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五章 女炎帝
3、光柳の受難【2】
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さすがに洗濯が遅いと生活に支障が出る。
光柳の暮らしを管理している宦官は、宮女を変更させた。
「これで暮らしも改善されますよ」
「よかったぁ」
「もう安心ですね。光柳さま」
年嵩の宦官の言葉に、ほっとしたふたりは、歓声をあげた。
この宦官は、光柳が陛下と麟美の息子であると知っている。
書令史見習いと、身分の低い主に仕える護衛という、いびつなふたりに優しくしてくれた。
だが、次にやってきた宮女は想像の斜め上をいっていた。
日に日に、光柳の食欲が落ちていったのだ。
この別棟には、小さな厨房がある。雲嵐はそこで湯を沸かし、光柳のために茶を淹れる。
新杷国になる以前の杷国では、厨房が分けられていた。
皇后の料理を作って宮まで運ぶ御膳房。そして妃嬪のための膳房。それ以外の侍女や女官、宮女の食堂だ。宦官も別の食堂を使っていた。
妃嬪の料理は、尚膳監の女官が調理を担当する。尚食局の女官が料理が安全かどうかを確認して、配膳までをこなす。
それでも、旧い杷国では毒が盛られすぎた。
何人もの毒見役が命を落としたのだ。
他にも、料理をそれぞれの宮まで運ぶ間に冷めきってしまう。冬のひときわ寒い日には、料理が凍ってしまうこともあるほどだ。
新杷国と国名を改め、制度を変えたのは先代の皇帝だ。
奴隷制を廃止し、異民族も官吏に登用されるようになった。
妃嬪、側室に関しては、皇后と同じようにそれぞれの宮で調理したものが供される。これにより、厨房の隅々にまで目が行き届くようになった。
絶対に安全という訳ではないが。料理の毒で命を落とす毒見役は、格段に減った。
「光柳さま。女官の料理がお口に合いませんか?」
もともと光柳は偏食だ。そして食も細い。
雲嵐に問われた光柳は、首を振った。
卓子の上には、手つかずの夕食が並んでいる。
「手づかみでいいなら、食べるよ」
「どういうことですか?」
草原の天幕で暮らしていた頃の雲嵐は、塩ゆでした羊肉や薄く焼いた雑穀の餅を、手で掴んで食べていたが。
さすがに離宮で暮らすようになってからは、箸や匙を使うようになった。
光柳は、手づかみで食事をするなど経験したこともないのに。
「いただきます」
光柳は、炒めた青菜を手でつまんだ。油と醤油がぽたぽたと垂れる。それが収まるのを待ってから、口に運ぶ。
「あの? 光柳さま?」
「食べないと元気になれないから」
ほろりと崩れる肉の入った羹も、碗に口をつけて飲んだ。匙も使わずに。
母親の麟美が亡くなったとき。光柳は何も受けつけなくなってしまった。
部屋の片隅で膝を抱えて、一日が過ぎるのをただ待つ。
無理もない。たったひとりの家族がいなくなってしまったのだから。
雲嵐が心配して、匙で粥を与えたことで、光柳は衰弱せずに済んだ。
あまりにも繊細で、感性が鋭いから。
――たまご、すきじゃない。
少しでも栄養をと思って、玉子を入れた粥を食べさせ続けて十日後。光柳は、文句を言った。
文句を言ってくれたのだ。
宮女が変更になり、しばらく過ぎたある日。
お茶を淹れようと厨房に入った雲嵐は、異変に気付いた。
洗い終えた食器が、布巾の上に伏せて乾かしてあるのだが。何かが足りない。
光柳と雲嵐、ふたりぶんの食器。なのに、箸が一膳ぶんしかないのだ。
「え? また?」
雲嵐は、自分の口から発した言葉に驚いた。
また、と言ったのだ。
「どうしたの、雲嵐」
「いえ。何でもないですよ。すぐにお湯を沸かしますね。茶葉は何にしますか?」
雲嵐に問われて、厨房に入って来た光柳は顔を輝かせた。
「清茶がいい。あんまり発酵してないし、甘い花のような香りがするから」
「緑茶に似たお茶ですね。でも、もっと香りがいいんですよね」
光柳のお茶を淹れるようになってから、雲嵐もお茶について詳しくなった。
菓子は何がいいだろうか、と雲嵐が考えていた時だった。
カタン、と厨房で音がしたのだ。
「ちょっと見てくる」
光柳は、厨房の奥に進んだ。
穀物や乾物が置いてある小部屋だ。光は射さず、漬物などの保存にちょうどいい。
「ひっ」と、光柳の引きつった声が聞こえた。
光柳の暮らしを管理している宦官は、宮女を変更させた。
「これで暮らしも改善されますよ」
「よかったぁ」
「もう安心ですね。光柳さま」
年嵩の宦官の言葉に、ほっとしたふたりは、歓声をあげた。
この宦官は、光柳が陛下と麟美の息子であると知っている。
書令史見習いと、身分の低い主に仕える護衛という、いびつなふたりに優しくしてくれた。
だが、次にやってきた宮女は想像の斜め上をいっていた。
日に日に、光柳の食欲が落ちていったのだ。
この別棟には、小さな厨房がある。雲嵐はそこで湯を沸かし、光柳のために茶を淹れる。
新杷国になる以前の杷国では、厨房が分けられていた。
皇后の料理を作って宮まで運ぶ御膳房。そして妃嬪のための膳房。それ以外の侍女や女官、宮女の食堂だ。宦官も別の食堂を使っていた。
妃嬪の料理は、尚膳監の女官が調理を担当する。尚食局の女官が料理が安全かどうかを確認して、配膳までをこなす。
それでも、旧い杷国では毒が盛られすぎた。
何人もの毒見役が命を落としたのだ。
他にも、料理をそれぞれの宮まで運ぶ間に冷めきってしまう。冬のひときわ寒い日には、料理が凍ってしまうこともあるほどだ。
新杷国と国名を改め、制度を変えたのは先代の皇帝だ。
奴隷制を廃止し、異民族も官吏に登用されるようになった。
妃嬪、側室に関しては、皇后と同じようにそれぞれの宮で調理したものが供される。これにより、厨房の隅々にまで目が行き届くようになった。
絶対に安全という訳ではないが。料理の毒で命を落とす毒見役は、格段に減った。
「光柳さま。女官の料理がお口に合いませんか?」
もともと光柳は偏食だ。そして食も細い。
雲嵐に問われた光柳は、首を振った。
卓子の上には、手つかずの夕食が並んでいる。
「手づかみでいいなら、食べるよ」
「どういうことですか?」
草原の天幕で暮らしていた頃の雲嵐は、塩ゆでした羊肉や薄く焼いた雑穀の餅を、手で掴んで食べていたが。
さすがに離宮で暮らすようになってからは、箸や匙を使うようになった。
光柳は、手づかみで食事をするなど経験したこともないのに。
「いただきます」
光柳は、炒めた青菜を手でつまんだ。油と醤油がぽたぽたと垂れる。それが収まるのを待ってから、口に運ぶ。
「あの? 光柳さま?」
「食べないと元気になれないから」
ほろりと崩れる肉の入った羹も、碗に口をつけて飲んだ。匙も使わずに。
母親の麟美が亡くなったとき。光柳は何も受けつけなくなってしまった。
部屋の片隅で膝を抱えて、一日が過ぎるのをただ待つ。
無理もない。たったひとりの家族がいなくなってしまったのだから。
雲嵐が心配して、匙で粥を与えたことで、光柳は衰弱せずに済んだ。
あまりにも繊細で、感性が鋭いから。
――たまご、すきじゃない。
少しでも栄養をと思って、玉子を入れた粥を食べさせ続けて十日後。光柳は、文句を言った。
文句を言ってくれたのだ。
宮女が変更になり、しばらく過ぎたある日。
お茶を淹れようと厨房に入った雲嵐は、異変に気付いた。
洗い終えた食器が、布巾の上に伏せて乾かしてあるのだが。何かが足りない。
光柳と雲嵐、ふたりぶんの食器。なのに、箸が一膳ぶんしかないのだ。
「え? また?」
雲嵐は、自分の口から発した言葉に驚いた。
また、と言ったのだ。
「どうしたの、雲嵐」
「いえ。何でもないですよ。すぐにお湯を沸かしますね。茶葉は何にしますか?」
雲嵐に問われて、厨房に入って来た光柳は顔を輝かせた。
「清茶がいい。あんまり発酵してないし、甘い花のような香りがするから」
「緑茶に似たお茶ですね。でも、もっと香りがいいんですよね」
光柳のお茶を淹れるようになってから、雲嵐もお茶について詳しくなった。
菓子は何がいいだろうか、と雲嵐が考えていた時だった。
カタン、と厨房で音がしたのだ。
「ちょっと見てくる」
光柳は、厨房の奥に進んだ。
穀物や乾物が置いてある小部屋だ。光は射さず、漬物などの保存にちょうどいい。
「ひっ」と、光柳の引きつった声が聞こえた。
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