後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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四章 猛毒草

1、渡りのない嬪

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 入内して何年になるのだろう。
 後宮の永仁宮えいじんきゅうの庭で、蔡昭媛ツァイしょうえんは空を見あげた。

 もう日も暮れる。
 冬枯れの庭は、深い青に沈み。隣の宮では、明々と灯がついているというのに。
 九嬪の中でも、後ろ盾の弱い蔡昭媛の永仁宮は、まだ下げ灯籠に明かりが入っていない。

(この宮を担当する司燈しとうは、仕事が遅いから)

 蘭淑妃のいらっしゃる未央びおう宮の司燈は、仕事が早くて丁寧だという。

 四夫人の宮がある奥まで行くことは滅多にないが。

 いちど、未央宮の司燈を見かけたことがある。
 凛とした若竹のような佇まいで。姿勢がいいから、背の高さがより際立っていた。

 なにより驚いたのは、桃莉公主がその宮女に懐いていたことだ。
 人見知りをする公主が、侍女ではなく宮女に心を許すなんて。

 蔡昭媛には、すべてが眩しく見えた。

 永仁宮の宮女は、仕事が遅いのに手を抜くことが多い。

(やはり四夫人ともなれば、侍女だけではなく宮女ですらも格が高いのかしら。きっとあの司燈なら、わたくしを馬鹿にすることもなく仕えてくれるでしょうに)

 今日も帝の渡りがあるとの知らせはない。

 痛い。
 蔡昭媛は、胃の辺りを手で押さえた。
 キリリと、引き絞るように胃が悲鳴を上げる。

 あまりにも細い体なので、女性らしい丸みはない。

雪雪シュエシュエ。お前は影が薄いから、せめて華やかに着飾りなさい」と、父によく説教されたが。
 髪も豊かではなく、肉付きも悪く。目や口元も薄いので、結局は衣裳に着られてしまう。

「雪雪さま。お夕食をお召し上がりください」
「ええ。ありがとう」

 声をかけてきたのは、実家の蔡家にいた頃から仕えている侍女の范敬ファンジンだ。
 二十二歳の蔡昭媛よりも、八歳上で、侍女頭を務めている。

 范敬ファンジンの後ろに人の姿を認めて、蔡昭媛ツァイしょうえんは顔をひきつらせた。

(来ないで)

「またろくに食べぬおつもりですか。そんなことだから九嬪でありながら、あなたは陛下に捨ておかれているのですよ。ご存じでしょう? 皇后陛下が身ごもっておられるのを。寵愛も家柄も、美しさも豊満さも教養も。何ひとつとして、あなたは皇后陛下には敵わない」

 きつい語調で蔡昭媛をたしなめるのは、宦官だ。
 名を呉正鳴ウージョンミン
 蔡昭媛が、いちばん会いたくない人物だ。

 なぜなら、彼は帝が誰と寝るのかを記録する係なのだから。

(来ないで。来ないで)

「四夫人とまでは言いません。ですが、他の嬪でも頻繁に帝がいらっしゃる方もおいでです。なのに、あなたはどうなのです。まともに会話するでもなく、愛想がいいわけでもなく。話題すらも持ちあわせていない。つまり教養がないということですよ」

(言わないで)

 反論すらも口にできない蔡昭媛は、黙り込んだままだ。

 それが呉正鳴ウージョンミンは気に食わないのだろう。
 こうしてよく嫌味を言いに来る。蔡昭媛の暮らす永仁宮まで、わざわざ出向いて。

「まったく。いつになれば、陛下に従って私はあなたを閨で見ることになるのでしょうね。ああ、そんな日は永遠に来ないかもしれませんね」

(お願い。もう言わないで)

 蔡昭媛は、きつく瞼を閉じて首を振った。
 それを、呉正鳴は勘違いしたようだ。

「ほぉ? 陛下に抱かれるという自信がおありで? たとえ天地がひっくり返ろうとも、あなたは処女おとめのままですよ。ご存じですよね。あまりにも渡りのない妃嬪は、後宮から追い出されることもある、と。わびしく尼寺で一生を過ごすことになるのですよ」

 呉正鳴の言葉は、まるで氷柱つららだ。
 軒から槍のように、連なって下がる氷柱。冷たくて、尖って。繊細で弱い蔡昭媛の心を、ぐさぐさと刺してくる。

雪雪シュエシュエさまを、追い詰めるのはおやめください」

 見るに見かねたのだろう。
 侍女の范敬ファンジンが、呉正鳴ウージョンミンを諫める。
 だが、そんな状況もまた呉正鳴は気に入らないようだ。片方の眉を上げた。

「侍女に代弁させずに、ご自身で私に言えばどうですか?」

 そんなことはできない。
 蔡昭媛は首をふる。

 帝の妃嬪になるために教育されてきた。殿方に意見するような、生意気な女になってはならぬ。従順であれ。殿方を立てろ。
 蔡昭媛が子供の頃から叩きこまれてきたのは、舞や楽。そして相手に対して「すばらしいですね」「さすがです」と、同調する言葉ばかり。

 女性は男性に従っていればいい。年長者の言うことを聞けばいい。

 呉正鳴は、宦官とはいえ元は男性だ。しかも蔡昭媛よりも年上なのだ。
 身分は確かに自分の方が上だ。それでも反抗はできない。

(もう帰って。もう来ないで。わたくしを責めないで。わたくしを虐めないで)

 口にはできぬ拒絶が、頭の中で渦巻いている。

 うるさい思考に溺れてしまいそうだ。蔡昭媛の口からは、ほとんど声は発せられないのに。
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