34 / 171
四章 猛毒草
1、渡りのない嬪
しおりを挟む
入内して何年になるのだろう。
後宮の永仁宮の庭で、蔡昭媛は空を見あげた。
もう日も暮れる。
冬枯れの庭は、深い青に沈み。隣の宮では、明々と灯がついているというのに。
九嬪の中でも、後ろ盾の弱い蔡昭媛の永仁宮は、まだ下げ灯籠に明かりが入っていない。
(この宮を担当する司燈は、仕事が遅いから)
蘭淑妃のいらっしゃる未央宮の司燈は、仕事が早くて丁寧だという。
四夫人の宮がある奥まで行くことは滅多にないが。
いちど、未央宮の司燈を見かけたことがある。
凛とした若竹のような佇まいで。姿勢がいいから、背の高さがより際立っていた。
なにより驚いたのは、桃莉公主がその宮女に懐いていたことだ。
人見知りをする公主が、侍女ではなく宮女に心を許すなんて。
蔡昭媛には、すべてが眩しく見えた。
永仁宮の宮女は、仕事が遅いのに手を抜くことが多い。
(やはり四夫人ともなれば、侍女だけではなく宮女ですらも格が高いのかしら。きっとあの司燈なら、わたくしを馬鹿にすることもなく仕えてくれるでしょうに)
今日も帝の渡りがあるとの知らせはない。
痛い。
蔡昭媛は、胃の辺りを手で押さえた。
キリリと、引き絞るように胃が悲鳴を上げる。
あまりにも細い体なので、女性らしい丸みはない。
「雪雪。お前は影が薄いから、せめて華やかに着飾りなさい」と、父によく説教されたが。
髪も豊かではなく、肉付きも悪く。目や口元も薄いので、結局は衣裳に着られてしまう。
「雪雪さま。お夕食をお召し上がりください」
「ええ。ありがとう」
声をかけてきたのは、実家の蔡家にいた頃から仕えている侍女の范敬だ。
二十二歳の蔡昭媛よりも、八歳上で、侍女頭を務めている。
范敬の後ろに人の姿を認めて、蔡昭媛は顔をひきつらせた。
(来ないで)
「またろくに食べぬおつもりですか。そんなことだから九嬪でありながら、あなたは陛下に捨ておかれているのですよ。ご存じでしょう? 皇后陛下が身ごもっておられるのを。寵愛も家柄も、美しさも豊満さも教養も。何ひとつとして、あなたは皇后陛下には敵わない」
きつい語調で蔡昭媛をたしなめるのは、宦官だ。
名を呉正鳴。
蔡昭媛が、いちばん会いたくない人物だ。
なぜなら、彼は帝が誰と寝るのかを記録する係なのだから。
(来ないで。来ないで)
「四夫人とまでは言いません。ですが、他の嬪でも頻繁に帝がいらっしゃる方もおいでです。なのに、あなたはどうなのです。まともに会話するでもなく、愛想がいいわけでもなく。話題すらも持ちあわせていない。つまり教養がないということですよ」
(言わないで)
反論すらも口にできない蔡昭媛は、黙り込んだままだ。
それが呉正鳴は気に食わないのだろう。
こうしてよく嫌味を言いに来る。蔡昭媛の暮らす永仁宮まで、わざわざ出向いて。
「まったく。いつになれば、陛下に従って私はあなたを閨で見ることになるのでしょうね。ああ、そんな日は永遠に来ないかもしれませんね」
(お願い。もう言わないで)
蔡昭媛は、きつく瞼を閉じて首を振った。
それを、呉正鳴は勘違いしたようだ。
「ほぉ? 陛下に抱かれるという自信がおありで? たとえ天地がひっくり返ろうとも、あなたは処女のままですよ。ご存じですよね。あまりにも渡りのない妃嬪は、後宮から追い出されることもある、と。わびしく尼寺で一生を過ごすことになるのですよ」
呉正鳴の言葉は、まるで氷柱だ。
軒から槍のように、連なって下がる氷柱。冷たくて、尖って。繊細で弱い蔡昭媛の心を、ぐさぐさと刺してくる。
「雪雪さまを、追い詰めるのはおやめください」
見るに見かねたのだろう。
侍女の范敬が、呉正鳴を諫める。
だが、そんな状況もまた呉正鳴は気に入らないようだ。片方の眉を上げた。
「侍女に代弁させずに、ご自身で私に言えばどうですか?」
そんなことはできない。
蔡昭媛は首をふる。
帝の妃嬪になるために教育されてきた。殿方に意見するような、生意気な女になってはならぬ。従順であれ。殿方を立てろ。
蔡昭媛が子供の頃から叩きこまれてきたのは、舞や楽。そして相手に対して「すばらしいですね」「さすがです」と、同調する言葉ばかり。
女性は男性に従っていればいい。年長者の言うことを聞けばいい。
呉正鳴は、宦官とはいえ元は男性だ。しかも蔡昭媛よりも年上なのだ。
身分は確かに自分の方が上だ。それでも反抗はできない。
(もう帰って。もう来ないで。わたくしを責めないで。わたくしを虐めないで)
口にはできぬ拒絶が、頭の中で渦巻いている。
うるさい思考に溺れてしまいそうだ。蔡昭媛の口からは、ほとんど声は発せられないのに。
後宮の永仁宮の庭で、蔡昭媛は空を見あげた。
もう日も暮れる。
冬枯れの庭は、深い青に沈み。隣の宮では、明々と灯がついているというのに。
九嬪の中でも、後ろ盾の弱い蔡昭媛の永仁宮は、まだ下げ灯籠に明かりが入っていない。
(この宮を担当する司燈は、仕事が遅いから)
蘭淑妃のいらっしゃる未央宮の司燈は、仕事が早くて丁寧だという。
四夫人の宮がある奥まで行くことは滅多にないが。
いちど、未央宮の司燈を見かけたことがある。
凛とした若竹のような佇まいで。姿勢がいいから、背の高さがより際立っていた。
なにより驚いたのは、桃莉公主がその宮女に懐いていたことだ。
人見知りをする公主が、侍女ではなく宮女に心を許すなんて。
蔡昭媛には、すべてが眩しく見えた。
永仁宮の宮女は、仕事が遅いのに手を抜くことが多い。
(やはり四夫人ともなれば、侍女だけではなく宮女ですらも格が高いのかしら。きっとあの司燈なら、わたくしを馬鹿にすることもなく仕えてくれるでしょうに)
今日も帝の渡りがあるとの知らせはない。
痛い。
蔡昭媛は、胃の辺りを手で押さえた。
キリリと、引き絞るように胃が悲鳴を上げる。
あまりにも細い体なので、女性らしい丸みはない。
「雪雪。お前は影が薄いから、せめて華やかに着飾りなさい」と、父によく説教されたが。
髪も豊かではなく、肉付きも悪く。目や口元も薄いので、結局は衣裳に着られてしまう。
「雪雪さま。お夕食をお召し上がりください」
「ええ。ありがとう」
声をかけてきたのは、実家の蔡家にいた頃から仕えている侍女の范敬だ。
二十二歳の蔡昭媛よりも、八歳上で、侍女頭を務めている。
范敬の後ろに人の姿を認めて、蔡昭媛は顔をひきつらせた。
(来ないで)
「またろくに食べぬおつもりですか。そんなことだから九嬪でありながら、あなたは陛下に捨ておかれているのですよ。ご存じでしょう? 皇后陛下が身ごもっておられるのを。寵愛も家柄も、美しさも豊満さも教養も。何ひとつとして、あなたは皇后陛下には敵わない」
きつい語調で蔡昭媛をたしなめるのは、宦官だ。
名を呉正鳴。
蔡昭媛が、いちばん会いたくない人物だ。
なぜなら、彼は帝が誰と寝るのかを記録する係なのだから。
(来ないで。来ないで)
「四夫人とまでは言いません。ですが、他の嬪でも頻繁に帝がいらっしゃる方もおいでです。なのに、あなたはどうなのです。まともに会話するでもなく、愛想がいいわけでもなく。話題すらも持ちあわせていない。つまり教養がないということですよ」
(言わないで)
反論すらも口にできない蔡昭媛は、黙り込んだままだ。
それが呉正鳴は気に食わないのだろう。
こうしてよく嫌味を言いに来る。蔡昭媛の暮らす永仁宮まで、わざわざ出向いて。
「まったく。いつになれば、陛下に従って私はあなたを閨で見ることになるのでしょうね。ああ、そんな日は永遠に来ないかもしれませんね」
(お願い。もう言わないで)
蔡昭媛は、きつく瞼を閉じて首を振った。
それを、呉正鳴は勘違いしたようだ。
「ほぉ? 陛下に抱かれるという自信がおありで? たとえ天地がひっくり返ろうとも、あなたは処女のままですよ。ご存じですよね。あまりにも渡りのない妃嬪は、後宮から追い出されることもある、と。わびしく尼寺で一生を過ごすことになるのですよ」
呉正鳴の言葉は、まるで氷柱だ。
軒から槍のように、連なって下がる氷柱。冷たくて、尖って。繊細で弱い蔡昭媛の心を、ぐさぐさと刺してくる。
「雪雪さまを、追い詰めるのはおやめください」
見るに見かねたのだろう。
侍女の范敬が、呉正鳴を諫める。
だが、そんな状況もまた呉正鳴は気に入らないようだ。片方の眉を上げた。
「侍女に代弁させずに、ご自身で私に言えばどうですか?」
そんなことはできない。
蔡昭媛は首をふる。
帝の妃嬪になるために教育されてきた。殿方に意見するような、生意気な女になってはならぬ。従順であれ。殿方を立てろ。
蔡昭媛が子供の頃から叩きこまれてきたのは、舞や楽。そして相手に対して「すばらしいですね」「さすがです」と、同調する言葉ばかり。
女性は男性に従っていればいい。年長者の言うことを聞けばいい。
呉正鳴は、宦官とはいえ元は男性だ。しかも蔡昭媛よりも年上なのだ。
身分は確かに自分の方が上だ。それでも反抗はできない。
(もう帰って。もう来ないで。わたくしを責めないで。わたくしを虐めないで)
口にはできぬ拒絶が、頭の中で渦巻いている。
うるさい思考に溺れてしまいそうだ。蔡昭媛の口からは、ほとんど声は発せられないのに。
33
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。