後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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三章 湯泉宮と雲嵐の過去

16、湯泉宮

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 まどろみを誘うように、のどかに舟は進む。

 やはり南方なので、翠鈴ツイリンの頬を撫でる風があたたかい。冬だというのに、可憐な花が咲いている。
 音もなく、うすくれないの花びらが水に舞う。

「着きましたよ」

 事前に告げていた旅館の前で、舟は泊った。
 舟で行き来する人が多いからだろう。旅館は、川に面して入り口がある。

「さぁ。翠鈴、手を」

 簡素な桟橋で、光柳クアンリュウが手を差し伸べてくる。透明な水の影が反射して、光柳の笑顔をきらきらと輝かせた。

「気に入ったんですか?」
「新鮮だからだろうか」
「よかったですね」

 どうにも新しい遊びに付き合わされているような気がする。

 優美なのに、やはり男性の手だ。光柳はてのひらが大きい、指が長い。
 光柳のてのひらは、少しひんやりしていた。

(そうか。わたしの方が体温が高いんだ)

 そんな事も初めて知った。
 舟に乗りこむときは大勢に見られていたから。体温の差に気づくこともなかった。

 翠鈴の手をぐいっと引っ張った光柳は、嬉しそうだ。嬉しそうに笑った。

(楽しそうでよかった)

 光柳が心の底から笑っていると、翠鈴まで気持ちが和らぐ。

 もし自分が詩人であったなら。このほんのりと幽かで、淡い気持ちを文字に連ねることができるだろうに。

 空を見あげると、白い花弁が崩れるかのように、雲がほどけていった。
 
 ◇◇◇

 温泉地で、いちばん大きな宿に翠鈴たちは泊った。
 湯泉宮とうせんぐうと呼ばれる温泉までは、徒歩ですぐだ。

 湯泉宮は、いくつかの浴堂に分かれている。川に面した通りからは見えぬ場所に、露天の風呂があった。
 通常、男女混浴ではないが。この露天風呂は、中央に柵が立てられて右と左で男女が分かれている。

「大きな浴槽につかるのも、この間が初めてだったけど。まさかこんな開放的なお風呂に入るとは」

 露天風呂につかった翠鈴は、思い切って両手と両足を伸ばしてみた。
 長い移動の疲れだけではなく、これまでに積み重なった仕事の疲労も、ほどけていくような気がする。

「わたし……疲れてたんだなぁ」

 毎日、仕事に追われて。寒い中で震えながら、灯りをともしたり消したりの日々だから。うすぼんやりとだるいのが当たり前になって、しんどいという事実にすら気づいていなかった。

 最初は、光柳に無理にこの旅に連れ出されたように感じていたけれど。

(光柳さまは、わたしに何が必要なのか分かっておいでだったんだなぁ)

 どうにも……なんというか。
 自分の考えがまとまらなくて、翠鈴は湯に口に辺りまでつかった。

 最近は光柳のことを考えると、こうだ。思考が明瞭にならない。
 胡玲フーリンに相談すればいいだろうか?
 いや、でも医官にどうかできるようなものでもなさそうだ。

「姉さん」

 ふと、自分の口から出てきた言葉に、翠鈴はびっくりした。
 自分の声なのに。

 姉を殺した石真シーチェンに復讐してから、めったに思いだすこともなかったのに。

(話を聞いてほしいって、これまで考えたことなかったのに)

 幼かった翠鈴の手をつないでくれていた、姉の手はもうない。
 湯から手を出しても、ただぽたりと雫が落ちるだけ。

 感傷なのかな。懐かしがっているだけなのかな。

「姉さん。わたし、遠いところに来ちゃったよ」

 故郷からも遠く。そして、これまでの子供だった自分の心からも、今は離れつつあるような気がする。

 幼い頃には考えもしなかった問いが、今になって浮かんでくる。
 答えてくれる姉はもういない。
 前を行く背中も追えない。

(けれど。姉さんも、ひとりで進んでいたんだ)

 だから姉は道を間違えてしまった。
 もし翠鈴がもっと姉と年が近ければ。彼女の腕をつかんで、堕ちていくのを止められたかもしれないのに。

 湯につかるだけの温泉は不思議だ。
 ぽっかりと時間に穴が空いたようで。ふだんは考えないことにまで、思いを馳せてしまう。

「そうだ。由由ヨウヨウ胡玲フーリンにおみやげを買いたいなぁ」

 お湯が温かくて、じんわりと染みるからなのか。ぼんやりしているからなのか。おみやげに、いいものが思い浮かばない。
 困った。日用品は好みがあるし。装飾品はつける機会もない。置物など、もらっても困るだけだろう。

 宿から湯泉宮までの間に、土産物屋が並んでいたが。これといって目ぼしいものがなかった。

 竹の樋から、湯の流れる音がする。
 風呂から身を乗りだせば、眼下に水路が見えるのだろう。
 だが、舟の人から裸を見られてしまうので。それはできない。

「翠鈴。入っているか?」
「はっ、はひっ」

 突然湯気の向こうから、光柳の声が聞こえた。翠鈴はしゃがみこんだ。バシャンと湯のしぶきが跳ねて散る。
 そうだった。簡易な柵が間に立ててあるが。あちらは男性が入るのだ。

「この風呂は美肌の湯だそうだ。縁や底に、白いものが付着しているだろう。湯華ゆばなといってな。これを肌に塗るといいらしい」
「つるつるになりますか?」

 翠鈴は勢い込んで尋ねた。
 思わぬ大きな声に、光柳はびっくりしたようだ。湯気もあり、柵もあるので姿は見えぬが。返事が遅い。

「うむ。そうだな。つるつるの美肌だ」
「翠鈴。通りでは、この湯華を瓶に詰めて売っていますよ。勝って帰ってはいかがですか? 湯にはつかれずとも、桶に湯を張って湯華を入れて、肌に塗ってもいいそうです」

 雲嵐ユィンランの助言に、翠鈴は「それです!」と立ち上がった。
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