ってください!」

 俺が声を上げれば、京助さんは足を止めてこちらを見た。でも、俺は何と言っていいかわからず口ごもってしまう。簡単に口に出せるなら、こんなに悩んでいないから。

 けど京助さんは呼び止めた俺に問いただすでもなく、俺が口にできるまで何も言わずに待ってくれた。
 だから余計に、この人なら俺の悩みを笑わずに聞いてくれるかもしれない、と俺はペットボトルを握りしめ、京助さんにそっと打ち明けた。

「あ、あの……俺、悩んでる事があって。一つだけ、聞いてみてもいいですか?」
「ああ、俺で答えられるかわからないが……なんだ?」

 京助さんは面倒くさい顔をみせずに、真っすぐと俺に答えてくれた。だから俺は勇気を出して声に出す。

「あの、その………………って、こと、ありますか?」
「え? 悪い、なんて言ったか聞こえなかった」

 恥ずかしくって、あんまりに小さい声で言ったせいか京助さんは俺に聞き返した。なので、今度は思い切って声を大にして告げる。こうなったらやけくそだ。

「あの……ちんこ、勃たなくなったことってありますかッ!?」

 俺がハッキリと告げれば、京助さんは豆鉄砲を食らった鳩のように驚いた顔を見せた。まさか、こんな事を聞かれるとは思っていなかったんだろう。俺も初対面の人にこんな事を聞くとは思っていなかった。
 けれど京助さんは軽く受け流すことなく、正直に答えてくれた。

「いや、ないけど。もしかして、その事で悩んでいるのか?」

 問いかけられて俺はこくりと頷く。そして、その経緯を京助さんに教えた。初めての時にうまくできなかった事、それ以来不能になってしまった事をぽつぽつと。
 そうすれば京助さんは全てを聞いた後、思案顔で顎に手を当てた。

「なるほどな。でもまあ、緊張でそうなったんじゃないか? 今もそうなのはその時の事を思い出して不安があるから、とか。そういう事もあるって話だからな……でも、あんまり長続きしそうならちゃんと病院に」
「本当ですか!?」

 俺は京助さんの話を最後まで聞かずに食い気味に尋ねる。すると京助さんは目をパチリと瞬かせた後、ふっと笑った。俺があんまりに真剣に問いかけたからだろう。だからか、俺を安心させるように優しい声で答えてくれた。

「ああ、本当だよ。だから、そんなに思い詰めなくてもいいんじゃないか? まだ若いんだし。考えすぎる方が体に悪いぞ」
「けど……もし、また同じ事になったら」

 ……今度こそ自信がなくなる。

 俺は俯いて、ぐっとペットボトルを握る。でも、京助さんは俺にこう言った。

「そういう事はもう少し大人になってからした方がいいとは思うが……あんまり気負う事ないさ。大丈夫、次は上手くいく」

 その言葉は京助さんには何気ない一言だったかもしれない。でも俺にとっては魔法の言葉のようで、心にあった不安を消えていった。

 そして何の保証もないのに京助さんの言葉はなぜだか信じられる気がした。初めて会った人だけど、最後まで俺の話をちゃんと聞いて、答えてくれた人だから。
 けれど安堵した顔をした俺を見たからか、京助さんは寄りかかっていた壁から体を起こした。

「もう、大丈夫そうだな」
「あ、はい! 話を聞いてくれて、ありがとうございました! この飲み物も」
「気にするなって言っただろ? あと早く家に帰るんだぞ」
「はい。それと……この話は」
「勿論、誰にも言わない。約束する」

 京助さんは明言し、俺はホッと息を吐く。聞いたのはこちらだけれど、やっぱり恥ずかしい話だから。

「じゃあ、俺はそろそろ行くぞ」
「あ、はい。ありがとうございました!」
「礼は一回でいいよ」

 京助さんは苦笑しながら言うと「じゃあな」と軽く片手を挙げて、今度こそ扉を開けて軽やかに去って行った。俺はそれを見送り、ほぅっと息を吐く。

 ……はぁー、あんなかっこいい大人っているんだなぁ。

 心底、そう思って。
 そしてすっかり元気になった俺は飲みかけのスポーツドリンクをぐっと飲み干して、座り込んでいた階段から立ち上がった。頬を濡らしていた涙はすっかり乾き、心は軽い。

「俺も帰ろう」

 俺は一人呟き、扉に手をかけた。




 ――――そしてこの後、何もなければ俺と京助さんは再び会う事はなかったもしれない。同じフロアに住んでいると言っても、生活リズムは違うし、今までも交流はなかったのだから。

 でも俺と京助さんは一週間後に会う事になる……いや、正確には俺が会いに行った。ある手を使って……。

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