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六章 出会い
7、蓮の花のひとひら
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「わたくしと桃莉は、よく似ているのよ。人見知りで。むしろわたくしの方が、桃莉よりも泣き虫ね」
蘭淑妃は、恥ずかしそうに頬を染めた。
意外だ。翠鈴は薬を片づける手を止めた。
「淑妃さまは、内気なようにはお見受けしませんが」
「そうね。昔から強かったのではなくて、強くあろうとしたのよ。だってここは後宮ですもの。入内した当時は陛下のことも、皇后陛下のことも怖くてね。あ、これは内緒よ」
紅を引いた唇の前で、蘭淑妃は人さし指を立てた。
蘭淑妃は、幼い頃から屋敷からほとんど出ることもなく、妃になるための教育を受けてきた。
初めての「外」が後宮であったのだ。
「親が決めた相手と結婚するのは、当然と思ってきたけれど。やはり自由な恋愛には憧れていたのね。ああ、そんな殿方はいなかったけれどね」
「恋に恋する感じですか?」
実際のところ、翠鈴は恋愛というものがよく分からない。
姉の仇を討つことだけを目的に、子供の頃から生きてきたからだろうか。
「夢見がちだったのね。だから後宮に入っても、ひとりになれば泣いてばかりだったわ。もちろん侍女たちがいるから、なかなか泣く場所も見つからなかったけれど」
その涙は、実家に帰りたい、家族に会いたい、せめて初恋だけでも経験したかった、といろんな感情が入り乱れていたと淑妃は語った。
蘭淑妃が入内して間もない、夏の早朝。
泣いていた彼女に皇后が声をかけたのだ。
侍女は淑妃が涙を流していることに気づかなかった。なぜなら淑妃は微笑んでいたから。
笑みを絶やさずに、池の蓮を愛でていたから。
「あなた、どうしたの?」
夜明けに咲く蓮を、わざわざ見に来る人はほとんどいない。
緑なす蓮の葉の上では、水晶の珠のような水滴が遊んでいる。淡い桃色の花が咲き誇る蓮の池は、まるで天上の世界のようだ。
だが「どうしたの?」と皇后から問われて、蘭淑妃は凍りついてしまった。
何でもありません。ただ蓮を見ていただけです。それとも、おはようございます? あるいは、お気遣いありがとうございます?
どの言葉を返せば正解なのか、分からない。
だって、突然皇后陛下から心配されることへの対応なんて、誰も教えてくれなかったから。
「泣きながら笑えるなんて、器用なのね。でも、表情と心が離れてしまっているわ。よくない兆候ね」
皇后は侍女に手帕を持っているかと尋ねた。だが、三人付き従っていたそれぞれの侍女が、手帕は使ってしまっていた。
しょうがないわね、と肩をすくめながら。皇后は指先で、淑妃の涙を拭った。
「あ、ありがとうございます」
ようやく発した感謝の言葉は、かすれていた。
蘭淑妃に従っていた侍女頭の梅娜は、今にも卒倒しそうだ。
「誰か恋しい殿方と別れて、入内したの?」
「いいえ、いいえ」
そんな人がいるはずがない。蘭淑妃は男性と関わらないように、育てられてきたのだから。
「そうだわ。これを」
皇后が、侍女から巻物を受けとる。それを蘭淑妃に差しだした。
開いてみると詩がしたためられていた。
『蓮は花の君子 泥の中に婉然と立ち、汚れも知らぬ どうかそのひとひらを ひとひらの花弁を与えたまえ 君が咲き続ける限り 我もまた立つことができる 息をすることができる 恋うることができる』
新しくはないが、上質な竹紙だ。筆跡もたおやかで美しい。
「麟美という方の詩よ。美しい蓮花の園で出会えた記念にさしあげるわ」
麟美。城市で暮らしていた頃は、そのような女流詩人の名は耳にしたことがない。
「申し訳ございません。わたくし、不勉強なもので」
四夫人のくせに、物を知らぬと呆れられるだろうか。
それでも、知ったふりをするのはよくない……と思う。蘭淑妃は、自分の判断に自信が持てなかった。
斜め後ろに立つ梅娜に、蘭淑妃は視線を向けた。
梅娜は、口をぱくぱくと動かしている。おそらくは「著名な方ですよ」と、言っているのだろう。
ああ、どうしよう。後宮で皇后の目の敵にされては、まともに生きてはいけぬ。
蘭淑妃は、握りしめた手が震えた。
蘭淑妃は、恥ずかしそうに頬を染めた。
意外だ。翠鈴は薬を片づける手を止めた。
「淑妃さまは、内気なようにはお見受けしませんが」
「そうね。昔から強かったのではなくて、強くあろうとしたのよ。だってここは後宮ですもの。入内した当時は陛下のことも、皇后陛下のことも怖くてね。あ、これは内緒よ」
紅を引いた唇の前で、蘭淑妃は人さし指を立てた。
蘭淑妃は、幼い頃から屋敷からほとんど出ることもなく、妃になるための教育を受けてきた。
初めての「外」が後宮であったのだ。
「親が決めた相手と結婚するのは、当然と思ってきたけれど。やはり自由な恋愛には憧れていたのね。ああ、そんな殿方はいなかったけれどね」
「恋に恋する感じですか?」
実際のところ、翠鈴は恋愛というものがよく分からない。
姉の仇を討つことだけを目的に、子供の頃から生きてきたからだろうか。
「夢見がちだったのね。だから後宮に入っても、ひとりになれば泣いてばかりだったわ。もちろん侍女たちがいるから、なかなか泣く場所も見つからなかったけれど」
その涙は、実家に帰りたい、家族に会いたい、せめて初恋だけでも経験したかった、といろんな感情が入り乱れていたと淑妃は語った。
蘭淑妃が入内して間もない、夏の早朝。
泣いていた彼女に皇后が声をかけたのだ。
侍女は淑妃が涙を流していることに気づかなかった。なぜなら淑妃は微笑んでいたから。
笑みを絶やさずに、池の蓮を愛でていたから。
「あなた、どうしたの?」
夜明けに咲く蓮を、わざわざ見に来る人はほとんどいない。
緑なす蓮の葉の上では、水晶の珠のような水滴が遊んでいる。淡い桃色の花が咲き誇る蓮の池は、まるで天上の世界のようだ。
だが「どうしたの?」と皇后から問われて、蘭淑妃は凍りついてしまった。
何でもありません。ただ蓮を見ていただけです。それとも、おはようございます? あるいは、お気遣いありがとうございます?
どの言葉を返せば正解なのか、分からない。
だって、突然皇后陛下から心配されることへの対応なんて、誰も教えてくれなかったから。
「泣きながら笑えるなんて、器用なのね。でも、表情と心が離れてしまっているわ。よくない兆候ね」
皇后は侍女に手帕を持っているかと尋ねた。だが、三人付き従っていたそれぞれの侍女が、手帕は使ってしまっていた。
しょうがないわね、と肩をすくめながら。皇后は指先で、淑妃の涙を拭った。
「あ、ありがとうございます」
ようやく発した感謝の言葉は、かすれていた。
蘭淑妃に従っていた侍女頭の梅娜は、今にも卒倒しそうだ。
「誰か恋しい殿方と別れて、入内したの?」
「いいえ、いいえ」
そんな人がいるはずがない。蘭淑妃は男性と関わらないように、育てられてきたのだから。
「そうだわ。これを」
皇后が、侍女から巻物を受けとる。それを蘭淑妃に差しだした。
開いてみると詩がしたためられていた。
『蓮は花の君子 泥の中に婉然と立ち、汚れも知らぬ どうかそのひとひらを ひとひらの花弁を与えたまえ 君が咲き続ける限り 我もまた立つことができる 息をすることができる 恋うることができる』
新しくはないが、上質な竹紙だ。筆跡もたおやかで美しい。
「麟美という方の詩よ。美しい蓮花の園で出会えた記念にさしあげるわ」
麟美。城市で暮らしていた頃は、そのような女流詩人の名は耳にしたことがない。
「申し訳ございません。わたくし、不勉強なもので」
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それでも、知ったふりをするのはよくない……と思う。蘭淑妃は、自分の判断に自信が持てなかった。
斜め後ろに立つ梅娜に、蘭淑妃は視線を向けた。
梅娜は、口をぱくぱくと動かしている。おそらくは「著名な方ですよ」と、言っているのだろう。
ああ、どうしよう。後宮で皇后の目の敵にされては、まともに生きてはいけぬ。
蘭淑妃は、握りしめた手が震えた。
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