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前編

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「え? 子どもが産まれている?」

 我が家の執事である白髪頭のハドリーの報告を受けた時、私の耳はおかしくなってしまったんじゃないかと思ったわ。

「誰の子どもですって?」
「ローザ様の婚約者、第五王子のブライアン様でございます」
「うそでしょう!?」

 この国の第五王子のブライアン様と婚約関係にある私は、思わず声を上げてしまった。
 私はローザ・ランドルフ。かなり古くから続いている由緒正しい伯爵家の令嬢の私には、生まれた時から第五王子のブライアン様が婿に来てくれることが決まっていた。

 そんなブライアン様に、子どもが。

 もちろん私は出産どころか妊娠もしていない。子どもができるような行為もしたことがないもの。

「お相手は」
「マッドレル家の男爵令嬢、マリリン様でございます」

 金髪で派手なマリリン・マッドレル男爵令嬢ね。その色香と美貌で数々の男を手玉に取っているということで評判だわ。
 そうね、彼女の華やかさに比べれば、私などではさぞ物足りなかったことでしょう。
 けれど、私は信じていたのに……浮気どころか、もう子どもまでもうけていただなんて!

「本日の夜会は欠席された方がよろしいのでは……」
「いいえ、行くわ」

 情報を仕入れてくれたハドリーには心底感謝しているわ。でも、だからこそ夜会には出席しなくてはならないのよ。
 私とブライアン様は十七歳。十八歳になる来年には挙式の予定だったというのに、よりによって子どもだなんて。

 私はその夜、王家主催の夜会に出席した。
 エスコートをするつもりすらないらしく、私は仕方なく一人で舞踏会場に入る。

「流行のドレスも着ることもしない、あんな真面目な女ほどつまらないやつはいないよ」

 どこからかブライアン様の声が聞こえてきた。取り巻きの男たちがどっと笑い声をあげている。
 知らなかった。私のことそんな風に思って言いふらしていたのかと思うと、悔しさと同時に悲しさも襲ってくる。
 ブライアン様の私に向けられていた笑顔は、全部大嘘だったのね。物心ついてから今まで何度もお会いしていたのに、全く気づかなかった。

 もう私に心がないのなら、こんなに惨めな気持ちにさせられるくらいなら──

 私は母の代から使われている流行遅れのドレスの裾を少し上げると、ブライアン様の元へと歩き始めた。

「そもそも女のくせに領地経営にまで口を出して、『結婚するまでキスはお許しください』ときたもんだ。たかが伯爵令嬢風情が、少し頭がいいからとお高く止まっているんだよな。それにあいつの領地は都から遠く離れた山地で炭鉱しかなく、出てくるのは石炭のみ! 収入なんかないも等しいんだ。ああー、第五王子なんかに生まれなければ、あんなとこに行かずにすんだのになぁ~」
「ぶ、ブライアン様……!」

 取り巻きの一人が私を見て『まずい』という顔をしている。それに気づいたブライアン様が、私に振り返った。

「ん? うわ! い、いたのか、ローザ……」
「はい。型落ちのドレスしか持っておらず、申し訳ございません。ブライアン様に恥ずかしい思いをさせてしまいましたこと、大変申し訳なく思っております」

 私がそういうと、今まで焦っていた顔をどうだと言わんばかりに態度をふんぞり返らせている。

「まったくだ! 毎回みすぼらしいドレスを着られる俺の身にもなってみろ」
「はい……しかし我が領地はご存知の通り炭鉱しかなく、領民は苦しい生活を強いられているのでです。私だけがドレスや宝石で贅沢するわけにはまいりませんわ」
「それでも俺と婚約したからには、領民から搾り取ってでも着飾るべきだ! 俺を誰だと思っている? 第五王子だぞ!」

 いたけだかに言い放つブライアン様。この人は本当にブライアン様なの?
 気位は高くとも、こんな言い方をされる方ではなかったのに。それとも、私の前では婚約者らしく振る舞っていただけで、元々はこういう性格だったのかもしれない。
 私は奥歯をぐっと食いしばった後、にっこりと笑って見せた。

「その第五王子ともあろうお方が、婚約者の衣装には興味をくださらなかったように思いますわ。私はただの一度も、ブライアン様にドレスのプレゼントをいただいたことがありませんもの。ブライアン様が貢がれるお相手は、私ではなかったのでしょうね」
「なにを……」
「あら、あちらにマリリン様がいらっしゃいますわ。まぁとても立派なご衣装ですわね。ブライアン様のお見立てでしょうか」
「そ、そんなわけがないだろう!」
「ブライアン様に秋波を送っておいでですわよ。お応えした方がよろしいのではないですか?」
「バカを言うな!」
「それにしても、見事なプロポーションですこと。最近子どもを産んだばかりとはとても思えませんわ!」

 私の一言で、ざわっと周りが騒ぎ始めた。

「そういえばマリリン嬢は最近体調不良とかで表には出てきていなかったぞ」
「王子殿下がドレスを仕立てさせていた相手は、ローザ嬢ではなくマリリン嬢だったのか」

 反論できずに言葉を詰まらせているブライアン様のところに、堂々としたマリリンがやってきた。

「楽しそうな話をしてますのね」
「ええ、ちょうどマリリン様のお噂をしていたところですわ。ねえ、ブライアン様?」
「あ、ああ……」

 ブライアン様の顔が優れない。さすがにまずいことになったと思っているんでしょうけど、気付くのが遅すぎると思いませんか? 彼女に子どもまで産ませておいて。

「ご出産されたそうで、おめでとうございます。けれどマリリン様はまだご結婚されていなかったのではありませんでした?」
「うふふ、今どき愛する方にキスすら許さない身持ちの固い方など、ローザ様しかおられませんわ。できちゃった婚は、これからの貴族のトレンドですのよ。ト・レ・ン・ド」
「まぁ面白いご冗談を。そちらの男爵家だけのトレンドではなくて?」

 おほほ、うふふという笑顔の応酬に、周りの空気は凍りついているみたいね。二人の関係を暴けるなら、構わないわ。

「それでは、これからその殿方とご結婚の約束でもなさっているのですわね?」
「もちろんですわ。その方は私だけを愛してくれると約束してくださいましたもの。ドレスに宝石に、たーっくさんのプレゼントをくださいましたもの。あなたと違って! ねぇ、ブライアン様!」
「ばか、俺の名前を出すな!」

 今さら慌てても、もうあなたが相手だと丸わかりですから。
 ああ、でもやっぱりマリリン様にはたくさんのプレゼントを送っていたのね。私には十歳の誕生日にイヤリングをくれただけだというのに。
 未練がましくそのイヤリングをつけてしまっていた自分が嫌になる。

「ブライアン様、どうご責任をとるおつもりですか……?」

 声を荒立ててはダメだと自分に言い聞かせて、私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
 にっこりと笑って言ったはずなのに、何故か傍観者たちが「ひぇっ」と声を上げていたようですが、気にしません。

「どうって……」

 私とマリリン様を交互に見て、ブライアン様は意を決したように……むしろ吹っ切れたように高らかに声を上げた。

「俺はマリリンが好きだ! ローザとあんな領地になど行きたくはない! もう子どもも産まれているし、俺はマリリンを選ぶ。お前とは婚約破棄だ! ローザ!」

 これ以上ないくらいに言い放ったブライアン様。結局、それが本音だったんでしょう。悔しいけれど……悲しいけれど、私はマリリン様に敵わなかったのね。
 それはそれとしても。

「勘違いなさらないでください、ブライアン様。婚約破棄を言い渡すのは、私の方ですわ!」

 私は耳に付けていたイヤリングを外すと、殿下に投げつけた。
 二つのイヤリングがポスポスっとブライアン様の胸のあたりに当たって、床に落ちる。

「それは結婚契約金の返還替わりでしてよ。私にはそれしかくださらなかったのですから、十分ですわよね?」

 実は婚約が決まった時に、結婚契約金と称して王様に結構な額の援助をいただいていたそうだけど、私はまだ産まれたばかりだったから関わっていない。
 もらったものを返すというなら、このイヤリングだけよ。
 ブライアン様は私の言い分に納得してくれたのか、私のこんな態度に驚いたのか、こくこくと頷いてくれた。
 私はそのまま会場を後にしようと二人に背を向ける。

「……すまない、ローザ」

 後ろからポツリと聞こえてきた、ブライアン様の声。

 謝るなんて、卑怯です……!!
 謝るくらいなら、どうして……!!

 ここで泣いてはいけないと、私は急いで会場を出ると、馬車に飛び乗った。

「ローザお嬢様? どうなさったんです?!」
「王都を出て……今、すぐに」

 私の言葉に、御者のイアンは驚きながらも馬を走らせてくれた。
 王都を出たところで、私の目からは涙がはらはらと流れ落ちてくる。

 ブライアン様と初めて会ったのは、五歳になってからだった。
 婚約者だと言われても実感がなくて、二人で手を繋いで遊んだ。
 お互いに悪い印象ではなかったし、仲良くやれていたと思うわ。
 私の十歳の誕生日の時には、一生懸命選んでくれたイヤリングをプレゼントしてくれて、泣くほど嬉しかった。
 それから七年間、私はずっとそのイヤリングを大事にしてきたけれど、もう手の中にはない。
 最後の謝罪は、当時の気持ちを思い出して言ってくれたものだったのかもしれない──
 そう思うと、また涙が溢れた。

 上手くやっていこうと思っていたのよ。私には、病気がちのお父様一人だけだったから。
 領地の経営をなんとか回復させて、ブライアン様にはご苦労をかけさせまいとずっと頑張ってきた。
 ブライアン様に理解してほしかった。支えて欲しかった。
 なのに、ブライアン様はマリリン様と……。
 もうとっくに終わってしまっていたんだと思うと、悲しくて滑稽で、涙が止まらない。
 しくしくと泣いていると、いきなり馬車がガクンと揺れた。

「きゃあ!?」

 私の体は一瞬宙に浮き、座席から放り出される。

「お嬢様、申し訳ありません! 大丈夫ですか!?」

 馬車が急停止し、御者のイアンが慌てて声をかけてくれた。

「い、痛……」
「足を痛めたんですか!?」
「大丈夫よ……なにがあったの?」
「少しスピードを出してしまっていたので、溝にはまった瞬間、車軸が折れてしまったようです……」
「修理は……」
「ここでは無理です。街に行かないと……」

 ああ、古い馬車を丁寧に使っていたというのに、急かしてしまったからだわ。
 王都を出て、次の町まではまだ距離がある。
 歩いて行くには遠すぎるし、この足では無理そうね……。

「あああ、どうしよう……申し訳ございません、お嬢様!」
「謝らないで、イアン。私も悪かったの」

 今日はこういう日なのかもしれない。春が近いと言っても夜はまだまだ冷える。ここで一晩なんて明かせない。
 どれだけ惨めになればいいのだろうと溢れ出る涙を拭っていると、後ろから馬のいななきが聞こえた。
 盗賊かもしれないと身構えていたら、王都の騎士服を纏った人のようでほっとする。

「大丈夫ですか」

 低音だけど、柔らかい声。その人は外で御者と話をしてくれた。

「どうか、お嬢様を街まで運んでくださいませんか? 私は馬と馬車を置いてはいけませんので……馬車の修理屋に連絡して頂けると助かるのですが」
「わかりました。どうぞご心配なさらずに」
「ありがとうございます!!」

 その人が馬車の扉を開けて、手を差し伸べてくれる。

「お嬢さん、こちらへどうぞ」
「ありが……うっ」

 足に痛みが走って、私は顔を歪めてしまった。

「怪我を?」
「だ、大丈夫ですわ」
「無理はなさらず。失礼」

 私がなにかを言う前に手が伸びてきて、あっという間に体が宙に浮く。気づけばその人の手の中にすっぽりとおさまっていて、私は彼の馬に乗せてもらった。
 すぐに彼も私の後ろに座り、二人乗りの状態でゆっくりと馬を歩かせ始めた。私は横向きだから不安定で怖かったけれど、落ちないようにそっと手を添えてくれている。
 世の中には、優しくて良い人もいるのね……。
 そう思うと、ブライアン様にされた仕打ちがどうにも悲しくなって、また涙が溢れてきた。

「どこか、痛みが?」
「あ、いいえ……違うんです。悲しくて……」

 声に出すと、ますます情けなくてつらくなってしまう。
 いきなり泣かれて迷惑に違いないわ。早く泣き止まなきゃ……。
 そうは思っても、涙は私の意思に反して勝手に洪水を起こし始めた。情けない……。

「言葉にすることで楽になることもあります。私でよければどうぞお話しください」

 暗くて顔はよく見えないけれど、その声の柔らかさで人となりがわかる。
 私はこの苦しい胸の内を彼にぽつりと漏らした。

「信じていた人に裏切られたんです……彼が苦労せずにすむよう、頑張ってきたつもりでした……。でも、それが裏目に出てしまって……」

 さすがに第五王子だとは言えなかったけれど、私は止まらぬ涙をおさえながら話した。

「それはおつらかったでしょう……」
「すみません、こんな話を……」
「いいえ。どうぞ今は涙とともに悲しみも流してください。あなたの明日が、少しでも明るく感じられるように」

 そんな優しい言葉をかけられると、余計に泣けてきてしまう。
 私はその人の胸の中で、声をあげて泣いてしまっていた。
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