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四章 猛毒草
2、寝台の宦官
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翠鈴が後宮を空けていたのは、十日ほどであった。
その間に、事件は起こっていた。
具合の悪くなった宦官が、医局に運び込まれていたのだ。
「失礼します」
ある日の午後。蘭淑妃に頼まれて、医局に顔を出した翠鈴だったが。医師も医官も慌ただしく立ち働いている。
医局の戸も窗も、すべて開いてあるが。それでも饐えた臭いが、風の通らぬ部屋の隅に残っている。
「翠鈴姐。すみません、桃莉公主のお薬はまだできていないんです」
「忙しそうね」
「はい」
問いかける翠鈴に、胡玲が申し訳なさそうに肩を落とす。
見れば、奥の寝台に横たわっている人がいる。
宦官だ。二十代半ばだろうが、ぐったりとしている。
「閨房渡りの記録をなさっている方です。急に具合が悪くなったそうで」
閨房渡りとは、帝が夜に皇后、そして妃嬪やそれ以下の側室の宮を訪れることだ。
つまり何月何日に、どの妃嬪を抱いたかを書き残すのが、この宦官の仕事らしい。
「あの、翠鈴姐。調剤をお願いしてもいいですか? 桃莉公主のお薬は、しもやけ用ですよね」
こくりと翠鈴はうなずいた。
翠鈴が出かけている間に、杷京は寒波に見舞われたらしい。
降り積もる雪が、あまりにも楽しくて。桃莉公主は、雪遊びに勤しんでいたそうだ。
確かに翠鈴が未央宮に戻って来たときに、雪の玉がずらりと回廊に並べられていた。大半は溶けかけていたけれど。
小さな手で雪玉を握る桃莉公主は、きっと真剣だったのだろう。母親である蘭淑妃や侍女が止めても、聞かなかったにちがいない。
そのせいで、桃莉公主の両手の指と足の指がしもやけになってしまったわけだ。
「わたしは医官じゃないけど。勝手に薬草の棚を触ってもいいの?」
「むしろお願いします。翠鈴姐には、医局で勤めてきただきたいくらいなんですから」
医官である胡玲と翠鈴の薬の知識は同等だ。毒に関しては、むしろ翠鈴のほうが詳しい。
「しもやけは、桂皮と呉茱萸と細辛。それから芍薬と当帰ね」
桂皮は香辛料ではニッキとも呼ばれる。呉茱萸は蜜柑の種類でもある小さな実を乾燥させたもの。細辛は、痺れるような辛さのある細い根で、これらは体を温めてくれる。
当帰はセリの仲間で『神農本草経』という薬草の本では、中品に分類されている。
神農は炎帝神農とも称される、薬の神さまだ。
自らの体を使って草木の薬効を調べ。毒にあたると、薬草でよみがえった。神農のおかげで人々は救われたという。
「当帰は、よく使われる生薬だけれど。セリの仲間だし、中品だものね。扱いには気をつけないと」
使いすぎぬよう。量が多すぎぬよう。とくに桃莉公主は体も小さいのだから、細心の注意が必要だ。
――上品は無毒で、長期にわたり服用が可能だ。つまり、よい薬だな。中品は比較的よい薬。適切に用いれば有効だが、誤用すれば毒になる。下品は毒性が強いので、薬としては長期服用はできない。
父の教えが、翠鈴の頭をよぎった。
翠鈴は父から薬のことを教えられた。姉の明玉も共に学んでいたが。姉は年頃というのもあったのだろう。勉強には身が入らずに、おしゃれや男性のことに興味が行きがちだった。
(とくに下品には、毒そのものである植物も多い。こんな風に医局で生薬に触れるのは、よほど信頼されているのだから。間違いのないようにしないと)
たかだ司燈の宮女が、生薬の棚の引き出しを開けるなど、決して認められないことだ。
これは自分だけの力ではない。胡玲に対する、医者や医官の信頼が厚いからこそなのだと翠鈴は感じた。
薬研で薬を挽くと、独特の渋みやえぐみを感じるにおいが漂った。
寝台で横になっている宦官が咳きこんだ。
いけない。薬のにおいがきつかったか。窗から入る風の流れが変わったことに気づき、翠鈴は場所を変えた。
「なんで……なんで…」
苦しそうにうめきながら、その宦官は両腕を振りあげた。
拳で木の寝台をバシバシと叩く。そのたびに、みしりと寝台が悲鳴をあげた。
医官たちが集まって、宦官に「大丈夫ですか」と声をかけている。
宦官は、ただ呻くだけだ。
(感染症? それとも食中毒。それにしては、隔離していないわね)
気にはなるが。翠鈴は部外者なので、忙しそうな医官たちに尋ねることもできない。
桃莉公主の薬ができた翠鈴は、医局を辞した。
「翠鈴姐。すみません。すべてお願いしてしまって」
「いいのよ。難しい調合じゃないし」
医局の外まで、胡玲が見送ってくれる。
ふと、何かを思い出したように胡玲が両手の甲を掲げた。
「肌荒れが治ったんです。この間、翠鈴姐にいただいた湯華を使ったら。ほら、つるつるです」
たしかに、胡玲の肌は以前のようにかさついていない。
「ほんとね」
翠鈴は胡玲の頬を撫でた。
柔らかさと張りのある肌だ。杷京は寒さが厳しかったと聞くのに。まるで湯上りのようだ。
「ツ、翠鈴姐っ」
「あ、ごめん。つい」
年頃の女性の頬を撫でるのは、さすがにやりすぎだ。
翠鈴は笑ってごまかした。
その間に、事件は起こっていた。
具合の悪くなった宦官が、医局に運び込まれていたのだ。
「失礼します」
ある日の午後。蘭淑妃に頼まれて、医局に顔を出した翠鈴だったが。医師も医官も慌ただしく立ち働いている。
医局の戸も窗も、すべて開いてあるが。それでも饐えた臭いが、風の通らぬ部屋の隅に残っている。
「翠鈴姐。すみません、桃莉公主のお薬はまだできていないんです」
「忙しそうね」
「はい」
問いかける翠鈴に、胡玲が申し訳なさそうに肩を落とす。
見れば、奥の寝台に横たわっている人がいる。
宦官だ。二十代半ばだろうが、ぐったりとしている。
「閨房渡りの記録をなさっている方です。急に具合が悪くなったそうで」
閨房渡りとは、帝が夜に皇后、そして妃嬪やそれ以下の側室の宮を訪れることだ。
つまり何月何日に、どの妃嬪を抱いたかを書き残すのが、この宦官の仕事らしい。
「あの、翠鈴姐。調剤をお願いしてもいいですか? 桃莉公主のお薬は、しもやけ用ですよね」
こくりと翠鈴はうなずいた。
翠鈴が出かけている間に、杷京は寒波に見舞われたらしい。
降り積もる雪が、あまりにも楽しくて。桃莉公主は、雪遊びに勤しんでいたそうだ。
確かに翠鈴が未央宮に戻って来たときに、雪の玉がずらりと回廊に並べられていた。大半は溶けかけていたけれど。
小さな手で雪玉を握る桃莉公主は、きっと真剣だったのだろう。母親である蘭淑妃や侍女が止めても、聞かなかったにちがいない。
そのせいで、桃莉公主の両手の指と足の指がしもやけになってしまったわけだ。
「わたしは医官じゃないけど。勝手に薬草の棚を触ってもいいの?」
「むしろお願いします。翠鈴姐には、医局で勤めてきただきたいくらいなんですから」
医官である胡玲と翠鈴の薬の知識は同等だ。毒に関しては、むしろ翠鈴のほうが詳しい。
「しもやけは、桂皮と呉茱萸と細辛。それから芍薬と当帰ね」
桂皮は香辛料ではニッキとも呼ばれる。呉茱萸は蜜柑の種類でもある小さな実を乾燥させたもの。細辛は、痺れるような辛さのある細い根で、これらは体を温めてくれる。
当帰はセリの仲間で『神農本草経』という薬草の本では、中品に分類されている。
神農は炎帝神農とも称される、薬の神さまだ。
自らの体を使って草木の薬効を調べ。毒にあたると、薬草でよみがえった。神農のおかげで人々は救われたという。
「当帰は、よく使われる生薬だけれど。セリの仲間だし、中品だものね。扱いには気をつけないと」
使いすぎぬよう。量が多すぎぬよう。とくに桃莉公主は体も小さいのだから、細心の注意が必要だ。
――上品は無毒で、長期にわたり服用が可能だ。つまり、よい薬だな。中品は比較的よい薬。適切に用いれば有効だが、誤用すれば毒になる。下品は毒性が強いので、薬としては長期服用はできない。
父の教えが、翠鈴の頭をよぎった。
翠鈴は父から薬のことを教えられた。姉の明玉も共に学んでいたが。姉は年頃というのもあったのだろう。勉強には身が入らずに、おしゃれや男性のことに興味が行きがちだった。
(とくに下品には、毒そのものである植物も多い。こんな風に医局で生薬に触れるのは、よほど信頼されているのだから。間違いのないようにしないと)
たかだ司燈の宮女が、生薬の棚の引き出しを開けるなど、決して認められないことだ。
これは自分だけの力ではない。胡玲に対する、医者や医官の信頼が厚いからこそなのだと翠鈴は感じた。
薬研で薬を挽くと、独特の渋みやえぐみを感じるにおいが漂った。
寝台で横になっている宦官が咳きこんだ。
いけない。薬のにおいがきつかったか。窗から入る風の流れが変わったことに気づき、翠鈴は場所を変えた。
「なんで……なんで…」
苦しそうにうめきながら、その宦官は両腕を振りあげた。
拳で木の寝台をバシバシと叩く。そのたびに、みしりと寝台が悲鳴をあげた。
医官たちが集まって、宦官に「大丈夫ですか」と声をかけている。
宦官は、ただ呻くだけだ。
(感染症? それとも食中毒。それにしては、隔離していないわね)
気にはなるが。翠鈴は部外者なので、忙しそうな医官たちに尋ねることもできない。
桃莉公主の薬ができた翠鈴は、医局を辞した。
「翠鈴姐。すみません。すべてお願いしてしまって」
「いいのよ。難しい調合じゃないし」
医局の外まで、胡玲が見送ってくれる。
ふと、何かを思い出したように胡玲が両手の甲を掲げた。
「肌荒れが治ったんです。この間、翠鈴姐にいただいた湯華を使ったら。ほら、つるつるです」
たしかに、胡玲の肌は以前のようにかさついていない。
「ほんとね」
翠鈴は胡玲の頬を撫でた。
柔らかさと張りのある肌だ。杷京は寒さが厳しかったと聞くのに。まるで湯上りのようだ。
「ツ、翠鈴姐っ」
「あ、ごめん。つい」
年頃の女性の頬を撫でるのは、さすがにやりすぎだ。
翠鈴は笑ってごまかした。
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