京助さんと夏生

神谷レイン

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19 涙と夏空

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 空に雨雲はない。なら、どうして肩が濡れるのか?
 そう思った時、俺はようやく理解した。京助さんが声を押し殺して泣いている事に。

 ……あの京助さんが泣いてる。

 俺はその事に驚いて、何も言えなかった。まさか、京助さんが泣くとは思っていなかったから。
 でも京助さんの涙は止まらずに、俺の肩口をしっとりと濡らし、そして隙間を埋めるように俺をぎゅっとより強く抱き締めた。

「きょう、すけさん?」
「……っ、夏生。俺が、俺がどんな思いで、お前の前から去ったか、わかっているのか? ……逃げるなら今の内だぞ。でないと、もう二度と離さない。絶対に離してやらないからな」

 京助さんは最終宣告する様に俺に言った。でも、逃げろと言うのに俺を強く抱き締めるから、俺は思わず笑ってしまう。

 ……ふふっ、京助さんってば、言ってることとやってる事が矛盾してるよ。

 そう思うけれど泣きながら俺に言う京助さんの優しさに、なんだか俺も泣けてきて。涙がじわじわと溢れ出し、俺は大粒の涙を零した。

「うん、もう離れたくないよ。もう俺から離れないで」

 俺が答えると京助さんは小さく「ああ」と返事をしてくれた。

 だから、もう離れることはないんだって、これからは京助さんと一緒にいられるんだって思ったら嬉しくて。胸の奥の熱さに、涙がぼろぼろと瞳から零れ落ちた。まるで泉から水が溢れ出すみたいに。

 そうして俺達はしばらく抱き合って泣いた。

 二十三と四十五の男が抱き合い、泣く姿は傍から見たら結構シュールな気もしなくもない。でも、俺達にはそんな事どうでもよかった。ようやくお互いの気持ちが通じ合えたから。

 そして、今まで胸につっかえていた辛さとか悲しさとか悔しさが全部涙になって溶けていくようで。大人になって泣くことなんて滅多になかったのに、俺の涙はなかなか止まらなかった。
 でも、三年分の涙だったのだからしょうがない。

 けど思う存分、泣くに泣いて、ちょっと気持ちが落ち着いてきた頃。
 京助さんが体をそっと離し、俺の顔を見つめた。俺の顔はきっと涙でべちゃべちゃだし、鼻水もちょっと出てる。目も赤くなって、カッコ悪いからあんまり見て欲しくない。だけど俺もやっぱり京助さんの顔が見たいから、顔を向き合わせてしまう。そしたら京助さんってば、涙に濡れる顔も色っぽいからやんなっちゃうよ。
 胸が無駄にドキドキしてしまう。

 けど京助さんはそんな俺に手を伸ばして、俺の瞳からぽろっと零れた一粒の涙を指先で拭った。
 そして仕方がない子だとでも言いたげな瞳を俺に向ける。

「夏生は頭が良いのに馬鹿だな、俺なんかを選んで」

 京助さんは苦笑しながら言う。だから真っ向から否定した。

「俺、馬鹿じゃないよ。だって、京助さんを選んだんだから」

 そう言い返せば、今度はハハッと声に出して京助さんは笑った。

「そうか。……なら、後悔させないようにしないといけないな」
「うん、後悔しないように俺と居て。俺は大丈夫だから……誰に何を言われたって、大丈夫だから。それに京助さんが何か言われたら、俺が守るから」

 俺がハッキリと言えば、京助さんは俺の顔をまじまじと見て、微笑んだ。

「俺は身を引くのが愛だと思っていたが、お前は戦う愛なんだな」
「え?」

 京助さんは小さく呟くように言い、そして俺はその言葉の意味が分からず、首を傾げる。

「大人になったなってことだよ」

 京助さんはそう言うと俺を真正面から見て、それからゆっくりと頭を下げた。

「え、きょ、京助さん!?」

 俺は驚くが、京助さんは構わずに頭を下げたまま言葉を続けた。

「夏生、悪かった。勝手にいなくなったこと、お前に酷い仕打ちをした事。すまなかった」

 京助さんは言い訳をすることなく、俺に謝ってくれた。全部俺の為だったのに。

 ……俺はこの人がこういう人だからこそ。

 胸がほんわかと温かさに満ちる。そして三年前、京助さんが最後に告げた言葉に返すように答えた。

「いいよ、京助さん。許すよ」

 俺が笑って言えば京助さんは頭を上げて、俺を見た。

「ありがとう、夏生」

 京助さんがお礼を言うから俺は照れて「いいよ」と言ったけど、京助さんは首を横に振った。

「いいや。いくら言っても足りないぐらいだ。俺を許してくれて、俺を好きなってくれて、俺を諦めないで……選んでくれて、ありがとう」

 あんまりにも京助さんが俺を褒めたたえるように言うから、俺は返事に困ってしまう。けど、京助さんは息を整えるとたった一言を俺に告げた。

 それは俺がずっと聞きたかった言葉。ずっと待ち望んでいた言葉だった。



「夏生……俺も愛してる」



 京助さんは優しい眼差しで俺を見つめ、優しい声で言ってくれた。
 その優しさに触れて、俺は嬉しくて、切なくて、喜びと愛しさでまた胸がいっぱいになってしまう。
 だから引っ込んだはずの涙がぽろぽろと瞳からあふれ出た。そして、俺もその言葉に精一杯の気持ちをこめて応える。

「京助さん、俺も……俺も大好きッ!!」

 顔を歪ませて泣きっ面で言う俺を見て、京助さんは楽し気な笑顔を見せた。そして俺を優しく抱き寄せて、よしよしっと頭を撫でる。

 だから、その優しさに俺はまた涙してしまうんだけれど。京助さんは俺のこめかみに柔らかいキスを落とすと、俺だけに聞こえる小さな声で言った。

「わかってるよ。お前の気持ちはずっと前から……ありがとう、夏生」

 名前を呼ばれて、俺は堪らなくなって京助さんにしがみつくように抱き着いた。
 そして俺はびーびーとみっともなく泣きながら思う。

 ……三年の歳月は長かった。でもこの日の為に必要な年月だったのかもしれない。三年の空白の代わりに、これからはずっと一緒にいられるのだから。きっと三年よりもずっと長い時間を二人で。そして、これからは何度だってこの気持ちを伝えていける、京助さんに俺の気持ちを。

 俺はそう思うと嬉しくってまた泣けた。だって気持ちを伝えた先、京助さんはきっと受け取って、返してくれるだろうから。

 俺は嬉しさに胸が弾けそうな思いを抱えながら、京助さんの肩口越しに見える夕暮れ空を見上げた。
 その景色は涙に揺れてはっきりしなかったけど、夏の白いもこもこ雲に赤い太陽の光が反射して、何よりも美しく見えた。

 ……俺、きっとこの景色を忘れない。

 そう思った。

 そして俺は実際にこの景色を一生忘れることはなかった。
 京助さんと共にあった日も、京助さんを見送った後も……幸せに死ぬまで、ずっと。









 ――――でも、それはもっと先のお話。今の俺達は……。







「ほら、夏生。そろそろ泣き止め」

 京助さんは大きな手で俺の両頬を包むと、親指で俺の涙を拭った。なので俺はずびびっと鼻をすする。

「夏生は泣き虫になったな。いや、会った時から泣き虫だったか」

 京助さんは最初の出会いを思い出したようで、笑いながら言った。だが俺は思わず口を尖らせる。

「別に、俺は泣き虫なんかじゃないよ。京助さんのせいだよ」

 俺は泣きすぎてちょっと野暮ったい瞳で見れば、京助さんは目を細めて微笑んだ。

「俺のせいか……そうかもな。じゃあ、俺が止めないとな」

 京助さんはそう言うと、俺の顔を両手で包んだままそっと俺に近づいて不意打ちのようにちゅっとキスをした。なので、俺の涙がピタリと止まる。というか、突然すぎて今何が起こったのかわからない。

 ……え? え? い、今、キスされた?!

 俺が驚きのあまり、目をぱちくり瞬きさせていると、京助さんは俺から手を離してくすっと笑った。

「涙、止まったみたいだな?」
「きょ、きょ、京助さん! するならするって言ってよ。ビックリするじゃん!」

 俺は胸をドキドキさせながら言う、でも本当は嬉しい。

「嫌だったか?」
「そんなわけないっ……けど、驚くから」

 俺がもごもごっと喋れば、京助さんは「いつかの仕返しだ」と言った。けど、俺は首を傾げる。

「仕返し?」
「寝てる俺にキスしただろう?」
「寝てる京助さんに?」
「あの夏祭りの後……忘れたのか?」

 京助さんに言われて俺はハッと思い出す。あの夏祭りの夜、俺が勝手にキスした事を。

「おおおおおっ、起きてたの!?」
「人の寝込みを襲うなんていけない男だ、夏生は」
「そ、それは」

 何も言い返せず俺はむぐっと口を閉じる。でもそんな俺を見て京助さんはハハッと笑った。そこでからかわれたのだとわかる。

 ……おかしい。三年経って、俺も大人になったのに全然変わってない気がする。

 俺はすっかり関係が元通りになってしまったような気がした。
 けれど京助さんは俺に近づくと耳元で、その上、色っぽい声で囁いた。

「でも、今度寝込みを襲う時はキスだけじゃなくて、もっと色々としてくれてもいいぞ? 俺も夏生に色々したいしな」

 誘うように言われて、俺は恥ずかしくなる。それがどういう意味なのか、わかるから。

「きょ、京助さんのエロおじさん!」
「知らなかったのか? だが、もう遅いぞ。あの頃は随分と我慢したが、もう夏生も大人だ。これから容赦はしない、覚悟するんだな」

 京助さんは怪しい光を宿した目で俺を見つめ、まるで水を得た魚のように生き生きとした顔で宣告布告した。なので、俺は「ひぇ」と慄く。

 ……つい数十分前まで悲し気な顔をして悲痛な声を上げていた人はどこに行ったんだ?!

 俺は京助さんの変わりように心底思う。でも何をされるのかちょっと楽しみでもある。俺だって好きな人に触れたい欲望はあるのだから。

 そして、これから先。その言葉通りに、俺は京助さんに色々とされてしまう訳だが……今は。

「夏生、楽しみだな?」

 京助さんはにんまりと笑って言い、俺は頬を赤くしながらも言い返した。俺だって大人の男になったんだ。

「京助さんの方こそ、これから覚悟しといてよねっ」

 俺がそう言えば京助さんは破顔し、その笑みに俺もつられて笑った。




 ――――そして、これからも俺達はこうして笑い合いながら過ごしていくのだと、俺は確信したのだった。



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