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四章 猛毒草
16、水に降る雪
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蔡昭媛は後宮を去ることになった。
まずは実家に戻り、その後は尼寺に入るとのことだ。永仁宮の侍女たちも、後宮に残ることはない。
九嬪であるというのに、見送りの者はいない。
ただ翠鈴と光柳、雲嵐がいるのみだ。
「お世話になりました」
蔡昭媛は永仁宮の門で頭を下げた。
「わたくしは、最初に入内した日以来、陛下を間近でお目にかかったことがございません」
遠い目をして、蔡昭媛が後宮を見遣る。
壮麗な殿舎が立ち並び、先端が反り返った屋根は神々しく朝陽に輝いている。
不思議なもので、後宮から出ていくことが決まってからのほうが、蔡昭媛は元気そうだ。
胃の辺りを手で押さえることもない。
「もう必要ないかもしれませんが。これをどうぞ」
翠鈴は胃痛に効く安中散加茯苓の入った包みを手渡した。
精神的な重圧や、悩みからくる胃痛に効く薬だ。
「ありがとうございます」と礼を告げながら、蔡昭媛は受けとった。発する声も、以前よりも力がある。
「この何年間もずっと幻の中で暮らしていたように思えます」
ふと、蔡昭媛は背後の門をふり返った。
もう二度と入ることのない永仁宮を、じっと見つめている。
「どうかなさいましたか?」
翠鈴が問いかける。
蔡昭媛は静かに首を振った。
「『雪雪さま』と、声が聞こえたような気がしました」
それが亡くなった范敬の声なのか。二度と会うことのない呉正鳴の声なのか。説明はなかった。
「あなたが入門なさる寺は、とても静かな庵です。ご住職が、線香の代わりに花を供えておられるので。心安らかに過ごすことができるでしょう」
光柳は一歩前に進んで、蔡昭媛に声をかけた。
彼女にその寺を勧めたのは、光柳だった。
もしかすると、光柳を通しての陛下の意向なのかもしれないが。それを訊くのは憚られた。
最後の最後まで、放っておかれた蔡昭媛なのだ。後宮を出ると決定してから、初めて帝が関わるなど。誰も納得できないだろう。
「わたくしは後宮に向いておりませんでした。蔡家の隆盛も、昔のことですし。もしもの話ですが。陛下の寵を受けて、御子が生まれていたとしても。わたくしはその子を守ることができません」
もしかしたら存在していたかもしれない子を、不幸にせずに済んだのかもしれません、と蔡昭媛は寂しく微笑んだ。
「あなたはもう自由ですよ」
「はい」
今日も風花が舞っている。
蔡雪雪に戻った女性を、寿ぐように。
何度もふり返っては、頭を下げて去っていく蔡雪雪を光柳は見送っていた。
先日、湯泉宮を訪れるために後宮を出た光柳は、またここに帰って来た。
もう二度と後宮に戻らない気持ちは、いっそ清々しいのだろうかと考えているのかもしれない。
◇◇◇
「ツイリン。ほら、雪。雪がふってきたよ」
未央宮に戻った翠鈴を、桃莉公主が庭で迎えてくれた。
「つもるかなぁ。タオリィね、もういっかい雪玉をつくるの。たくさんつくるの」
「手と足は、もう大丈夫ですか?」
翠鈴の問いかけに、桃莉公主は明るい笑顔を見せる。
「うん。ちょっとかゆいけど。へいきだよ。タオリィはつよいもん」
「そうですね。お強いですよね」
革の手覆をはめた両手で、桃莉公主が翠鈴の腰にしがみつく。
雪は降る。
音もなく、庭に置かれた水鉢に落ちては消えていく。
「水に降る雪は、はかないですね」
寄る辺のない蔡昭媛にとっては、後宮は夢であり幻であった。
桃莉公主や蘭淑妃にとっての後宮は、現実だ。地に足のついた、日常だ。
同じ場所なのに。たったひとりに強く愛されるか、興味を抱かれないかで、こんなにも違いが出てしまう。
人生そのものが狂うほどに。
「ツイリン? どうしたの? げんきない?」
しがみついたままで、桃莉公主が見あげてくる。
「いいえ。大丈夫ですよ」
もし自分が後宮を去ることになれば、と翠鈴は考えた。
その時は、蔡昭媛よりも宮女である自分のほうが、思い出が多いのだろう。
目が熱くなる。
この気持ちはなんなのだろう。
哀れで寂しい蔡昭媛への同情なのか。あるいは共感なのか。感情の整理がつかない。
「ねぇねぇ。雪であそぼ」
屈託のない桃莉公主の笑顔に、雪がひとひらこぼれた。
まずは実家に戻り、その後は尼寺に入るとのことだ。永仁宮の侍女たちも、後宮に残ることはない。
九嬪であるというのに、見送りの者はいない。
ただ翠鈴と光柳、雲嵐がいるのみだ。
「お世話になりました」
蔡昭媛は永仁宮の門で頭を下げた。
「わたくしは、最初に入内した日以来、陛下を間近でお目にかかったことがございません」
遠い目をして、蔡昭媛が後宮を見遣る。
壮麗な殿舎が立ち並び、先端が反り返った屋根は神々しく朝陽に輝いている。
不思議なもので、後宮から出ていくことが決まってからのほうが、蔡昭媛は元気そうだ。
胃の辺りを手で押さえることもない。
「もう必要ないかもしれませんが。これをどうぞ」
翠鈴は胃痛に効く安中散加茯苓の入った包みを手渡した。
精神的な重圧や、悩みからくる胃痛に効く薬だ。
「ありがとうございます」と礼を告げながら、蔡昭媛は受けとった。発する声も、以前よりも力がある。
「この何年間もずっと幻の中で暮らしていたように思えます」
ふと、蔡昭媛は背後の門をふり返った。
もう二度と入ることのない永仁宮を、じっと見つめている。
「どうかなさいましたか?」
翠鈴が問いかける。
蔡昭媛は静かに首を振った。
「『雪雪さま』と、声が聞こえたような気がしました」
それが亡くなった范敬の声なのか。二度と会うことのない呉正鳴の声なのか。説明はなかった。
「あなたが入門なさる寺は、とても静かな庵です。ご住職が、線香の代わりに花を供えておられるので。心安らかに過ごすことができるでしょう」
光柳は一歩前に進んで、蔡昭媛に声をかけた。
彼女にその寺を勧めたのは、光柳だった。
もしかすると、光柳を通しての陛下の意向なのかもしれないが。それを訊くのは憚られた。
最後の最後まで、放っておかれた蔡昭媛なのだ。後宮を出ると決定してから、初めて帝が関わるなど。誰も納得できないだろう。
「わたくしは後宮に向いておりませんでした。蔡家の隆盛も、昔のことですし。もしもの話ですが。陛下の寵を受けて、御子が生まれていたとしても。わたくしはその子を守ることができません」
もしかしたら存在していたかもしれない子を、不幸にせずに済んだのかもしれません、と蔡昭媛は寂しく微笑んだ。
「あなたはもう自由ですよ」
「はい」
今日も風花が舞っている。
蔡雪雪に戻った女性を、寿ぐように。
何度もふり返っては、頭を下げて去っていく蔡雪雪を光柳は見送っていた。
先日、湯泉宮を訪れるために後宮を出た光柳は、またここに帰って来た。
もう二度と後宮に戻らない気持ちは、いっそ清々しいのだろうかと考えているのかもしれない。
◇◇◇
「ツイリン。ほら、雪。雪がふってきたよ」
未央宮に戻った翠鈴を、桃莉公主が庭で迎えてくれた。
「つもるかなぁ。タオリィね、もういっかい雪玉をつくるの。たくさんつくるの」
「手と足は、もう大丈夫ですか?」
翠鈴の問いかけに、桃莉公主は明るい笑顔を見せる。
「うん。ちょっとかゆいけど。へいきだよ。タオリィはつよいもん」
「そうですね。お強いですよね」
革の手覆をはめた両手で、桃莉公主が翠鈴の腰にしがみつく。
雪は降る。
音もなく、庭に置かれた水鉢に落ちては消えていく。
「水に降る雪は、はかないですね」
寄る辺のない蔡昭媛にとっては、後宮は夢であり幻であった。
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同じ場所なのに。たったひとりに強く愛されるか、興味を抱かれないかで、こんなにも違いが出てしまう。
人生そのものが狂うほどに。
「ツイリン? どうしたの? げんきない?」
しがみついたままで、桃莉公主が見あげてくる。
「いいえ。大丈夫ですよ」
もし自分が後宮を去ることになれば、と翠鈴は考えた。
その時は、蔡昭媛よりも宮女である自分のほうが、思い出が多いのだろう。
目が熱くなる。
この気持ちはなんなのだろう。
哀れで寂しい蔡昭媛への同情なのか。あるいは共感なのか。感情の整理がつかない。
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