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湖水の砦
しおりを挟むイシオスらの案内で辿り着いたのは、ただ天幕を張っただけの、集落と呼ぶにも粗末に過ぎるものだった。
「おぉい、おぉい! 巫女様とシュシュリたちが戻ったぞぉ!」
一塊になって、身を寄せ合って過ごすテン族の皆がイシオスのその声に顔を上げる。
「巫女様が!?」
「アヤリ様……!」
わっ、と歓声が沸き起こり、疲れの色の濃かった皆の顔が晴れやかに明るくなった。
身の軽い子供がパッと立ち上がり、長老を呼びに走る。
「アヤリ、行こう。みんなが待ってる」
「シュシュリ……うん!」
シュシュリはアヤリの手を取り、早足で皆の元に向かった。
座り込んでいた者たちが皆立ち上がり、ふわりと円を描くように広がってシュシュリたちを迎え入れる。
「おかえり巫女様。おかえりシュシュリ!」
「ただいま、皆……無事で……よかった」
それが、シュシュリとアヤリの思いの全てだった。
コツコツと杖をつき、長老がやってくる。
「巫女よ、よくぞ無事に戻った。シュシュリよ、そしてヨエよ。よく巫女を守ってくれた」
長老が、くしゃくしゃの皺だらけの顔をますますしわくちゃにして微笑む。
その少し後ろから。
「竜の口はどうだったね?」
燕白が、縄も打たれず堂々と、だが猫背がちにやって来る。
乱雑に伸びていた髭が綺麗に整えられ、髪も香油を使ってきちりと撫で付け結い上げられたその姿は、いかにも立派な円華の高官だった。
装束こそテン族のものではあったが。
シュシュリもアヤリも、一瞬ぽかんと呆気に取られる。
「えん……」
シュシュリが口を開きかけたその刹那。
ゴォッ――!
と、強い風が吹き付けた。
「おっ……わぁ……!」
燕白の体が風に煽られ吹き飛ばされる。
皆が突然の強風に怯えて伏せた。その上に翳り差す大きな影。
『我が力を奪い、ほしいままにしてきた円華人ではないか……!』
龍の怒りの咆哮が轟いた。
***
恐ろしい巨軀、轟く声に、テン族の民は縮こまり恐れを為す。
巫女様! どうか鎮護を! とアヤリの周りに縋りついていった。
「り、龍神様……! 龍神様、どうかお鎮まりください! あの者は、たしかに……円華の者ではありましたが」
アヤリが両手を翳し、龍に向かって声を張り上げる。
吹き飛び転んだ燕白に、シュシュリが近付き手を差し伸べた。その眉が寄っていく。
「相変わらず軟弱な。立てるか、燕白」
「やぁ、シュシュリ。面倒をかけるなぁ。……いや、ぅうむ。龍そのものを引き連れて戻るとは、さすがに予想外であったよ、わしも」
シュシュリの手に掴まり起き上がりながら、燕白は龍を見上げ言った。
アヤリに宥められながら、しかし、龍の湖水の如く深い青色の瞳がギラギラと燕白に注がれている。
「龍にも嫌われる円華人……か。この世のあらゆる土地で嫌われそうなわしらであることよ。もはや呪わしいなぁ。……しかし、しかし龍神様よ。こうして再び珠と、巫女を、あなた様の御許に向かわせたのもこの円華人でしてな」
燕白がゆるりと腕を広げ、己を示しながら軽く頭を下げて見せる。
龍は未だ怒りの浮かぶ眼差しを向けていた。
「り、龍よ……! こんな軟弱者、捻ったところでなんの威光も示せません。それより、……それより」
シュシュリは思わず燕白の前に立ちはだかり、龍の眼差しをその身に代わりに浴びながら言った。
「テン族は皆、あなたに畏怖と感謝を捧げたい。そうだな、アヤリ。ですよね、長老」
「そ、そうです!」
アヤリが慌てて頷き、長老も頷いた。
龍は、改めてシュシュリとアヤリを、長老を、そしてテン族の皆をジロリと睥睨した。
皆がその眼差しに震え上がり、祈りを捧げて膝を折る。
その光景に、龍は一旦溜飲を下げたように苛烈な瞳の色を和らげた。
『よかろう――。ならば、我の為におおいに……そう、祭りでも宴でも。ならばさっさと』
「あ、あの、でも龍神様!」
龍の言葉を途中で遮り、アヤリが声を上げた。
「ここでは。ここにはなにもありません。いつまた円華の軍が、魔獣が、そして他の部族がやってくるともしれません……龍神様。私たちテン族には、落ち着ける安息の地が必要です。そうであればこそ、心置きなくあなた様のためにお祝いもできるはず……」
龍は、唸った。
『汝ら……そう言って、さっきから……我を、良いようにこき使おうという算段ではなかろうな!』
シュシュリは、息を呑んだ。
さすがに龍も気付いたか、と身構える。
龍の力が凄まじく恐ろしいことは身をもって知っていた。
「ち、違います! ただ……」
アヤリは必死に言葉を探している。
龍の眼光が鋭くなっていく。
不穏な風が渦を巻き、辺りに吹き付けてきていた。
ふいに、燕白が口を開く。
「龍よ。御身も薄々察しておいでだろうが……人間とは実にか弱い生き物でしてなぁ。荒れ果てた地で、風を防ぐ壁も、飲む水もないままでおれば早晩死ぬもの。民が死ねば、畏怖も感謝もありますまい。ここはひとつ、先行投資的に施されてみてはいかがかな」
『えぇい! 汝如きにそのようなこと……言われるまでもないわ! 安息の地だと……よかろう、これで最後だ。次はないぞ!』
***
大地が鳴動する。
揺れる、揺れる、揺れる。
その振動は凄まじく、テン族の皆はまた身を寄せ合って震え竦みながら、その様を見守った。
作り替えられていく大地。
ひび割れ乾涸びた赤茶けた大地の底から、こぽりこぽりと水が沸く。
出来上がっていく大きな湖。
更に盛り上がっていく赤土の大地が、次々と形を成し、次第にそれは……。
堅牢な砦のようになっていく。
「……す、すごい」
誰かがぽつりとこぼした感嘆の声。
半日も経った頃、そこには、豊かに湧き出る湖水と要塞が出来上がっていた。
『見たか、人間ども! これが我の力であるぞ!』
龍がまたしても傲然と言い放つ。
「り、龍神様……万歳!」
それに誰かが一声を上げれば。
追随して次々に沸き起こる歓声と称賛の声は波のように広がっていく。
空に宵の明星が瞬く頃。
龍は人々の歓声にようやく気を良くし、高らかに吼えた。
***
湖水の砦に、テン族たちは急いで移住を開始した。
完全な夜の闇に支配される前に、と誰も彼もがおおわらわだった。
煌々と篝火が焚かれる砦の中を、皆があちらへこちらへと走り回っている。
龍は、皆の移住が済み次第感謝の宴をするから、とアヤリが取りなして今は落ち着いていた。既に多くの感謝と喝采を送られたからか、意外にもおとなしく、湖の中に潜っていった。
シュシュリは、出来上がったばかりの砦のなかをうろうろと歩き回って、燕白を探していた。龍が造り出した砦は、これまでシュシュリが暮らしてきた村や、渓谷の洞窟に比べるとかなり広い。
何層かに分かれ、居室にできそうな部屋から訓練に使えそうな大広間まであった。
テン族の総勢は二百にも満たない上、家族として一塊のものも多く、持て余しそうなほどにも思えた。
そして、そんな広さの中では、案外と人ひとり探し出すのは楽なことではないとシュシュリ
は思い知った。
「エンハク様……? そういや見てないねぇ」
「エンハク様かい。さぁ、どこいったかな」
「エンハク様なら長老と話してらしたのを見たけどねぇ」
聞いた話を頼りに長老のもとに赴くも、長老は首を横に振った。
「随分まえにわかれたよ。……あぁシュシュリや、アヤリもおまえも疲れたろう。好きな部屋を選んで早めに休むんじゃぞ」
「……はい、長老」
シュシュリは、確かに疲れていた。
旅立ってから七日。いや、それよりももっと前から、いろいろなことが一気に起こりすぎていた。
それまで考えたこともないような出来事が、怒涛のように押し寄せてきていた。
円華の将から御珠を取り返そうと決意した、あの時から。
シュシュリは、本人が思うよりもずっと大きなことをしでかしてしまったのだ、と今になって実感していた。
それはどうにも現実離れしてもいて、今起きている全てがシュシュリが見ている荒唐無稽な夢ではないかとも思える。
なにか、これは夢でもなんでもないのだという確かな現実感が欲しくて、それを燕白こそがくれるような気がして、シュシュリは焦燥にも似た気持ちで足早に砦を見て回った。
ひゅ、と湖水を渡る冷たい風がシュシュリの赤銅色の髪をそよがせる。
煌々と輝く月が開けた窓から入り込み通路を照らしていた。
その窓から見える突き出した広い張り出し櫓の上。
ぼんやりと佇む男の姿を見つけ、考えるより先にシュシュリは駆け出していた。
「燕白!」
張り出し櫓の突端で湖上を渡る風に吹かれていた燕白が、シュシュリに呼ばれゆっくりと振り返る。
月明かりを背に、もともと細い目を線のように細めて笑うその顔は、いつも通り緊張感のかけらもなく緩かった。
変わりのない燕白の風情に、シュシュリは不思議と安堵する。
「長旅で疲れているだろう、いくら鍛えておるとはいえなぁ。休めるときに休んでおくといいぞ」
「そんなこと、おまえに言われずともわかってる」
思わず倹のある物言いになり、シュシュリはしまったと眉を寄せる。燕白は変わらない笑みを浮かべたまま、それもそうだなと頷いた。
シュシュリは、戸惑った。
わざわざ探して、やっと見つけて声までかけて、可愛げのないことを言って。そこから次になにを言えばいいのかわからない。
燕白は視線を湖に向ける。
ここからずっと東の方角に円華の都がある。
シュシュリは燕白の隣に立ち、同じ方角を見ながら、ちらりとその横顔を見た。
「……なにを、考えている。おまえは」
「……んん? いやぁ、うん。明日の朝飯はなんだろうかなぁ、とか」
「ウソをつけ。……円華の軍が、追ってきたのだろ。どうして」
自ら自軍に弓引くような真似をしたのか。
どうしてテン族を助けるようなことをしたのか。
それをどう聞けばいいのか、シュシュリは言葉を探しあぐねた。
「出かけているうちに仲間と、帰る場所もなくしては哀しかろう。そなたが戻る前にテン族が円華に滅ぼされてもみよ。おそらくそなたはやけになって、単身帝国に特攻も仕掛けかねん。あたら若い命を……あまり無為に捨てさせるのもなぁ」
口元の髭をかりかりとかきながら、燕白は苦笑気味に言った。
シュシュリは、うまい反論も思い付けずムッと口を引き絞る。
「わしも……どうせ捕まれば死罪。テン族を見捨てようが助けようがそこは変わらぬ。変わらぬなら……いや、これを言うとあまりにも薄情に聞こえそうだ。やめておこう」
燕白は息を吐いて首を振った。
燕白にしてみれば、同郷の仲間を自らの采配で死なせたことになる。
そこになんの葛藤もないとは、シュシュリも思わなかった。
「礼を……言いたかったんだ。燕白。私の……仲間を、助けてくれたこと。それと……おまえが、ちゃんと生きていてくれたこと」
燕白の線のように細い目がわずかに見開く。
黒い洞穴のような瞳がシュシュリを見つめる。シュシュリは、湖上を渡る風の冷たさに安堵した。やや頬が熱かった。
「そこまで、まあ、不義理もできまい。そなたの居らぬ間に、などと。うん。……はは」
燕白の乾いた笑い声。
シュシュリは、咄嗟に燕白の手を掴んだ。
白い手首に、もう縄目の痕は残っていなかった。この男と初めて出会ってから、まだほんの十日程度。共に過ごした時間はもっと短い。
「シュシュリ……?」
燕白の声音に、やや感情が乗った。それは疑問や動揺に似ているように思える。
「ウソみたいなことの連続で、実感がなくて。それで……その……だから」
シュシュリは、燕白の顔を見られなかった。
その先を言葉にもできなかった。
ただ代わりに、燕白の腕の中に自ら飛び込みその胸に抱き付いた。
頭の上で、息を呑む音がした。
「シュシュリ?」
「いいから。少しだけ……このままで居させてくれ」
燕白の、薄い胸板に額を擦り寄せる。
トクトクと心臓の音が聞こえる。
シュシュリは、そのことに深い安堵を覚えた。そのまましばらく、燕白もなにも言わず、シュシュリもなにも言わなかった。
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