調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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上意討ち(三)

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 藩主や一族が住まう奥御殿は、大書院おおしょいんの畳廊下でつながる小書院のさらに奥、二の丸御殿西翼に位置する。大書院は上段之間を備えた一之間から三之間の大広間からなる最も格式の高い建物で、儀式や賓客を迎える場として用いられる。広間の周囲を幅三間の長大な畳廊下が回廊し、外を向いた壁一面は障子張りとなっている。障子を透かし薄明るい光が満ちる人気のない畳廊下を過ぎ、城主と側近の対面所となる小書院を横手に見ながら廊下をさらに進むと、奥御殿に至る。
 奥御殿には藩主一族の居間や寝所、湯殿、奥向き女中らの住居や台所などが連なっている。かつては本丸御殿に藩主以外の家族が住む大奥があったが、正室と嫡男の江戸集住が義務となってからは、二の丸御殿奥に大奥の機能も移されたそうだった。藩主の居間は御座ござの間と呼ばれ、雁の間、鶴の間、牡丹の間の三つがあり、私的な居間として、また執務を行う場として使用される。嫡男以外の若君や側室は奥御殿に住まうが、現在側室はおらず、若君である宗靖のみがここに暮らしていた。
 奥御殿の装飾を抑えた水墨山水画の襖絵が続く畳廊下に入ると、表の混乱が嘘のような静寂が広がっていた。廊下の障子が所々開け放たれていて、広縁の外に広がる緑の濃い庭からは、雨に濡れた梔子くちなしのあえかな香りが漂い、黄鶲きびたきの玉を転がすように澄んだ声が響いてくる。体を返り血に染め、白刃を提げて大股に進みながら、久弥は四人が森閑と澄んだ御殿の空気に、血の匂いをまき散らしているかのように感じていた。
 鶴の間に差し掛かったところで、突如襖が内から開き、侍が数人廊下に転げ出てきた。男たちは四人の前に平伏するなり、口々に声を上げた。

「畏れながら申し上げます!宗靖様に叛意などあられませぬ。どうぞご温情を。なにとぞ、なにとぞお願い申し上げまする」
「若君は清廉なお方にあらせられます。家木家老が若君を担ぎ上げ、このようなお立場に追い込んだのでございます。若君に非はございませぬ!」
「静まらぬか」

 抜き身の刀を提げた浜野が一喝すると、男たちが赤い目を見開き一瞬怯んだ。

「……いえ、黙りませぬ。ご温情賜れるのであれば、我らの首、喜んで差し出しまする。どうか、どうかお慈悲を」

 宗靖の近習小姓なのであろう男たちが涙声で言い募るのをちらりと見ながら、久弥は無言で中に足を踏み入れた。
 障子に透ける白々とした清潔な明かりが、やわらかく部屋に満ちている。一部を開いた障子の向こうの広縁は深緑の広い池に面していて、雨が水面をしきりと騒がせているのが見えた。その十五畳ほどの座敷の上座に、若い男が脇息に頬杖を突き、胡坐をかいて座っていた。
 青年の前には側近の侍が三人、決死の形相で控えている。広縁から戻ってきた者たちもそれに加わる。全員脇差に手を掛けているのを無視して、久弥は二間ほど離れたところに立ち止まると口を開いた。

「兄上でおられるか」
「……岡安久弥とかいう三味線弾きは、そなたか」

 つまらなそうな返答が返ってきた。
 涼しげな目元に、鼻筋の通った端正な面をしている。わざとのように崩した姿勢でも端然として見えるのは、育ちのよさのなせる技だろうか。

「ふうん。なるほど、腹違いとはいえ、父上や彰則とやはり似ているものだな」

 片手で白扇を弄びながら、薄い唇を歪めて宗靖が笑う。

「兄の上意打ちを命じられるとは、お主も損な役回りを押し付けられたものだの。日陰の身から世子に据えてやるとでも言われたか」

 軽口を叩くと、宗靖は目の前の家臣に顔を向けた。

「そなたたち、下がれ。話の邪魔だ」
「し、しかし……」
「なりませぬ!」

 男たちが引きつった顔で言いながら脇差を握り締める。

「今更何になる。いいから、行け」

 宗靖が声を低めて促し、久弥を見上げてくだけた調子で言った。

「この者らに罪はない。叩き斬ってくれるなよ」

 浜野が染田を促して前に出た。

「……お覚悟下さいませ」

 白刃を上段に構える二人を見上げ、皆がわっと絶望的な声を上げた。
 抵抗されたためにやむなく家木と共に討ち取った、というのが彰久の筋書きであれば、宗靖には弁明することはおろか、武士として腹を切ることさえ許さない。問答無用の死を与えるのみだった。

「騒ぐな。皆、下がれ」

 宗靖は白扇で、とん、と膝を叩くと、表情を消した顔で平坦に言った。害意も敵意も感じられぬ、ただ晩秋の野のような乾いた諦念が漂う面差しだった。
 
「おやめ下さいませ!後生にございます!」
「若君、どうか、どうか」

 侍たちが脇差を抜くかどうか迷う様子を見せて悲痛に叫ぶ。近習小姓の多くは身辺警護役として武芸達者が選ばれるから、戦うとなれば死闘となるだろう。だが、刀を抜けば宗靖に藩主への異心ありと証明することになる。戦おうと戦うまいと、出口はないのだ。切羽詰まった男たちが久弥をすがるように見上げ、ただ静まり返った双眸が自分たちを見下ろしていることを覚り、絶望に砕かれるのが見て取れた。

ーー抜くか。

 男たちの目が、溺れるような絶望から死を覚悟した鋼のような光を宿すのを、久弥は虚しい思いで見詰めた。
 浜野と染田が殺気を隠そうともせずに男たちに目を据える。すぐ後に立つ本間も、即座に飛び出すべく身構える気配を感じた。

「抜くでない、たわけ。佐々岡、下がらぬか。やめろというのが聞こえぬのか!」

 宗靖が余裕を失った表情で声を荒げた。 

「下がりませぬ。まずはそれがしをお手討ちにしていただきます。でなくばここは譲りませぬ」
 
 宗靖の前に膝をついている男が、涙を溜めた目を見開きながら、唸るように絞り出す。握り締めた脇差の鍔元で、鯉口を切ろうと手に力が篭もる。

「馬鹿め!」

 誰に対する罵りかわからぬように、宗靖が突如激しく咆えた。なげうった扇子が空虚な音を立てて畳を打ち、ころころと転がって沈黙する。
 兄の顔を見下ろすと、肩を喘がせながら兄も久弥を見上げた。精一杯の抵抗のような皮肉な表情は鳴りをひそめ、隠しようのない煩悶が吹き出すように顔を覆う。己の最後を受け入れようとしながら、無念だと全身が叫んでいる。ただ無念でならぬ、と宗靖の若い魂が身を絞るように絶叫している。

ーー斬らねばならない。

 そう己に言い聞かせながらも、久弥はその叫びに耳を塞ぐことができずにいた。凝然と瞠った瞳が痛ましいほどに澄んでいるのを見て取ると、知らずにきりきりと奥歯を食い縛った。浜野と染田の膝が、獲物に飛びかかろうとする獣のごとく音もなくたわみ、鯉口を切れば斬り捨てようと力を溜める。御座の間に満ちる緊張が頂点に達した、その刹那、

「──待て」

 浜野と染田が一拍置いて振り向いた。

「は……」訝しげな二人を目で制すると、久弥はゆっくりと刀を鞘に納めた。
「若君」
「若君……」

 今にも打ち落とそうと刀を振り上げたままでいる二人の戸惑った声を聞きながら、兄の前に歩み寄ると、小姓たちがぎょっとしたように仰け反った。久弥は宗靖の目の前に片膝をつき、静かに言った。

「……兄上、隠居を飲んでいただきます。よろしいか」

 激しい苦痛に襲われたかのように喘いでいた宗靖が、怪訝そうに瞬きした。

「桃憩御殿にてご辛抱下さい。兄上がご側近を抑えてくださらねば、元も子もございませぬぞ」

 噛んで含めるように言って、両脇の家臣らに視線を投げる。

「兄上をお連れせよ。急げ」

 佐々岡と呼ばれた実直そうな顔をした男が、我に返ったかのように息を飲んだ。大きく胸を喘がせながら、寸の間宗靖と久弥を見比べると、がばと平伏するなり這うように宗靖ににじり寄る。

「若君、どうぞお早く。参りましょう」

 宗靖がぼんやりと久弥の顔を見上げた。

「何……何のつもりだ。見逃すとでもいうのか」
「久弥様!」

 仕手たちが口々に声を上げるが、久弥は聞こえぬように宗靖の顔を見ていた。

「無事、兄上を御殿まで送り届けよ」
「は……ははっ!」
「かたじけのうございます。かたじけのう……」

 侍たちはすすり泣きながら頭を下げると、呆然としている宗靖を半ば引きずるようにして、鶴の間を小走りに出て行った。

「浜野、本間、供をしろ。兄上が無事御殿にお入りになるのを見届け、危害を加えようとする者が現れたら退けよ」

 桃憩御殿は、元は先代藩主の生母・照寿しょうじゅ院のために建てられた別邸で、舞田の城下町の外れの山裾にある。遠ざかる足音を聞きながら命じる久弥に、浜野が迷うように囁いた。

「……若君、よろしいのですか。御前は……」
「兄上を討てとは、命じられておらぬ」

 浜野と本間は束の間目を見合わせると、しばし久弥の顔を凝視した。

「……御意にございます」

 刀を納めてその場で一礼すると、二人は踵を返して大股に歩き去って行った。
 いつの間にか、雨が止んでいた。
 染田が何かを言いかけて、黙り込む気配がする。
 側用人たちが消えた廊下に目を向けると、雲間から差す陽光が池の面に踊り、緑の滴る中庭が、障子の間に美しい借景を作るのが見えた。

***
 
 戦闘での負傷者を手当てし、死者の身元を検め、家木派と見られる家臣を調べ上げ、取り急ぎ登城差し止めの上差控えとした。また桃憩御殿の浜野、本間と遣り取りをしながら、兄の暮らしに不便がないよう取り計らい、用人らに命じて乱闘で荒れ果てた二の丸御殿表の後始末にも取りかかる。すべてが一段落する頃には、すっかり日が落ちていた。
 ひどく疲れて思考が鈍っていた。湯殿を使った後、饗庭や重役らとささやかな祝宴を開いて皆をねぎらうと、ようやく寝間に入った。
 暖かな夜なのに、体が重く、痺れるように冷たい。疲れきっているはずが、床に入っても眠りはなかなか訪れなかった。
  
……己はこんなところで、何をしているのだろうか。

 見知らぬ部屋の暗い格天井を見上げていると、ふっと冷たいものが胸を過った。

「見事、お母上様の仇をお取りになられましたな」

 宴席で、涙ぐみながら言った饗庭の声が蘇る。

ーー仇か。

 母を斬った川中を、あの向島の秋の日を、忘れたことは無かった。
 だが、心はまったく晴れなかった。望んでした仇討ちではなかった。大廊下に累々と折り重なる遺骸と、絶叫する宗靖の姿が目の前を過った。
 いたたまれぬ心地になり、庭に出て夜風にでもあたろうかと考える。しかし、次の間に控えている不寝番が飛び出して来るだろうと思うと億劫で、息を潜めている他になかった。
 久弥は腕で目を覆うと、ただ夜の底で息をしていた。

***

 翌朝から、久弥の一日は若君としての日課に追われてはじまった。明け六ツに起床し、小姓に世話されながら洗顔し、歯を磨き、侍医の診察を受け、髪結い番が現れて月代を剃って髪を結う。続いて朝餉を取り、裃に着替えて仏間で先祖の位牌を拝する。それらを終えてから、午前の政務に臨むのである。
 御座の間である雁の間で朝餉を取っていると、側用人らが目通りを願い出ていると小姓が伝えに来た。毒見をされて冷めた飯を、家臣に見守られながら一人取る食事は味気なかったので、見知った二人の来訪は嬉しかった。
 人払いを命じると、さんさんと朝日の降り注ぐ庭を望む畳廊下に、二人の側用人が現れた。

「お食事の席をお騒がせしまして申し訳ございませぬ。これより染田と共に江戸へ帰参致しますため、ご挨拶に参上致しました」

 下座で叩頭した本間が言った。
 そうか、と久弥は頷いた。浜野と本間は江戸上屋敷の側用人であるし、染田も同じ上屋敷の小姓組に属する。舞田に残れるわけではない。一抹の寂しさを覚えた。それと同時に、江戸という言葉に鋭い痛みが胸に広がり、久弥は強いてそれを見ないように心の内で蓋をした。

「兄上のご様子はいかがだ」
「は。ご不自由なくお過ごしとお見受け致しました。二の丸御殿からお身の回りの品をすべて持ち出すことばかりでなく、ご近侍までも連れて行くことをお許しいただき、感謝申し上げるとのお言葉にございます」

 久弥はしばらく口を噤んだ。

「……兄上のお部屋には、書物が多かったそうだな。学問出精のお方か」

 浜野が頷いた。

「……はい。ご幼少の頃から学問に励まれ、藩校の学頭を呼んで漢籍や蘭学の講義をお聞きになっておられたそうでございます。勘定所の者に藩財政や農政についてご下問なされた上、城下や遠方の領地を見て回られることもおありだったとか。もっとも、家木と饗庭様の対立が激しくなった昨今では、御殿に篭もっておられることが多かったそうにございます」
「兄上は、領民に慕われておいでか」
「……は。その……」

 言葉を濁した浜野を見て、久弥は表情を動かさずに言った。

「構わぬ。忌憚無きところを申せ」

 浜野は少し思料してから口を開いた。

「は。そのように推察申し上げまする」

 久弥は浅く頷いた。
 世子となり、やがて十五万石の藩主となるべく育てられたお方なのだ。
 幼少の頃からの聡明さを買われて養子に望まれたと聞く。己のような中途半端な若君ではない。跡目争いなどが生じなければ、立派に世子として責務を果たしていたのではなかろうか。 
 今となっては、死ぬまで桃憩御殿に閉じ込めて、無為に過ごさせる他にない。
 いや、父はあくまでも、宗靖を亡き者にしろと命じるだろうか。
 城に上意討ちの仕手を率いて討ち入った上、凄腕の剣客として敵味方を震え上がらせていた川中輔之丞すけのじょうを斃した久弥の雷名は、既に家中にとどろいていた。重臣や近習小姓衆も、畏怖と恐れに身を強張らせ、目を合わせるのも恐れて遠巻きにするばかりだ。武力で家中を従わせたのだから、無理からぬ話だった。
 彰則を支持していた家臣にしてみれば、久弥の出現は僥倖ぎょうこうではあっても、本来世子として立てたい若君ではない。藩政の実権を力で奪い返した久弥を、敬いはしても諸手を挙げて歓迎はしていないはずだ。
 父と老中の下野守は江戸にあり、後ろ盾のない久弥が家中の心底からの忠誠を得ることは容易ではない。そうとなれば、宗靖を討ち取り、久弥が世子となる他にない状況を作り出すのが一番都合がいい。非情に見えるが、藩政の安定のためにはやむを得ぬ。それが父の思惑なのだろう。
 だが、そんなやり方は受け入れがたいと思う心を、抑えることができなかった。

「……父上に、家中の危機は去ったとお伝え申し上げよ。これ以上の流血は無用と存ずる、と私が申していたと」

 若君、という本間の気遣わしげな声を、久弥は黙って聞いた。

「……承知仕りました」

 ややあってそう答えると、二人は平伏した。
 そのまま退出するかに見えたが、浜野は不意に顔を上げて明るい声を発した。

「ーー畏れながら、若君。一昨日の変装は、愉快でございましたな」

 久弥がきょとんとして瞬きすると、人懐こい笑みが返って来た。

「棒手振りなぞはじめて経験致しましたが、なかなかどうして。それらしく見せるのは難しいものでございました。若君の竿竹売りのご変装ときたら、堂に入ったものでございましたなぁ。船宿に着いた時の皆の顔と言ったら見ものでございました。天城どのと成瀬どのの大工姿も大したものでした。二人ともあの通りの体躯でございますから、大工姿が変装とは思えませなんだ。箒売りの本間どのなど美声でございますから、途中で箒を売り捌いたそうで」

「思わぬ路銀の足しになりました」と本間が低い声で朗らかに笑った。

「北田は、どうして自分は七味唐辛子売りなのだ、刀を隠すためとはいえ、あのようなみっともない張り子を抱えさせられ、泣きたい心地であったと漏らしておりました。今も皆で笑いの種にいたしておりまする」
 
 これはとんだご無礼を、と浜野が頭を下げるのを見て、久弥はつられたように笑みを浮かべた。七味唐辛子売りの張り子ときたら、真っ赤で巨大な唐辛子を模していて、滑稽極まりない上にそれはそれは目立つのだ。あれを抱えて情けない顔で歩く北田を思い浮かべたら、ふつふつと笑いが沸いてきた。
 笑うことなど忘れたかのように強張っていた頬が久しぶりに動くと、冷えきっていた腹の底がわずかに温もるのを感じた。

「……そうだな。あれは面白かった」

 やわらかい声で応じると、浜野がふと両目を潤ませて唇を引き結び、本間と共に深々と頭を下げた。
 二人の背後で、黄鶲きびたきの澄んだ弾むような歌声が、拭ったような青空に響いた。

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