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第二章 王子殿下の悪徳
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残酷な音につい目を瞑ってしまった。銃声が響き渡った室内は一斉に静まり返った。何も聞こえないことが恐ろしくなり、恐る恐る目を開ける。
リストは倒れていなかった。音が鳴った方をじっと凝視していた。視線を追って、見上げる。細い人工の光が銃弾で撃ち抜かれたのだろう。パラパラと破片が上から落ちてきた。撃つ瞬間に軌道がずれて発射されたらしい。
大樹の間からどさりとイルが落ちてくる。手にはリュウを抱えていた。逃げれないように襟を掴んで引きずるとリストの前に持ってくる。
「リスト様、俺って凄く優秀な男ですね? 射撃場所を逆算して、暴発しないように銃身を蹴り上げるなんて芸当なんて常人じゃあまず不可能ですよ」
説明口調のイルは鼻で笑うように転がったリュウを蹴り上げた。
「は、よく言うよ。優秀な人間ならば、まず主人を瀕死にしないでしょ? お前の主人は寝台の上で死にかけてるんだよお?」
「今からお前のご主人様も同じ目にあわせてやってもいいけど。目玉をくり抜いて食べさせてやろうか?」
「イル。今日は俺の部下としてここにいるのだろう。そういった発言は慎め」
イルが、リストの部下?!
ギスランの剣奴であるはずのイルがなぜリストの下についているんだ。
もしかして、イルが言っていたあてというのはリストのことだったのか?
手を貸してもらう代わりにリストの部下になったのか?
リストがイルと協力して私を助けにくる必要はない。イルが巻き込んだというなら、連携しているのは納得だ。
「俺を殺そうとしたのか。サガル」
冷ややかな視線がサガルに注がれる。
私はリュウをじっと見つめてしまう。リストを殺そうとした男の顔が強張った。
「……! イル、リュウの口をこじ開けて。自害用の毒で自殺しようとしてるわ!」
イルがリュウの口に手を突っ込んだ。咬みちぎらんばかりの勢いでリュウは唸り、顎を閉じようとする。
「奥歯に仕込んでいるんだろ。大丈夫、俺は素手で歯を捻り取るのが得意だからね」
「う、うぅう! ううぅう!」
「もう抵抗しなくていい、リュウ。失敗したのだから、仕方がないよ」
サガルの言葉を聞いた途端、だらりと体から力がなくなった。脱力したままリュウは子供のように泣いている。
「国王陛下はお前の蛮行に目を瞑ってこられたが、先日の王妃殺傷事件で我慢ならなくなった。お前を離宮に隔離せよと厳命されている」
「先の一件がなくとも、リストは王都に戻っていただろう。サラザーヌ領から王都までは五日はかかる。どの道、なにかと理由をつけて僕とカルディアを遠ざけるつもりだったんだろう?」
「それを分かっていながらどうして王妃を殺そうとした? あれがなければ、もう一ヶ月はこのままでいられただろうに」
「……あの人は生きていてはいけない人だ」
サガルは私の体を起き上がらせると、捲り上がったワンピースを直してくれた。
優しい指に、鳩尾らへんがぐっと押されたような息苦しさを覚えた。熱い手で私を犯そうとしたのに、今は壊れ物のように扱う。一貫性がないのに憎めない。
「罪人を罰しないのは慈悲ではなく怠慢だ。あの場で殺されるべきだった女が生きながらえた。だから、殺してあげようと思ったんだよ」
「判決は陛下が決められることだ。どれだけ納得がいかずとも、それが公平なる裁きだと信じる他はない」
「愛する女を殺されて、感情的にならなかった。国王陛下は欠陥品だ。心を失ったに違いないよ。だから、愛娘も飢死させることが出来る。自分の妃に娘が殺されても仕方がないと思っている。そればかりか、おぞましい研究に巻き込もうとしている……。陛下に公平さなんてない。あの人はだだをこねる子供のように現実を受け止められないだけだ」
リストの部下達がサガルを囲むように距離を詰めてくる。サガルはじりじりと後退しながら、毅然とした態度を崩さなかった。まぶたの上が、蜂に刺されたように膨らんでいる。ぱんっと大きな音を立てて今にも弾けてしまいそうだ。
それは一瞬の出来事だった。
リストの部下の一人が、サガルと視線を合わせた。ただそれだけだった。男は顔を赤らめて、手に持った短剣で自分の喉を切り裂いた。
斜め切りされた喉から鮮血が散らばる。何が起こったのか始めは理解できなかった。
操られたように自害した。たった、目を合わせただけで。
突然の仲間の死に、部下達の注意が逸れる。サガルはそれを逃さず、素早く私の腕を掴む。
イルの声が響いたが遅かった。あたりには煙が立ち込め、視界の先がほとんど見えない。リュウが術を使ったのだろう。宝石のように、煙の中は洋燈の光であちこち輝いていた。
まるで燃える館のなかにいるようだった。
部下達が声を張り上げ居場所を確認し合う。サガルはもぞもぞと地面に足を擦り付けていた。足元にあるなにかを探すような動作だ。ガコッとなにかを起動させる音がした。
ひゅうっと空気とともに体が引っ張られる。足の下に階段が見えた。階段の下は地下に繋がる通路のようだった。
「サガル、私はここに残るわ!」
「……そんなこと、許すわけない」
男の強引な力で腕を取られて、たたらを踏みながら下へと降りていく。
サガルに力では敵わなかった。
「それはこちらの台詞だ」
階段の上部からリストの影が現れ、サガルの細い体に絡みついた。上から抑えつけられたサガルとともに転倒する。埃が口の中に入ってむせた。まったく使われていない通路らしい。
掴まれていた腕が離れる。
「俺をまけるとでも? 愉快な誤解だ。レゾルールの隠し通路の場所ぐらい暗記している。逃げられるものか」
サガルはじたばたともがかなかった。ただ、白く濁った美しい瞳で私を凝視している。
ここは、レゾルールなのか。それもそうかと今更納得する。貴族階級の奴らはサガルが開催する催しものによく通っているようだった。わざわざ学園を出る手間もなく、効率的だ。
「眼差し一つで人を殺せるとはよく言ったものだな。俺の部下が一人殺されるとは」
地面に視線で縫い付けられているように足が動かなかった。
サガルの瞳が私に訴える。これでいいのか、と。
「カルディア。上でイルが待っている。早くギスラン・ロイスターのもとに行ってやれ。さもないと二度と生きているあいつの顔は見れなくなるぞ」
「……! そ、そうね」
腰を浮かせて、立ち上がる。膝が笑ってうまく歩けない。情けなかった。
階段の上には、イルが待ち構えていた。獰猛な動物を思わせる厳しい目つきで私を見つめている。やはり、眼鏡がないイルは陰険だった。
視線に気がついたのか、視線を逸らされる。
「ギスラン様からいただいた眼鏡、壊したんですよ。……やっぱり宝箱のなかにいれて、大切に保存すればよかった。俺はそうしたいって言ったのに、あの方が笑って、目つきが悪すぎるからずっとかけていろと言ったんですよ」
何を早口で言い訳をしているんだと言おうとして息をのむ。イルの顔は情けないほど泣きそうだった。
壊れたものは元には戻らない。ずっとかけていろと言ったものを壊したと謝ることも出来ない。勝手にリストの下についたのだって、許されたいに決まっている。
――ギスランはまだ眠ったまま、動かないのか。
「……行きましょう」
サガルを振り返ろうとして、やめる。振り返れば戻れなくなる。リストに襲いかかって、そのまま二人で逃げ出してしまうかもしれない。理性とはまったく別のもので動くことが怖かった。
階段の下から呪詛のような声がする。それは優しくて、一見そうは聞こえないのに、よくよく聞くと泥の川のようにどろどろとした感情が込められている。
「ギスラン・ロイスターは必ず死ぬ。カルディア、お前もそれを知っているだろう? 外に出れば、お前を守ってやれなくなる。僕のもとに帰っておいで。僕と一緒に逃げ出そう。僕にはお前しかいない。お前もそうだろう?」
イルに腰を掴まれ、抱えられる。
人工的な草花が生い茂るサガルの楽園は、軍人達の手によってぐちゃぐちゃにされている。滴った血の臭い。それに硝煙のつんとした臭いがまじっている。
リュウの怒号のような叫び声。かちゃかちゃと擦れる剣の音。双頭の男を思い出す。彼らはここで死んだ。私はここで、サガルと死んであげられない。
――大丈夫だ、兄弟。俺が側にいる。二人でならどんなことだって乗り越えられるさ。俺達は生まれた時からずっと一緒だ。死ぬまで一緒さ。
どんな気持ちで男は死んだのだろう。混乱の中死んだのか。それとも、幸福の中、死ねたのか。
その答えは誰も知らない。知ることはできない。
振り返って、サガルを見ることはやはり出来なかった。
レゾルールの古城はどっぷりと夜に侵されていた。月も出ない本当の暗闇のなか、馬車がかける。
王都のギスランの屋敷についた時、急に頬が濡れた。
尾を引くような長雨が、雨音を立てずしとしとと降り注ぐ。
「姫様っ!」
「姫様、姫様がお着きになったぞ!」
主人の帰りを待ちわびていたように、使用人達に出迎えられた。濡れた服のまま、ギスランの寝台に向かう。
ギスランは首に包帯を巻いた姿で、人形のように横たわっていた。生気のない頬は陶器のように白い。
寝台の近くに座る椅子はなかった。そもそも部屋は空っぽだ。家具もほとんどない。いつ死んでも、綺麗に片づけられるように。
紅い絨毯の上に膝をつく。濡れた髪からぽたぽたと雫が零れた。
「馬鹿ギスラン。お前が死んでしまったら、私は誰と結婚するのよ」
目にかかる前髪を払いのけて、唇に口付ける。
唇はささくれだった木のようにかさかさと乾いていた。冷たくて、よくできた人形と口を合わせているような気になった。
このまま、この男が死ぬ。照れたような笑顔も、怒った顔も、泣き出しそうなほど苦しそうな顔も、苦しげな顔も、もう見れない。
「……あぁ」
この男と今すぐ挙式をあげてしまいたい。死に支配されそうになっている男を、私で上書きしたかった。死に対抗したいのかもしれない。ギスランは私のものだ。取らないでくれ。
この男は私だけのものだ。そう主張したい。
天国も地獄も存在しない。ここで死ねばもう一生ギスランに会えない。それなのに私はこの男の婚約者でしかない。
この男の家族でも、恋人でもない。妻でもない。
何度も口を合わせる。何度も、何度も。
けれど、この口づけではなにも変わらない。
ギスランは起き上がらない。私はこいつの妻にはならない。頭がおかしくなりそうだった。
リストは倒れていなかった。音が鳴った方をじっと凝視していた。視線を追って、見上げる。細い人工の光が銃弾で撃ち抜かれたのだろう。パラパラと破片が上から落ちてきた。撃つ瞬間に軌道がずれて発射されたらしい。
大樹の間からどさりとイルが落ちてくる。手にはリュウを抱えていた。逃げれないように襟を掴んで引きずるとリストの前に持ってくる。
「リスト様、俺って凄く優秀な男ですね? 射撃場所を逆算して、暴発しないように銃身を蹴り上げるなんて芸当なんて常人じゃあまず不可能ですよ」
説明口調のイルは鼻で笑うように転がったリュウを蹴り上げた。
「は、よく言うよ。優秀な人間ならば、まず主人を瀕死にしないでしょ? お前の主人は寝台の上で死にかけてるんだよお?」
「今からお前のご主人様も同じ目にあわせてやってもいいけど。目玉をくり抜いて食べさせてやろうか?」
「イル。今日は俺の部下としてここにいるのだろう。そういった発言は慎め」
イルが、リストの部下?!
ギスランの剣奴であるはずのイルがなぜリストの下についているんだ。
もしかして、イルが言っていたあてというのはリストのことだったのか?
手を貸してもらう代わりにリストの部下になったのか?
リストがイルと協力して私を助けにくる必要はない。イルが巻き込んだというなら、連携しているのは納得だ。
「俺を殺そうとしたのか。サガル」
冷ややかな視線がサガルに注がれる。
私はリュウをじっと見つめてしまう。リストを殺そうとした男の顔が強張った。
「……! イル、リュウの口をこじ開けて。自害用の毒で自殺しようとしてるわ!」
イルがリュウの口に手を突っ込んだ。咬みちぎらんばかりの勢いでリュウは唸り、顎を閉じようとする。
「奥歯に仕込んでいるんだろ。大丈夫、俺は素手で歯を捻り取るのが得意だからね」
「う、うぅう! ううぅう!」
「もう抵抗しなくていい、リュウ。失敗したのだから、仕方がないよ」
サガルの言葉を聞いた途端、だらりと体から力がなくなった。脱力したままリュウは子供のように泣いている。
「国王陛下はお前の蛮行に目を瞑ってこられたが、先日の王妃殺傷事件で我慢ならなくなった。お前を離宮に隔離せよと厳命されている」
「先の一件がなくとも、リストは王都に戻っていただろう。サラザーヌ領から王都までは五日はかかる。どの道、なにかと理由をつけて僕とカルディアを遠ざけるつもりだったんだろう?」
「それを分かっていながらどうして王妃を殺そうとした? あれがなければ、もう一ヶ月はこのままでいられただろうに」
「……あの人は生きていてはいけない人だ」
サガルは私の体を起き上がらせると、捲り上がったワンピースを直してくれた。
優しい指に、鳩尾らへんがぐっと押されたような息苦しさを覚えた。熱い手で私を犯そうとしたのに、今は壊れ物のように扱う。一貫性がないのに憎めない。
「罪人を罰しないのは慈悲ではなく怠慢だ。あの場で殺されるべきだった女が生きながらえた。だから、殺してあげようと思ったんだよ」
「判決は陛下が決められることだ。どれだけ納得がいかずとも、それが公平なる裁きだと信じる他はない」
「愛する女を殺されて、感情的にならなかった。国王陛下は欠陥品だ。心を失ったに違いないよ。だから、愛娘も飢死させることが出来る。自分の妃に娘が殺されても仕方がないと思っている。そればかりか、おぞましい研究に巻き込もうとしている……。陛下に公平さなんてない。あの人はだだをこねる子供のように現実を受け止められないだけだ」
リストの部下達がサガルを囲むように距離を詰めてくる。サガルはじりじりと後退しながら、毅然とした態度を崩さなかった。まぶたの上が、蜂に刺されたように膨らんでいる。ぱんっと大きな音を立てて今にも弾けてしまいそうだ。
それは一瞬の出来事だった。
リストの部下の一人が、サガルと視線を合わせた。ただそれだけだった。男は顔を赤らめて、手に持った短剣で自分の喉を切り裂いた。
斜め切りされた喉から鮮血が散らばる。何が起こったのか始めは理解できなかった。
操られたように自害した。たった、目を合わせただけで。
突然の仲間の死に、部下達の注意が逸れる。サガルはそれを逃さず、素早く私の腕を掴む。
イルの声が響いたが遅かった。あたりには煙が立ち込め、視界の先がほとんど見えない。リュウが術を使ったのだろう。宝石のように、煙の中は洋燈の光であちこち輝いていた。
まるで燃える館のなかにいるようだった。
部下達が声を張り上げ居場所を確認し合う。サガルはもぞもぞと地面に足を擦り付けていた。足元にあるなにかを探すような動作だ。ガコッとなにかを起動させる音がした。
ひゅうっと空気とともに体が引っ張られる。足の下に階段が見えた。階段の下は地下に繋がる通路のようだった。
「サガル、私はここに残るわ!」
「……そんなこと、許すわけない」
男の強引な力で腕を取られて、たたらを踏みながら下へと降りていく。
サガルに力では敵わなかった。
「それはこちらの台詞だ」
階段の上部からリストの影が現れ、サガルの細い体に絡みついた。上から抑えつけられたサガルとともに転倒する。埃が口の中に入ってむせた。まったく使われていない通路らしい。
掴まれていた腕が離れる。
「俺をまけるとでも? 愉快な誤解だ。レゾルールの隠し通路の場所ぐらい暗記している。逃げられるものか」
サガルはじたばたともがかなかった。ただ、白く濁った美しい瞳で私を凝視している。
ここは、レゾルールなのか。それもそうかと今更納得する。貴族階級の奴らはサガルが開催する催しものによく通っているようだった。わざわざ学園を出る手間もなく、効率的だ。
「眼差し一つで人を殺せるとはよく言ったものだな。俺の部下が一人殺されるとは」
地面に視線で縫い付けられているように足が動かなかった。
サガルの瞳が私に訴える。これでいいのか、と。
「カルディア。上でイルが待っている。早くギスラン・ロイスターのもとに行ってやれ。さもないと二度と生きているあいつの顔は見れなくなるぞ」
「……! そ、そうね」
腰を浮かせて、立ち上がる。膝が笑ってうまく歩けない。情けなかった。
階段の上には、イルが待ち構えていた。獰猛な動物を思わせる厳しい目つきで私を見つめている。やはり、眼鏡がないイルは陰険だった。
視線に気がついたのか、視線を逸らされる。
「ギスラン様からいただいた眼鏡、壊したんですよ。……やっぱり宝箱のなかにいれて、大切に保存すればよかった。俺はそうしたいって言ったのに、あの方が笑って、目つきが悪すぎるからずっとかけていろと言ったんですよ」
何を早口で言い訳をしているんだと言おうとして息をのむ。イルの顔は情けないほど泣きそうだった。
壊れたものは元には戻らない。ずっとかけていろと言ったものを壊したと謝ることも出来ない。勝手にリストの下についたのだって、許されたいに決まっている。
――ギスランはまだ眠ったまま、動かないのか。
「……行きましょう」
サガルを振り返ろうとして、やめる。振り返れば戻れなくなる。リストに襲いかかって、そのまま二人で逃げ出してしまうかもしれない。理性とはまったく別のもので動くことが怖かった。
階段の下から呪詛のような声がする。それは優しくて、一見そうは聞こえないのに、よくよく聞くと泥の川のようにどろどろとした感情が込められている。
「ギスラン・ロイスターは必ず死ぬ。カルディア、お前もそれを知っているだろう? 外に出れば、お前を守ってやれなくなる。僕のもとに帰っておいで。僕と一緒に逃げ出そう。僕にはお前しかいない。お前もそうだろう?」
イルに腰を掴まれ、抱えられる。
人工的な草花が生い茂るサガルの楽園は、軍人達の手によってぐちゃぐちゃにされている。滴った血の臭い。それに硝煙のつんとした臭いがまじっている。
リュウの怒号のような叫び声。かちゃかちゃと擦れる剣の音。双頭の男を思い出す。彼らはここで死んだ。私はここで、サガルと死んであげられない。
――大丈夫だ、兄弟。俺が側にいる。二人でならどんなことだって乗り越えられるさ。俺達は生まれた時からずっと一緒だ。死ぬまで一緒さ。
どんな気持ちで男は死んだのだろう。混乱の中死んだのか。それとも、幸福の中、死ねたのか。
その答えは誰も知らない。知ることはできない。
振り返って、サガルを見ることはやはり出来なかった。
レゾルールの古城はどっぷりと夜に侵されていた。月も出ない本当の暗闇のなか、馬車がかける。
王都のギスランの屋敷についた時、急に頬が濡れた。
尾を引くような長雨が、雨音を立てずしとしとと降り注ぐ。
「姫様っ!」
「姫様、姫様がお着きになったぞ!」
主人の帰りを待ちわびていたように、使用人達に出迎えられた。濡れた服のまま、ギスランの寝台に向かう。
ギスランは首に包帯を巻いた姿で、人形のように横たわっていた。生気のない頬は陶器のように白い。
寝台の近くに座る椅子はなかった。そもそも部屋は空っぽだ。家具もほとんどない。いつ死んでも、綺麗に片づけられるように。
紅い絨毯の上に膝をつく。濡れた髪からぽたぽたと雫が零れた。
「馬鹿ギスラン。お前が死んでしまったら、私は誰と結婚するのよ」
目にかかる前髪を払いのけて、唇に口付ける。
唇はささくれだった木のようにかさかさと乾いていた。冷たくて、よくできた人形と口を合わせているような気になった。
このまま、この男が死ぬ。照れたような笑顔も、怒った顔も、泣き出しそうなほど苦しそうな顔も、苦しげな顔も、もう見れない。
「……あぁ」
この男と今すぐ挙式をあげてしまいたい。死に支配されそうになっている男を、私で上書きしたかった。死に対抗したいのかもしれない。ギスランは私のものだ。取らないでくれ。
この男は私だけのものだ。そう主張したい。
天国も地獄も存在しない。ここで死ねばもう一生ギスランに会えない。それなのに私はこの男の婚約者でしかない。
この男の家族でも、恋人でもない。妻でもない。
何度も口を合わせる。何度も、何度も。
けれど、この口づけではなにも変わらない。
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