青春ヒロイズム

碧月あめり

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1.微かな希望

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 前を見つめながら唇を噛んだとき、左足の靴の側面に、何かがトンっとぶつかった。その小さな衝撃で、私の脳裏に張り付いていた彼女たちの残像が一気に消し飛ばされる。

 私の足元には、サッカーボールがひとつ転がっていた。立ち止まってぼんやりと見ていると、離れたところから誰かが声をかけてくる。

「すみません! 大丈夫ですか?」

 顔を上げると、ジャージ姿の男子生徒が校庭の真ん中からこちらに向かって駆けてきていた。

 体育の授業で使っていたサッカーボールが、私のところまで飛んできたらしい。

 私の足元から離れて、ゆっくりとした動きで斜め前方に転がっていくサッカーボールを三歩進んで追いかけ、拾い上げる。

「すみません。ありがとうございます」

 私が振り向いたのと、駆け寄ってきた男子生徒が声をかけてきたのは、ほぼ同じタイミングだった。

「いえ」

 サッカーボールを手渡したらすぐに立ち去るつもりだったはずが、目の前に立った男子生徒の顔を見た瞬間、私の動きが止まる。

 え、嘘……。

 茫然としていると、彼が困ったように首を傾げながらサッカーボールを指さしてきた。

「あの、ボール……、いいですか?」

「あ、ごめん……」

 ハッと我に返った私の手から、サッカーボールが滑り落ちる。

「どうも」

 私を見てちょっと笑ってから、彼がバウンドしたサッカーボールを器用に足で蹴り上げる。そのまま、くるっと踵を返すと、ボールを蹴りながら校庭に戻って行ってしまった。

「遅ぇ、カナキ。授業中にナンパしてんじゃねーよ」

 校庭にいる生徒の誰かが、冗談まじりに叫ぶ声が聞こえてくる。

 サッカーボールを取りに来た男子が「カナキ」と呼ばれているのを聞いて、私の推測は確信に変わった。

 冷めていた身体がじわじわと熱を帯び、胸が騒ぐ。


 やっぱり「カナキくん」だ。

 彼がサッカーボールを蹴って校庭に戻ると、中断されていたらしい試合が始まる。

 他の男子生徒たちに混ざって校庭を駆け回る彼の姿が、私には一際目立って見えた。友達と笑いながらふざけ合っている彼の横顔が、昔見つめていて彼の横顔とリンクする。

 ボールを渡したとき、彼が私に気が付いている気配はなかった。

 きっと、たいした関わりのなかった元同級生の私のことなんて覚えていないだろう。同じクラスになったこともあるけど、彼とクラスメートだったのは小学生のときだし、もう五年も前のことだから、忘れられていて当然だ。

 でも、私にとっての彼は、簡単には忘れられない人だった。地元の幼稚園と小学校の同級生で、小学校を卒業するまで片想いし続けていた初恋相手だったからだ。

 小学校を卒業する前に思いきって告白してみようかと思ったけど、結局できないままに終わってしまい……。中学受験をして私立校に通うようになってからは、地元の中学に進学した彼との接点は一切なくなった。

 だけど、ただ一度。中学一年生のときに、偶然彼を見かけたことがある。

 夏休みでうちに遊びに来た従姉妹を地元の神社の夏祭りに連れて行ったら、そこに彼も来ていたのだ。

 男女混ざった複数人のグループの中にいた彼は、小学生のときよりもグンと背が伸びていて、ちょっとだけ大人っぽくなっていた。

 でも、見たのはほんの一瞬で、従姉妹と出店の列に並んでいる間に、彼の姿はお祭りの人混みの中へと消えてしまった。

 そのあとしばらくは、地元の駅やコンビニに行くたびに彼に会えないかと期待する日々が続いたけれど、夏祭りの日のような偶然は二度と起こらなかった。

 それから日が経つうちに、諦めの気持ちとともに、彼を思い出す機会は少しずつ減っていた。

 高校生になる頃には、彼への気持ちは甘酸っぱい初恋の思い出となり、記憶の中へと沈みつつあった。

 それがまさか、こんなところで再会するなんて。

「友ちゃん? 何してるの?」

 お母さんに呼ばれてハッとする。

 校庭の彼の姿に釘付けになっていた私は、お母さんの存在も、自分が今ここにいる理由もすっかり忘れかけていた。

「ごめん、何でもない」

 正門の前に立ったお母さんが、振り返って私を待っている。走ってお母さんに追いついた私は、正門を通り抜ける前に校庭を振り返った。

 そろそろ授業の終了時間が近付いているのか、サッカーの試合を終えた男子生徒たちが少人数のグループごとに纏まって歩きながら、先生の元に集合し始めている。その中に、友達と戯れあいながら笑っている彼の姿も見えた。

「友ちゃん?」

 お母さんが、ジッと立ち止まっている私に声をかけてくる。

「あ、うん」


 できれば、もう少し彼のことを見ていたかった……。

 後ろ髪を引かれるような気持ちで校庭に背を向けると、お母さんが私の顔を横から覗き込んできた。


「何?」

「ううん。友ちゃん、新しい学校気に入ったのかなーって思って」

「どうかな。まだわかんないよ」

「友達がたくさんできるといいわね」

 笑ってそう言いながら正面に視線を戻すお母さんに、私は何とも答えられなかった。

 友達とか、楽しい学校生活とか、そういうものにはもうあまり期待していない。新学期から編入することになるこの高校では、卒業までのあいだ、なるべく目立たないように、無難に過ごそうと思っている。

 だけど、ひさしぶりの彼との再会は、この頃ずっと沈みがちだった私の心を、少しだけ明るくしてくれた。

 何か、特別な期待をしているわけじゃない。小学校時代の元同級生にすぎない私が、彼の目に留まるはずもない。

 それでも、四月になって学校に来れば、また彼に会えるかもしれない。そう思うと、ひさしぶりに胸がドキドキした。

 彼との再会は、前の学校を辞めてからずっと真っ暗だった私の世界にそっと差し込んできた、ひとすじの光のようだった。
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