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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
それは決して人間ではなく
しおりを挟むどうやら、自分はここまでのようだ。
自嘲しながら、体を引きずる。
敵対した清族は何を思ったのか、命を奪うことはなかった。憐んだのか、さっさとカルディアを追いたかったのか。
性根が真面目そうな男だったから、憐んだのかもしれない。あるいは甘さのようなものがあったのか。
何にせよ、ここまでだ。命を奪わなかったといっても、足を潰された。二度と歩けないかもしれない。
義足をつけるぐらいならば、死んだ方がましだった。義理の父が戦争で負傷して、足を斬って義足を嵌めていた。彼は見えないはずの足が痛みに疼くと言ってロディアを嬲った。
あの男のような醜悪さを取得するなど真っ平御免だ。
生き恥を晒すぐらいならば死んだ方がましだ。
――いや、もう生き恥を晒しているか。
ギスランから見捨てられた時、潔く死んでいれば良かったのだ。そうすれば、忌々しい姫を助けずに済んだ。
そんなのは分かっている。
けれど、助けてしまった。そしてその結果、惨めに芋虫のように這いつくばって苦汁を舐めている。
この苦さが、自分の人生だった。どんなに幸福になっても、いつかどん底に突き落とされる。いつもそんな懸念があった。だから、ここに今いることは不思議ではないのだ。
――上等な服を着て、身に余る宝石をいただいた。信を預けて下さった。薄汚いこの身に合わぬほどの美しいものを下さった。
耳があったはずの場所に触れる。痛みや疼きはない。イルは本当に綺麗に切り落とした。ロディアにとって、それは救いだった。疼く痛みさえ、あまりない。
――そのはずだった。
「女の子が裸だ。いけないね。体を冷やしては」
蠢く虫のような塊が近付いてきた。よくよく見るとそれは青や赤の生々しい線が走った臓器だった。
だが、確かにロディアはこの臓器から声がしたのを聞いた。
じいっと観察する。そもそも、どうしてこんなところに臓物があるのだろうか。
「寒くはないかい。ああ、衣服があったらな。君にかけてあげられるのに」
優しい言葉に動揺する。どうして、どろりとした血を滴らせる臓器に心配をされているのだろう。
「御仏の大慈悲は遍くものに授けられるもの。弥勒の本願には、老小善悪を問わずというもの。つまり、誰にも分け隔てなくということ。それが徳を積むということなんだ」
「――とっても難しいことを言う」
「そうだよ。それらしいでしょう」
聖職者なのだろうか。
貧民街にも、信心深い奴がいる。そう言う奴は死ぬ間際、布施を払って清族か聖職者に弔って欲しいと願う。強欲な奴が多いので、きちんと弔ってくれるものは稀だが、良心が残っている心優しい聖職者は、聖句を読み上げに来る。
ロディアも一度だけ見たことがあった。
何を言っているのか見当もつかなかったが、とても静謐だった。
その静謐さと同じものを言葉から感じた。おかしなことだ。
だって、見た目は汚らしい臓器なのだから!
「でも、この言葉で俺は皆を救って来た。そして君も救うよ」
びちんびちんと臓器がーー腎臓らしきものが跳ねる。ロディアは口の端に笑みを浮かべた。馬鹿馬鹿しすぎて。
死ぬ時、人は自分に都合のいい幻覚を見るのかもしれない。
――せめてギスラン様が出てきてくれればなあ。
そうであったら、少しは救いがあったのに。
「そうか、救いが欲しいんだね」
笑うような男の声。意識が閉じていく。もう、終わりが近いのだろう。
「デビュタントで誰と踊るか?」
「ええ、もうお決まりですか?」
滴るような花園で、カルディアとギスランが体を寄せ合わせて見つめ合っていた。
ロディアはそれを見守る事しかできなかった。
春のことだった。社交シーズンをまもなくというとき。フォード学校に入学したてだった。
「――決めていないけれど、レオン兄様はトヴァイスが良いだろうと。イーストン家と結婚させたいみたい。どうしてなのかしら」
デビュタントとは初めて社交界に出る女性のことを指す。
あるいはその女性のお披露目会を。
いくら嫌われているといってもカルディアは王女の一人。お披露目は国王主催のパーティーと決まっていた。そんなパーティーでエスコートする人間。そして踊れる人間は限られている。未来の夫の候補という意味だからだ。
「…………っ」
ギスランの顔が激しく歪む。それに気付かず、カルディアは続けた。
「トヴァイスは王子様みたい。それにとっても頭がいいんだって。ロバーツ卿が褒めていたの」
「ロバーツ卿……カルディア姫のご親戚でしたね」
「そうみたい。隻眼のとっても親切な方なの。母様のことを沢山教えて下さるの」
「そう、ですか」
ころころと笑うカルディア。
少し前まで人に会ったら吐いていたとは思えない。もしかして、ガセの情報だったのではないかと思うほど顔色がよかった。
「ノアは踊りたいと言ってくれたの。ノアはほとんどの家の令嬢と踊ってしまったんですって。とっても上手らしいわ」
「ゾイディック令息はお上手だと私もお伺いしたことがあります」
「……そう。本当はね、どちらでいいの。きっとどちらだって一緒なのよ」
どちらだって?
何故そのなかにギスランは入っていないのだろう。
ギスランだって、婚約者の一人だ。確かに、カルディアより背は小さいかもしれない。だが、今だけだ。やがて、すらりとした美丈夫になる。
もうすぐ成人を迎える令息達に劣らないのに。どうして除外するのか。
「……一緒ではありませんよ」
「お前は、サラザーヌ公爵令嬢と踊るのでしょう?」
「どうしてそう思われるの」
「あいつが……。――お前だって、私の側にいたくはないでしょう」
「そんなことはありません」
必死に言い募ろうとするギスランを首を振って止める、カルディアの首をへし折ってやりたいとロディアは思った。
どうしてギスランの想いに気がついてあげられないのか。嫌味だと思っているのだろうか。
毎夜、眠りもせずに社交に明け暮れ、カルディア暗殺の噂を耳にすれば確証を得るために密偵を向かわせているのに。
何も知らないという罪を、どうして知らないのか。
「……私は、カルディア姫と一緒にいたいです」
「今、いるじゃない。それでは足りない?」
ギスランは押し黙ってしまう。けれど、勇気を振り絞るように口を開いた。
「傲慢なことなのでしょうか。もっとと欲張るのは」
「傲慢……。そうなのかもしれないわね。だって人の人生をお金では買えないでしょう?」
どれほど、無垢なのだろう。人生は金で買える。物だって金で買えるのだ。人も同じく買えない通りがあるものか。
生きている世界が違うのだと実感する。同じうつつ世のことなのか。どうしてここまで違うのか。ここまで違うから、ギスランの想いを軽く扱えてしまうのか。
「カルディア姫がお金で買えたら。そうしたら、思う存分愛でられますのに」
カルディアはそれきり黙り込んでしまった。
きっと何かが琴線に触れたのだろう。
ギスランはもどかしそうに見つめている。
何も知らずに守られてばかりなのに、綺麗事ばかりで吐き気がする。
自分がこの世界で一番可哀想な目にあっている、そんな嘆きばかり。何がいいのかさっぱりだ。顔もよくなければ、性格も難がある。
それに、ギスランのことを全く大切にしない。
――わたしが、女だったら。
ギスランと肩を並べるぐらいの階級であったら。美しい姿をしていたら。
もしも。
もしもだ。
「そんなにもしもを考える必要はないよ」
ほら、手を見てと言われた。
従うように、視線を移す。剣だこが一切なくなっていた。子供のようなつるつるとした指先。爪は綺麗な桃色。ささくれだったところがひとつもない!
信じられずに、まじまじと見つめる。生まれてから、こんな綺麗な手をギスランや令嬢達以外で初めて見た。
これが自分の心臓と繋がっているだなんて到底思えない。
「ほら、行っておいで」
とんと体を押され、たたらを踏む。二人の前に立ったロディアは、誰もが羨むような高級なドレスを着ていた。
視線が合う。どうしていいか分からずにいると、ギスランがにこりと笑いかけてくれた。
「どうかされましたか?」
「……ギスラン、彼女は知り合い?」
「ええ、知っている方だ。少し席を外してしまっても?」
カルディアは拗ねたように勝手にすればと言った。
ギスランに手を取られる。口から心臓が飛び出るのではないかと思った。ギスランの手はロディアの手と比べると大きくて、信じられないほど冷たい。
これは夢なのだろうか。夢でも、いい。
いっときの夢でも構わない。だって、このロディアが!
道端で、雑草のように捨てられていた女が!
星を集めたような綺麗な人と、手を繋いでいるだなんて。
誰かに言い触らしたい。それこそ、義理の父でもいい。
最上の輝きを放つ貴公子が、ロディアに触れている。こんな幸福があっていいのだろうか。
人通りの少ない踊り場に出る。逢い引きにもよく使われる場所だ。どくんと心臓が高鳴る。血管を通って、体があったかくなっていく。
これが、ロディアの望んでいた幸せだった。
――本当に?
――この声は。
星が空を舞う。
野良犬のようなロディアに、貴人が膝をついて話しかける。それは、夢のようなひとときだった。夜がそのまま、ロディア目掛けて落ちて来るような。
さっきまでギスランに手を引いていてもらったはずなのに。どうしてこんなところにいるのだろう。
――いや、もともとこうだった。
薄汚い、何の取り柄もない、みすぼらしい女。
街角で客をとって日銭を稼ぐ惨めな女。それがロディアだった。あれは14歳の頃だっただろうか。
いつも救いを求めていた。星のように美しい聖職者が慈悲を与えてくれる。そんな妄想をしていた。現実は醜くて、直視することが耐えられないほどだったけれど。
「カルディアという小さな白い花を知っている?」
声変わり前のか弱い声だった。頬は真っ赤で、今にも倒れてしまいそうなぐらい華奢だ。
天使みたいな人だなと思った。聖堂にある、ステンドグラスに描かれた優麗な姿。羽が生えた美しい天使。
ギスラン・ロイスターはロディアの前に突然現れた。
「……」
ぽかんと口を開けたまま言葉が出来ない。体を走る痛みが一瞬のうちで消えてしまった。天国からの迎えなのだろうか。
それとも、聖職者がようやくロディアを助けに来てくれたのだろうか。
こんな地獄から、救ってくれる?
甘ったるい救いがようやくロディアにも与えられるのか。
「知らないのか? ここら辺で花を売っているのでは?」
おざなりに置かれた花が入った籠を指差される。
確かに花は売っている。けれど、花売りは色売りでもある。花には芳しい蜜がある。蜜は女、その蜜を目当てにやってくるのが男だ。
貧民街には娼館があるが、あんなところはロディアに言わせれば上等な場所だ。屋根もあって、風を塞ぐ壁もある。ロディアの顔じゃあ、娼館には入れなかった。醜女はいらない。美しいものだけがあそこには入れるのだ。
娼館にも通えない奴らがいる。そんな人達が花を少しだけ高値で買ってロディアを好きに扱う。
乱暴に扱われるのは慣れている。家も、家の外も、ロディアを食らう無情な現実であることは変わらない。
「――ここら辺ではもう見なくなりましたよ、旦那様」
「旦那様? 私はそんなに歳をめしていないけれど」
「で、では、坊っちゃま……でしょうか?」
「呼びなど、どうでもいい。前は植えられていたのか?」
「はい。王都は女神カルディアに……ええっと、祝福されていたので」
聖職者が祈りを捧げる前に、言っていた。女神カルディアはあらゆる人を祝福している。だからこそ、その恩寵に報いるべきであると。
ロディアが男を誑かして生きていけるのだって女神のおかげだ。女神がお許しになったから、まだ生きていられる。
人は女神の許しなしに、生きてはいけないらしい。
「けれど、ええっと」
何だったか。
偉い聖職者が来て、国王を呪った。だから、花が枯れてしまった。誰かがそんな風に言っていた。女神の守護が、王都から途絶えて水難が頻繁に起こるようになった。
王は女神に見捨てられたのだ。
「呪いで枯れてしまった……?」
「呪い」
「だ、だから、もうここにはないはずです。どこにあるっても聞かない」
「そう、か。やはり。ありがとう。親切だ」
綺麗な人に褒めて貰えて純粋に嬉しい。善い人になれたような気がする。
「ところで、ここで寝ているのは何故?」
「――罰なのです」
父は酒代を稼いでくるまで家には入れてくれない。まだ、お金が足りなかった。だから、家には帰れない。けれど、どっぷりと更けた夜。
通り道に人はまばらで、たまに貴族様らしい馬車が通るだけ。
貴族はロディアを買わない。気にも留めない。
もう、店じまいをしたほうがいい。けれど、どこにも行くあてはない。
「罰? 寝っ転がるのが?」
「ふふっ」
服が乱れて、精液も股からこぼれているのに、初心なことを言う。
きっと、身も心も、天使のように綺麗なんだろう。ロディアのような目にあったことはないのだろう。
「なぜ、笑う」
「どうしてか、おかしくなってしまって。そう、罰なのやもしれません」
生きていること自体が罪だ。
聖職者の一人が、ロディアを見て言ったことがある。お前達は不浄である。身を滅ぼす悪徳を重ねている。姦淫は罪である。
けれど、お綺麗な顔を取り繕ったって、男は女の裸体を前にすると盛りのついた犬になる。
ロディアに罪があるならば、ロディアを買う人間にも罪があるべきだ。そうして、永遠、地獄で罰を受けるのだ。
天国に行きたいと思う。
けれど、今でも地獄なのだ。きっと天国なんかに行けやしない。姦淫を重ねて、荒淫に耽っていたのだから自業自得だと唾を吐きかけられるに決まっている。
「ここでいつも寝ているのか」
「……たまにです。警邏に追い払われることもあります」
その警邏のなかに、ロディアを買った男もいた。本当におかしなものだ。どうして、男は許されて、女は罰を受けるのか。買った男は悪くないのか。家に入れてくれない義父は悪くないのか。
そもそも、ロディアに罰を受けなくてはならないのか。
「そう」
軽く吐息を落とし、少年がくるりと体を回転させる。もう、用はないというように。
咄嗟に声をかけていた。
「お、お探しではなかったのですか」
「探していた。愛らしい方がいる。花という花はあの方のためのもの。捧げたくなるのも道理では?」
「……あ、愛していらっしゃるのですね」
夢物語のような甘ったるい言葉だった。
現実に、愛などと呼べるものはないと知っている。
あるのは肉欲と食欲と強欲だけ。欲望だけが人に備わっている。
「そうだ。私はあの方を愛している」
口元をほころばせて、男は断言した。
きゅっと胸が締め付けられる。純粋なものなど、どこにもないはずだ。打ち捨てられたロディアがその証人。
人間はどいつもこいつも汚くて、終わっている。けれど、少年のこれは。
「とても花が似合う方だ。着飾って、世界で一番美しいと褒めて差し上げたい。きっと恥じらわれるだろうから、その姿を見たい。それが出来たらきっと天にも昇る気持ちだろう」
「いいなあ……」
正直にこぼす。
美辞麗句など、この溝には転がっていない。
ましてや、本当にそう想っていると言わんばかりの男なんて薬で頭が崩れた奴以外にいない。いない、はずだった。けれど、彼は違うのか。違う世界に住むからこそ、綺麗なものを知っているのか。ここが、汚すぎるだけなのか。
何にせよ、そこまで思われる人を羨ましく思った。
ロディアと違ってきっと価値がある人間なのだろう。
この少年が心惹かれるような、嫋やかな女の子なのかもしれない。
少年の目がかすかに広がり、顔を凝視される。
恥ずかしくて、体を丸めた。
「も、申し訳ありません」
「違う。これは羨まれるような感情なのかと疑問に思っただけ」
「え、ええ。素晴らしい、夢のような感情です」
裏路地に住む物乞いや腹の膨れた死にかけの子供には持ち得ない余裕。
だからこそ、キラキラしている。売春宿には、愛や恋はない。街角にはもっと。
ロディアの中にも、きっと。
「わたしにもそんな想いがあるでしょうか」
「ないと思うのか。――本当に?」
「あるはずがありません。薄汚い身です。美しいものなど、ないから」
「……私も美しいものではないけど」
そう言って、少年はぎこちなく微笑んだ。笑い慣れていない、そんな笑みだ。媚びを売るときの自分にそっくりだった。
身近なものに感じて、驚いた。ここで息をして、普通に生きているのか。この人は、ロディアと同じ世界にいるのか。
「けれど、そうだ。この想いはこの世界で一番美しいもの。足が引きちぎられようと、目玉をくり抜かれようとも、きっとこの想いがあれば耐えられる」
口の端が歪に上がる。
ぼろの靴で起き上がろうとした。どうしてか、寝転んだままでいたくないと思ったのだ。
背中がそこらじゅう痒く、服も不格好だ。なにより、男の精液がぐちゅりと音を立てて苛む。
「いつかわたしも……。そんな思いが欲しいです」
「そう」
少年が手を伸ばし、ロディアを掴んだ。
体を引っ張り上げられる。小さな体に似合わず、握る手の力は強かった。
「手……」
汚れている手だ。そんなものを掴んでいいのか。
「あ、ありがとうございます」
にゅっと白い指がロディアの髪を指差した。顔に火がついたぐらい、恥ずかしくなる。どんな姿で人の前に立っていたのだろう。慌てて髪を手でおさえる。
「いつかお前が恋に溺れたら、私に教えて。どんな恋か、気になる」
「で、ですが。もうきっと貴方とは二度と会えないと思います」
こんなに上等な人だ。きっと名のある貴族の息子に違いない。ロディアと約束したことだって、すぐにすっかり忘れてしまうに決まっている。
「――ならば、私についてくるといい。丁度、補充しようと思っていたところだから」
その日、ロディアの元に星は落ちて来なかった。
夜は深く星が瞬いていた。体は重く、足取りも重い。いつの間にか憂鬱な朝が訪れる。
けれど、いつも感じていた疲労感はなかった。彼はロディアに微笑んだ。
作り物の、紛い物のような笑顔だったけれど、無価値なロディアに与えられた価値のある美しいものを教えてくれた。
星のように綺麗な恋と、愛と言うもの。
ギスランはロディアを迎え入れた。教育が行われ、どこにも潜り込める駒として育成された。
潜り込むのは案外上手かった。平凡な顔立ちをしているからだろうか。警戒心を抱かれずに任務を遂行した。
暗殺のような真似をしたこともあった。
ロディアは上手く振る舞えた。読み書きを教えてくれた先輩が命を落としても、平然と生き残った。
そのうちケイと顔を合わせて、サリーがやって来て、イルが連れて来られた。
ギスランの部下は殆どが剣奴と呼ばれ、それぞれ突出した能力を持つものばかりになった。人が入れ替わり、処分され、ロディアも何度か死にかけた。
耳を飾る宝石を賜った。ギスランの期待を表す涙で出来たもの。ロディアが身につけた初めての宝石。
美しいその石を、ロディアはすぐに口に含んだ。信頼を裏切らないと、体に入れて誓った。
ロディアはギスランのために、五年以上生きて来た。
ギスランが見せた、優しい恋、胸を躍らせる愛。
それをカルディアがきちんと受け入れ、ギスランを一途に想っていればこうも妬心を抱かずに済んだだろうか。
――ギスラン様。貴方が幸福で、何不自由なく過ごして下さっていれば。
確かなものが壊れて欲しくなった。壊れるぐらいならば、この矮小な身が滑り込んでもいいではないか。
そして、カルディアに向けるような恋を、ロディアとギスランで紡いでいけばいい。
――だって、きっとカルディアはギスランのために死ねない。
――そうだ。ならば、わたしが恋人になってもいいじゃないか。
「そうだよ。君は報われるべきだ」
男の声がした。欲望を引き摺り出す、甘い声。
どんと壁に体を押し付けられる。
息が出来ずに、ごほと咳をこぼす。意識が戻ってくる。目の前にはギスランがいた。
紫の瞳がさめざめとロディアを見つめていた。
ぞくりと背筋が凍る。こんな瞳をする人だっただろうか。
「何者だ、お前」
「あ、貴方のロディアです」
「ロディア? 知らない名前だ」
「剣奴の! こんな格好だから、お分かりではありませんか」
それほど見違えているだろうか。貴婦人のように見えているだろうか。
傷一つない手。甘い香りのする体。夢に見ていた女の姿。
「この顔をお忘れですか。それとも、見違えて面影もありませんか。では、この声に聞き覚えは?」
犬のように眉間に皺を寄せて、ギスランは黙り込んだ。
「ロディアなのか?」
胸がいっぱいになった。ギスランはこの姿のロディアでも分かってくれるのか。
分不相応な格好のなかでも、ロディアの姿を見出してくれるのか。本質を見抜いて指摘してくれるのか。
「はい」
「……どうして、こんなところに。その恰好は?」
「優秀な清族の男がしてくれたんです。こんな風になるなんて、自分自身驚いているぐらいで」
ギスランも言葉が見つからないのか、しきりに後ろをちらちらと向いている。
気恥ずかしいが、それなりの恰好なのだろう。ギスランが気に入るような令嬢になれていればいいのだが。
「ギスラン様、よろしければこれから少しお茶でもしませんか」
「お茶だと?」
「はい! いい茶葉をご用します。心の底から温まりますよ」
「なぜ、お前とそんなことをやらなくてはならない? カルディア姫の元に戻らなくては」
踵を返そうとするギスランに呼びかける。
どうしてだろう。この姿では気に入らなかったのか。ロディアより、カルディアを優先する理由は何だ。
カルディアより、何が劣るというのだろうか。
恨みが顔を出す。妬みが舌を出す。自分が手に入れるものだと臓腑が滾る。腹を焼くような痛み。じりじりと焦げるような愛着。
この醜い感情は何だろうか。
激情を抑えきれない。抑えてしまったら、死んでしまいそうだった。
「どうしてあの女でなくては駄目なのですか!?」
声の限り叫んだ。
「あの女は偽善者です。人の形をした悪魔だわ。男と見れば尻尾を振らずにはいられない淫売。どうしてそんな女が好きなのですか? 婚約者だったから? それともかわいそうな生い立ちだからですか?」
ならば、ロディアだって肩を並べられるはずだ。
母に捨てられ、義理の父は飲んだくれで、娘を慰み者にするような外道だった。金を稼いでこいと寒空の下裸足で家を追い出された。悲劇的な生い立ちではないか。カルディアと何が違うというのだろう。
「――違う」
ギスランはきっぱりと否定した。
「何もかも、間違いだ」
紫の瞳が責めるようにロディアを見つめている。
「私が好きになったのではなく、あの方が、私にその感情を下さったのだ」
大切なものを仕舞い込むように胸に手を置く。感情そのものが、胸の中にすっかり仕舞われているようだった。ロディアは息を詰めた。
「死にたくない。生きたい。愛されたい。幸せにしたい。――幸せにすることで、幸せになりたい。なんてきらきらとした想いなんだろう」
ギスランの口が動くたび、塞ぎたいと思った。続きを聞きたくなかった。
けれど、ずっと聞いていたいような、不思議な気分だった。
「人形の身には過ぎたる想いだ。夢の中にいるよう。最期のときまで浸っていられる極楽の夢など、あっていいものなのだろうか」
――けれど、最期。
貴方は酷い死に方をする。
ロディアはきっと泣いてしまうだろう。
すぐに後を追うだろう。なのに、どうして、穏やかに笑っていられるのだろうか。
「お前は間違っている、ロディア。カルディア姫でなくてはではない。私が自分の意思で、あの方のことを幸せにしたいと思っている、ただそれだけだ」
「それだけならば、わたしが入り込む隙間なんてどこにもない! わたしの救いではない! どうしてですか! 私の望むことは得られないのですか!?」
「お前が望んでいるのは私と恋仲になることなのか」
「そっ……」
口が悴んだように動かなくなる。
そうだ。ロディアはギスランを慕っている。
「お前は本当に恋愛という意味で私を好いている?」
「は、はい」
告白のはずなのに、喉の奥にヘドロのようについた言葉が蟠る。
ギスランのどこが好きなのだろう。
顔が綺麗なところ?
恋と愛を教えてくれたところ?
ロディアをあの薄汚いゴミ溜めから救ってくれたところだろうか。どれもそうのようで、根本的に違う気がする。
「わたしは」
貴方に幸せになって欲しい。
幸せでいて欲しい。ギスランがカルディアの幸せを願うように、ロディアもまた、ギスランの幸せを願っていた。
ギスランの最期を知っている。惨たらしく死んで、何も残らない。
ギスランはカルディアのためならば何でも出来ると言った。その気持ちが恋で、比類なき愛ならば、ロディアのこの感情も恋と分類され、愛と呼ばれるものだ。
いつの間にか、ロディアの格好はドレスではなくなっていた。いつもの汚れてもいいような質素な服。
ギスランだって気取った貴族服ではなく、もっとラフなシャツとズボンになっていた。
香水も、化粧もしない。ギスランの望み通りの女だ。こういう女ならば、ギスランは受け入れてくれるかもしれない。
「――ギスラン様のことが好きです」
好きだ。彼の清らかな献身が。この世のものとは思えない、一途さが。この人の愛しか、ロディアは知らない。この人の恋しか、ロディアは認めない。ギスランの愛が、恋が、一番美しい。
「そうか。でも、無理だ。私の心はカルディア姫のものだから」
酷い人だ。
容赦がなくて、残酷で、美しい人。
これは夢だ。幻だ。
けれど、確かにロディアの願いそのものだった。
「どんな恋か、と思ったけれど、報われないものを選んだものだ。馬鹿な子。私を好きにならなければよかったのに」
「けれど、貴方が下さった。この思いを、貴方が」
本物のギスランはきっと恋を知ったら教えてくれと言ったことも忘れているだろう。
こうやって、正面から告白を受け入れて断ってもくれないだろう。対等に見られるには、育ちも生まれも違いすぎる。
それでも、目を見て話したかった。
対等に言葉を交わしたかった。
耳が痛い。足も痛い。どこもかしこも、痛い。悲しくなって、耳を押さえる。くちゅりといけない音がする。手は真っ赤だ。
イルに切り落とされたのだったか。
――そうだ、ロディアはギスランのものではなくなってしまった。
いらないと捨てられた。また、ゴミ屑のロディアに戻ってしまった。
「痛くないのか」
「痛いです、とても」
「それはそうだろう。耳を失くせば人は誰も痛いと喚く。足が潰れれば酷いと嘆く」
「ええ、そうでした。――そうですね」
義理の父もそうだったのだろうか。
戦争に足を奪われた憎らしい男も、ロディアと同じ痛みを抱えていたのだろうか。
何の役に立てない自分を呪っただろうか。
もう死んでいるだろう男に、一歩だけ近付いた。今まで毛嫌いしてきた男なのに、どうしてか少しだけ、情のような、淡い熱を覚えた。
「ギスラン様は痛くはないですか」
妖精との契約は壮絶な痛みを伴うのだと聞いたことがある。そうでなくとも、ギスランには呪いがある。薬の副作用は強い。尋常ではない痛みのはずだ。気が狂いそうになるほどの。
「痛い。あの方の側にいられなくて、胸が」
呆気に取られた。
やがて、腹の底から笑えて来た。
ああ、本当に。この、目の前にいるギスランは、ロディアの理想そのものだ。
自分の想いにギスランは応えてくれない。悲しくて、寂しい。
でも、それ以上に彼はもっと報われるべきだと思う。愛で満たされ、幸せのなか死ぬべきだ。最期まで、誰かのために駆けずり回って、罵られて、身分不相応だ、能力不足だと嫌みを言われてほしくない。
カルディアは誰彼構わず嫌われる姫で、敵も多い。カルディアの側にいるギスランを揶揄する声も大きい。
けれど、カルディアはそれを知らない。
だから、ギスランはいつまでも軽んじられるし、罵倒される。
恋を与えたまま、愛を与えたまま、何も受け取らずに死んで欲しくない。ギスランは愛されるべきだ。
それでも、ギスランはカルディアに恋をして、愛する。死ぬ一秒前まであの女が誰にも殺されない、優しい世界で生きてくれることを望むだろう。独占欲に塗れながら、それでも聖人のような一途さで死ぬまで目を細めてカルディアのために生きる。
ロディアの恋は叶わない。
きっと産まれ変わっても、叶うことはないだろう。
それでも、いいのだ。
悔しいけど、涙が出るほど悲しいけれど。
「大好きです。ギスラン様」
愛は、そんなに美しいものなのだろうか。恋は魂を賭けるようなものか。
――けれど、わたしはあの夜、確かに救われた。
犯され、捨てられたロディアに声をかけた理由が、愛する人に花を捧げたいという清らかな思いならば。
この世界で、愛だけは美しく、恋だけは儚く、ロディアの救いになりえるのだ。
「あれ」
臓器の塊――道鏡は素っ頓狂な声をあげる。
誘惑していた女は、笑みを浮かべて死んでいる。
「また?」
先ほども救いを拒まれた。イルと言ったか。眼鏡をかけた目つきの悪い男。うまくいくと思ったのに、土壇場で跳ね返された。
「女神カルディア、だっけ。土地神が強いのかなあ。王都の歓楽街はそうでもなかったはずだけどなあ。やはり国の中枢ともなると違うのかもしれない」
悩んだところで仕方はない。本当ならば、言う通りに動かせる駒にするつもりだったが、死んでいても構わない。もぞもぞと体を動かし、女の口に入る。狭まった喉を通って胃の中に浸食する。溜まった胃酸に四苦八苦しながら、女の奥に向かう。
「まあ、すぐに壊れちゃうだろうけど、ここから逃げるだけだから大丈夫だよね」
ロディアだったものは、しばらくしてゆらりと立ち上がった。足が砕けている。歩くたびに足元が泥のなかに踏み込んでいくようにふらふらとする。
けれどロディアのなかに入った道鏡は、痛みさえ功徳だと笑う。
「ああ、はやく他の可哀そうな人を助けないと!」
ぴょこ、ぴょこと、蛙のように体が跳ねる。足が変な方向に曲がる。骨の粉々になっていない部分を支えにして、飛んでいる。
その後、ロディアの死体は見つからず。
また、道鏡の肉塊も見つからなかった。
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