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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟む気分が悪くなったと言って退出したフィリップ兄様を尻目に、マイク兄様は相変わらず爆笑していた。息も絶え絶えと言った感じだ。
なにがそんなにおかしかったのだろう。フィリップ兄様のように怒るのならばまだ分かる。さっきのタイミングで打ち明けるのはずるい手法だった。きちんと筋を通せと怒られても文句は言えないものだ。
ひとしきり笑ったのち、笑い声が途切れた。
真顔を取り戻したマイク兄様が軽い調子で謝ってくる。
「すまなかった。あんなにどんよりした雰囲気で言うものだから、少し面食らった」
「いきなり申し訳ありません。ああいうときに言い出すものではありませんでしたね」
「いや、いい。どうせフィリップはどの場面で打ち明けても、ああやっておかんむりになっただろうから。むしろ、俺がいたときに言ってくれて助かった」
……? それは、窘められるからと言う意味だろうか。
「フィリップはレオン兄様が結婚するのも嫌がったほどだ。初夜の晩、あいつが兄様を襲ったのは知っているか?」
「噂程度は……尾ひれはついたものだとばかり。本当なのですか?」
「本当だ。レオン兄様はあわやと言ったところだったらしい。カルディアが結婚するとなれば、既成事実を作ってぶち壊そうとしていただろうな」
「私をですか? フィリップ兄様がそのようなことをなさるとはとても思えませんが……」
私はフィリップ兄様が嫌う愛人の子供だ。マイク兄様は好意的に言ってくれるけれど、好かれているとは思えない。
多分何か理由があるはずだ。王族の血を他の血と混ぜたくないといった保守的な理由があるのでは。
「真相は初夜の日に分かる。まあ、ギスランと協議してきちんと対策しておけ。あと、ちゃんとレオン兄様に相談しておけよ。フィリップ対策にかけては一家言ある方だから」
「……マイク兄様はお聞きにならないんですか?」
「何をきいて欲しい?」
疑問には思わなかったのだろうか。今年中という制限もそうだし、卒業を待たず、突然結婚式をやると言うのだって変だと思うはずなのに。
「今年中に結婚式を挙げるのは不可能だとか、そもそも結婚はまだ早すぎるとか、まず誰かに話したのかとか」
「カルディアはそうしたいのだろう?」
「そうですが……。でも、自分でも無茶苦茶なことだと分かっています。ギスランにも、あまりに無謀だと諌められました」
「それでもやりたいのだろう。ならば、叶えなくては。でもやだっては必要ない。俺達は王族なんだぞ。無理を通してなにが悪い?」
マイク兄様は腕を組んで、好奇心に満ちた瞳で私を映した。
「お前の上の姉達は、政略結婚で嫁いでいった。彼女達なりに自分で決めて、選択した。その決断を俺は誇りに思っている。カルディア、お前もそうなのだろう。価値ある決断をした。俺は応援するよ。ただ、これだけは教えて欲しいんだが、恋愛結婚なのか? それとも、ただ義務的なもの?」
「れ、恋愛結婚です……」
「そうか! ……そうか。なら良かった。本当に、良かった。ギスランに乞われたからではなく、お前が求めて掴み取ったのだな。好きになりたいではなく、好きなのか」
「はい。ギスランのことが好きです。……あはは。口にすると気恥ずかしいものですね……」
「嬉しいよ。ああ、本当に。可愛い俺の妹が幸せで」
マイク兄様は涙ぐんでいた。声も掠れている。ギスランの容態を伝えるのは躊躇われた。こんなに祝ってくれる人を気落ちさせたくない。
「俺はお前とサガルことを傍観していた。母上のことも、手を打たなかった。そんな男が、何を今更とお前は思うかもしれないが」
「そ、そんなーー」
マイク兄様はサガルの一件を知っていたのか。あの女のことも。文句を言いたいわけではなかった。けれど、悲しかった。サガルのことは助けて欲しかった。サガルはずっと誰かに救われたいと思っていただろうから。
「いいや、詰ったほうがいい。俺は最低な人間だ。サガルのことも、お前のことも助けなかった。……それでも、言わせて欲しい。最悪な騎士から、心優しい姫へ。お前が幸せになってくれて嬉しいよ。お前がどうか、ずっと幸せでいてくれますように」
ぎゅっとたまらず服の裾を掴む。
皺の寄った服が、私の顔のように醜く寄れた。
「ならば、サガル兄様をーーサガルを助けて下さい。私は地獄のなかに彼を置いてきてしまった。置き去りにしたまま幸せにはなりたくない」
ぎちっと歯軋りの音がした。驚いて、音の方を見る。
マイク兄様は目を深く閉じて、悔恨するような表情を浮かべた。心が軋むような音がする。押さえ込むような、長い沈黙が走る。
再び目を開いたマイク兄様は、覚悟の決まった澄んだ顔をしていた。主柱を建てて崩れない建物を建築したような、完璧な王子の顔をしていた。
「お前は幸せになりなさい。他のことは気にとられてはいけない」
「それはどういう意味ですか」
「サガルもお前が幸せになることを望んでいるということだ」
そのあと、マイク兄様は巧妙にサガルの話題を避けた。
帰っていく背中を見送りながら、マイク兄様が何を言いたかったのかを考える。
マイク兄様はどうしてサガルを助けると確約してくれなかったのか。サガルの幸せと私の幸せが両立しないから?
マイク兄様はサガルの現状が酷いものだと知っていて、私に気にするなと言っている?
思考がかき乱され、気持ちばかりが塞いでいく。
がちゃりと扉が開いた。マイク兄様が忘れ物を取りに来たのかと思い顔を上げる。
フィリップ兄様がいた。酷薄な瞳がゆっくりと細まる。
「忘れ物をした」
「何をお忘れになったのですか?」
「おまえ」
ひょいっと寝台から降ろされ、抱えられる。力持ちだなあと感嘆しそうになって、やっと正常な反応を思い出す。
「な、何をされるんですか!?」
「軽いね。痩せこけた犬より軽いんじゃない? それはそうといい天気だ。雨が降っていればよかったのに」
「は、はい?」
「雨音で叫び声をかき消せる。ところで、ぼくが送った家具は見た? 趣味の悪い家具が多かったから変えてやったんだよ。嬉しいでしょう?」
「初耳です!」
「そう。あと使用人も何人か変えておいた。油断しちゃ駄目だよ。人は金じゃなくても裏切る。特に今まで石ころのような扱いを受けていた者に優しくしたら、きちんと死ぬまで世話をしないと。何人かがおまえが家に帰ってこないからとぼくの買収に乗った」
私を抱えたまま部屋を出て、廊下を歩いていく。
使用人達の姿がなかった。影さえない。どこにもいない。
「一銭もいらない。情を示しておきながら、放置した。軽んじた。私もあの方を軽んじていいはずだ。心配するのに疲れた。待つのが辛かった。お食事を食べて下さるとそう言っていたのに! どいつもこいつも偉そうにそう言っていたそうだ。馬鹿だね、おまえ。王族の癖に、易々と慈悲を与えたんだろう? 手に届くような存在だと誤解させて、誑かした」
「誑かしては……!」
「誑かしているだろう。おまえには味方がいないものね。誰かに優しくして、優しくされたいんだ。優しくされた方はたまったものではないよ。希望は中途半端に与えるものじゃない。全て与えるか、最初から与えないかの二択だよ」
屋敷全体が静まり返っていた。
マイク兄様はもう帰ってしまったのだろうか。
フィリップ兄様は何を考えている?
「王都に来た目的だけど、サガルに呼ばれたんだ。リストの馬鹿がサガルのお気に入りの場所が攻め込んだよね。あの日、ぼくは学校の隠し通路の出口で待っていた。要請されたんだ、おまえと自分をどこかに隠してくれって」
サガルはリストが来ると予期していたのか!
自分の知らないところで情報戦が繰り広げられていた?
「勿論、それはもしもの時の備えだよ。サガルの手駒はなかなかいい。レオン兄上のものより、優秀な人材が何人もいる。ただ、相手がリストとあの貧民だからね。知っている? あのイルとか言う男、サガルの部下三十人を一人で殺戮したんだ。それで男一人を連れて逃げ切った。化け物?」
イル……!
改めて聞くと凄まじいな。蘭王に少しだけ見せて貰ったが、そんなことをして、逃げ延びたのか。
「あいつのおかげでサガルの計画は狂いまくりだ。ギスランには、あれと同等の奴らがごろごろいるらしいけどなんなの? 強い奴は一度ギスランと面会する決まりでもあるの?」
イル以外の部下とあまり会ったことがないから何とも言えないが、たしかに手駒は多いらしい。
「話を元に戻すとして。おまえ来なかったじゃないか。ぼく、待っていたのに。どうしてサガルと一緒に逃げなかった?」
純粋な視線に混じる黒いものに肩が揺れる。フィリップ兄様は何かを私の答えの中から探している。時間を稼ぐために、質問をして解答を塞ぐ。
「どうしてサガルはフィリップ兄様を頼ったのですか?」
「兄上はレオン兄上の味方だ。兄弟同士で殺しあわないために騎士になったのだから、サガルを助けて均衡を崩すわけにはいかない。サガルもそれは承知だ。だからぼくに声をかけた」
「では、マイク兄様がサガルのことを気にするなと言われたのは……」
「マイク兄上が関与できないことだからだろう。兄上はああ見えて少し小心者であらせられるから、ディアに失望されるのが怖かったのもあるだろうけど」
時間を稼ぐために聞いたことだったが、納得がいった。サガルの話題に関して、神妙な顔をしていたのはそのせいか。
フィリップ兄様は廊下の窓から無理矢理庭に出てた。夏の熱波が肌にかかる。蒸すような暑さだ。鳥達も太陽から逃れるように、低く飛んでいる。
気がつけば、初夏を迎えていた。この間まで春真っ盛りだったのに。
「話をずらされた。――あれ、鳥が」
「わ、わわわっ」
低空していた鳥達が旋回して、私の肩へと降りてくる。
外に出た途端、鳥に囲まれた。
な、なんだ!?
羽に囲まれ、窒息しそうになった。フィリップ兄様が片手で器用に退けてくれたからなんとかなったものの、そうでなければ、羽が口の中に入っていた。
「鳥ごときが何の用だろう。邪魔だよ、風切羽を折って飛べなくしてやろうか」
飛び退いた鳥達の動きはこちらの言葉が通じているように不思議なものだった。ぐるぐると頭上を回ると、これだけ時間を置けば大丈夫だよね? と言わんばかりに再び私の腕に飛び乗って来る。
「なんなの……。お前達、もしかしてミミズクの同類?」
肯定するように髪や頬を嘴でつついてくる。
こいつら、人に慣れ過ぎだ! この世の鳥はこんな風に人に懐きやすいのか?
「うざったいなあ。全部、枕の材料にしてあげる」
苛立ったフィリップ兄様が一羽手掴みにする。じたばたともがいても、力尽くで毛を何本かむしった。
「やめておけ。頭上の鳥達がお前を狙っているぞ、フィリップ」
「……あれ。ぼく、耳が悪くなったのかな。聞きたくない男の声が聞こえる」
「残念だが、現実だ。マイクが戸惑っていたぞ。お前が消えたと。面倒を起こすなよ」
木に寄り掛かっていた影がふらりと立った。真っ赤な髪がだるさを含んだ風に揺らされる。
綺麗な顔の刺青が髪の隙間から見えて、どきりと心臓が跳ねた。
「勝手に領地から脱走したリストじゃないか。国王に尻尾ふる仕事は終わったの?」
「きちんとお前の法律家連中には訳を話したはずだが。……お前の嫌みは好かない。カルディアをどこに連れていくつもりだ?」
「話す必要があるの? というか、関係ない。家族のことだからおまえは入ってくるなよ」
「裏の馬車なら表にまわらせた。お前には前科があるからな。今頃、マイクが目を丸くしているんじゃないか。お前とマイクは一緒の馬車に乗ってきたのに、どうしてもう一つ馬車があるのかと」
舌打ちが響く。フィリップ兄様は私をどこかに連れて行こうとしていたのか?
もしかして、サガルのところに? さっきの話を聞く限り、フィリップ兄様はサガルの味方のようだ。いや、味方だ、敵だと決めてしまうのは正しくないか。フィリップ兄様はマイク兄様のように傍観を決める必要のない位置にいた。サガルから、取引を持ち掛けられ、利害関係で繋がっているはずだ。
ゆっくりと体を降ろされる。だが、フィリップ兄様の瞳が私をその場に縫い付ける。足を竦ませる。
「隣の男は誰? なんだか、見覚えがある顔だけど」
「お前には関係のない奴だ。こいつはカルディアに用があるからな」
リストの影に潜んでいた人間が、ゆっくりと頭を下げる。顔を上げたとき、その体の長さに驚く。リストより頭一個分ほど顔の位置が高い。
後ろに撫でつけられた髪は黒くてふわふわとしていた。
あれと汗が体を流れる。目尻はきつく、瞳の下には縁取りのように隈があった。
――ハル?!
「ふーん。まあ、今日のところはいいや。マイク兄上をお待たせるのも可哀そうだし。じゃあ、また会おうか、リスト。ぼくは国王陛下にご挨拶したあと、領地に戻るよ」
「言葉通りにしてくれるとこちらは助かるのだがな」
「いつも悪だくみしているわけじゃないんだ、大丈夫だよ」
リストに愛想笑いを残して、フィリップ兄様は玄関口の方に戻っていった。
「……あいつはフィリップ。忌々しいが第三王子で、お前もいろいろと嫌がらせされるだろうから気をつけろ。人の話は聞いているようでまったく聞いていない男だから、声かけられても返事するな。逃げろ。情に訴えかけてもまず勝ち目はない。体に血が通っていないからな」
「はい。……凄く綺麗な人でしたけど」
「顔だけだ。心は獣か沼だ。沼に棲む獣だと思っておけ」
「……えっと。私はお前達の話に参加してもいいの?」
声を聞いて確信した。リストの後ろにいるのはハルだ。
髪型がいつもと違うから少し戸惑った。だが、顔には青くなった痣。暴行のあとが鮮烈に残っている。
「ああ、すまない。……顔色は悪そうだな。まだ病み上がりだったか。フィリップめ、病人を連れ出そうとするか?」
「兄様はサガルのところに連れていくつもりだったのだと思うわ」
「……それは不可能だ」
ハルと目が合った。火花が散るような衝撃が走る。リストの視線も背後のハルへと移った。リストの唇が苦笑いに変わる。
「まるで俺がいなければよかったと言いたげだな」
「ち、違うわよ。ただ、お前がハルを連れているのが奇妙だったから」
「事情がある。……丁度いいか。俺はイルに用がある。あの男、軍に入ると言って俺の傘下に入った癖に何も連絡してこないからな。どうせお前に引っ付いているんだろう?」
イル、なんとなく想像していたが、やはり、自分の体を担保にリストに協力してもらっていたのか。そっと視線を巡らせ、イルの気配を探る。ギスランを理由にして逃げ回っている姿が容易に想像できた。
「イルを捕まえる間、ハルは置いていく。きちんと話してみるといい。今後のためにもな」
リストの袖と私のドレスの袖が触れ合う。蜜のように甘い声が耳朶を擽った。
「俺の相手もしろよ? ギスランのことも知りたい。お前が結婚相手に選んだ男だ、さぞいい男なのだろうな?」
ちりちりと肌を刺すような嫉妬の声だった。
こいつは私のことが好きで……。
考えると頭が沸騰しそうなほど恥ずかしい。リストにギスランとのことを説明するのか。今から、気分が重い。リストからの告白を私は完全に持て余してしまっているからだ。
残されたのは、私と変な髪形をしたハルだ。いつもぐちゃぐちゃな巣のような頭だから、調子が狂う。
ハルは私をじっと見つめていた。緊張しながら、ハルの顔を見る。
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