51 / 171
五章 女炎帝
2、光柳の受難【1】
しおりを挟む
十代前半の光柳は、まだ世間知らずであった。
浮世からはなれた、離宮暮らしが長かったせいだろう。
多感な時期に側にいるのが母や侍女、雲嵐という限られた人間だったのもよくなかったのかもしれない。
おそらくは清らかすぎたのだ。
誰も、光柳を故意に傷つけない。悪意を向けない。
ただひとり、嫉妬と憎悪の塊である先帝の弟を除いては。
清浄な環境で育つのが、悪いわけではない。ただ、世の中は清いものを、そっとしておいてはくれない。
守ってくれる人がいなくなれば、無垢な魂はすぐに踏みつぶされる。
(だからこそ私が、光柳さまの護衛として選ばれたのだ)
何でも話せる友であり、しもべでもある。兄弟のように育った雲嵐こそが、光柳を支えられる。
その責任の重さは、雲嵐にとっては誇りでもある。
宿舎の別棟で暮らしはじめて、事件はすぐに起こった。
まず、光柳の服が消えた。
盗まれたわけではない。ずいぶんと経ってから、元の箪笥の引き出しに服は戻っていたのだから。
「ねぇ、雲嵐。なんでぼくの……えっと私の服は、洗濯から戻るのがこんなにも遅いのかな」
雲嵐の服の袖を引っぱりながら、まだ若かった光柳は不安そうな表情を浮かべた。
「不思議ですね。私のは早くに戻りますよ」
「ぼ……私は、もしかして嫌われてるのかな」
「それはないでしょう」
今からでは考えられないが。当時の光柳は、後宮内のどこを歩いてもじろじろと見られるので、相当に参っていた。
常に視線を感じるのだ。
たしかに民族の違う雲嵐も、不躾な視線を投げられることはある。けれど、光柳に対しては視線が追いかけてくるのだ。どこまでも。
「丁寧に洗ってくれているんじゃないですか」
自分で口にしながら「そんな訳はないよな」と、雲嵐は訝しんだ。
離宮にいた頃に毬で遊んでいた子供の頃ならともかく。賢い光柳が、後宮で服を土や泥で汚すわけがない。洗濯に手間がかかるとは思えない。
うーん、と雲嵐と光柳は腕を組んで唸った。
休日に、光柳と雲嵐は、洗濯に出した服がどう扱われているのかを探ることにした。
そして見つけてしまったのだ。
井戸の側で、宮女が頭から布をかぶっているのを。
側には洗濯物の入った桶が置かれている。
地面にひざまずいて、宮女は身動きもしない。
建物の陰から覗いていた光柳と雲嵐は、凍りついてしまった。
「ねぇ、あの布。ぼくの服だよ」
「そのようですね」
「どうしよう。あれって、拷問だよね。これから拷問されるんだよね」
光柳の声は震えている。
顔にかけた布に水をかける。あるいは、布を口の中に突っ込んで、水を注ぎ続ける。
どちらも簡単に窒息する。
どうしようと言われても。本当に水責めであるのなら、雲嵐に止める権限はない。
「でも……こんな場所で拷問なんて行うのでしょうか」
宮女は拘束もされていない。では、自殺だろうか。
だが、手が自由だから。窒息しかけて苦しくなれば、顔にかけた布をはぎ取ってしまうだろう。
「あー、たまらないっ。本当にかぐわしいわぁ」
布の下から、くぐもった声が聞こえてきた。
「後宮勤めなんてって、渋っていたけど。来てよかったわぁ。なんていい匂いなの」
光柳と雲嵐は、顔を見あわせた。
――もしかして、ぼくの服をかいでいるの?
――そのようでございますね。
――何のために?
――分かりかねますが。たぶん、香とかの感覚ではないですか?
――ぼく、香木じゃないよ!
この時、初めてふたりは声をほとんど出さずに会話をする術を会得した。
――あのひと、変態なの?
そうだと思いたい。たぶん、おかしなことをするのは、あの宮女ひとりだけだと。
だが、雲嵐の願望は簡単に砕け散った。
浮世からはなれた、離宮暮らしが長かったせいだろう。
多感な時期に側にいるのが母や侍女、雲嵐という限られた人間だったのもよくなかったのかもしれない。
おそらくは清らかすぎたのだ。
誰も、光柳を故意に傷つけない。悪意を向けない。
ただひとり、嫉妬と憎悪の塊である先帝の弟を除いては。
清浄な環境で育つのが、悪いわけではない。ただ、世の中は清いものを、そっとしておいてはくれない。
守ってくれる人がいなくなれば、無垢な魂はすぐに踏みつぶされる。
(だからこそ私が、光柳さまの護衛として選ばれたのだ)
何でも話せる友であり、しもべでもある。兄弟のように育った雲嵐こそが、光柳を支えられる。
その責任の重さは、雲嵐にとっては誇りでもある。
宿舎の別棟で暮らしはじめて、事件はすぐに起こった。
まず、光柳の服が消えた。
盗まれたわけではない。ずいぶんと経ってから、元の箪笥の引き出しに服は戻っていたのだから。
「ねぇ、雲嵐。なんでぼくの……えっと私の服は、洗濯から戻るのがこんなにも遅いのかな」
雲嵐の服の袖を引っぱりながら、まだ若かった光柳は不安そうな表情を浮かべた。
「不思議ですね。私のは早くに戻りますよ」
「ぼ……私は、もしかして嫌われてるのかな」
「それはないでしょう」
今からでは考えられないが。当時の光柳は、後宮内のどこを歩いてもじろじろと見られるので、相当に参っていた。
常に視線を感じるのだ。
たしかに民族の違う雲嵐も、不躾な視線を投げられることはある。けれど、光柳に対しては視線が追いかけてくるのだ。どこまでも。
「丁寧に洗ってくれているんじゃないですか」
自分で口にしながら「そんな訳はないよな」と、雲嵐は訝しんだ。
離宮にいた頃に毬で遊んでいた子供の頃ならともかく。賢い光柳が、後宮で服を土や泥で汚すわけがない。洗濯に手間がかかるとは思えない。
うーん、と雲嵐と光柳は腕を組んで唸った。
休日に、光柳と雲嵐は、洗濯に出した服がどう扱われているのかを探ることにした。
そして見つけてしまったのだ。
井戸の側で、宮女が頭から布をかぶっているのを。
側には洗濯物の入った桶が置かれている。
地面にひざまずいて、宮女は身動きもしない。
建物の陰から覗いていた光柳と雲嵐は、凍りついてしまった。
「ねぇ、あの布。ぼくの服だよ」
「そのようですね」
「どうしよう。あれって、拷問だよね。これから拷問されるんだよね」
光柳の声は震えている。
顔にかけた布に水をかける。あるいは、布を口の中に突っ込んで、水を注ぎ続ける。
どちらも簡単に窒息する。
どうしようと言われても。本当に水責めであるのなら、雲嵐に止める権限はない。
「でも……こんな場所で拷問なんて行うのでしょうか」
宮女は拘束もされていない。では、自殺だろうか。
だが、手が自由だから。窒息しかけて苦しくなれば、顔にかけた布をはぎ取ってしまうだろう。
「あー、たまらないっ。本当にかぐわしいわぁ」
布の下から、くぐもった声が聞こえてきた。
「後宮勤めなんてって、渋っていたけど。来てよかったわぁ。なんていい匂いなの」
光柳と雲嵐は、顔を見あわせた。
――もしかして、ぼくの服をかいでいるの?
――そのようでございますね。
――何のために?
――分かりかねますが。たぶん、香とかの感覚ではないですか?
――ぼく、香木じゃないよ!
この時、初めてふたりは声をほとんど出さずに会話をする術を会得した。
――あのひと、変態なの?
そうだと思いたい。たぶん、おかしなことをするのは、あの宮女ひとりだけだと。
だが、雲嵐の願望は簡単に砕け散った。
35
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。