後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

文字の大きさ
83 / 171
六章 出会い

12、白い石

しおりを挟む
「桃莉さま。お待ちください」

 雲嵐が駆けだした。
 桃莉のつま先が、石畳に引っかかったのだろう。柔らかなくんの裾が、袖が翻る。

 つまずいた瞬間に、桃莉は手を握りしめたようだ。
 とても小さな白い石が、地面にこぼれる。迷子になってもすぐに桃莉の行方をたどれるようにと、翠鈴が持たせたものだ。

「きゃあっ」と桃莉の悲鳴が響いた。
 雲嵐は身を低くして、桃莉の体を持ちあげる。あとほんの数瞬遅れていたら、桃莉は石畳に顔をぶつけていた。

「大丈夫か?」
「大丈夫ですか? 桃莉さま」

 駆け寄った光柳は驚いた。隣に、潔士ジエシィーがいたからだ。
 自分でも気づかぬうちに、走っていたのだろう。潔士は「あっ」と口に手を当てた。

「へいきだよ、クァンリュウ。あのね、ユィンランがたすけてくれたの」

 桃莉は、光柳の側にいる潔士に目を向けた。担がれていた桃莉は、地面に下された。

「ユィンラン。ありがとう」と、桃莉はお礼を告げる。そして、小さな手で裙を払った。
 汚れてはいけないからだろう。

(つい最近まで、泥遊びで盛大に衣を汚していたと聞くが)

 もしここに蘭淑妃や翠鈴がいたら。桃莉の成長を喜んだことだろう。
 後宮から簡単には出られないふたりに、見せてあげたかったと光柳は思った。

「この子のことを、心配して駆けてくださったんですね。ありがとうございます。怪我はありませんよ」

 雲嵐の説明に、潔士ジエシィーがほっと息をつく。
 ふと、桃莉が顔を上げた。前に立っている潔士を、じーっと見つめている。

「えーと、ころんでないよ。へいきだよ?」

 ずいぶんと遅れてではあるが。桃莉が返事したことに、潔士は驚いたように目を見開いた。

「それはよかったですね」

 潔士は柔らかく微笑んだ。
 皇后である伯母に言われたから、しかたなく女装をしてまで桃莉に出会ったであろうに。
 義務感や義理、そういうものを越えた感情が伝わってくる。

「なんでタオリィのなまえ、しってるの?」
「え?」
「ただのタオリィって、いってないよ?」

 桃莉の指摘に、潔士ジエシィーは顔をこわばらせた。

「その……それは」

 声が上ずっている。
 しまった。子供は意外と聡いんだ。

「私たちが、桃莉さまと呼んでいるのが聞こえたのでしょう。きっとこの子は、勉強をよくしているのですね。ほら、異国の言語を学ぶときは耳がよければ、言葉を聞きとりやすいですし。発音もうまくなりますからね」

 適当な言い訳だなぁ、と光柳は思った。
 だが、相手は桃莉だ。すぐに「わぁ、すごいねぇ」と信じたのだ。

(なんだろう……なんだか、桃莉さまを騙すのは心苦しい)

 光柳の隣に立つ潔士も、同じようなことを考えたのかもしれない。肩を落として、瞼を閉じている。

(そうだ)

 考えが閃いた。光柳は、こほんと咳払いをする。たいそうわざとらしいが。

「こちらのお坊ちゃんは、これから訪れるシー家の……いや、施家のことをよくご存じです。ですから桃莉さま。手紙を託してはいかがでしょうか」
「よくごぞんじなの?」

 自分よりも背の高い潔士を、桃莉は見上げる。突然、話をふられた潔士は、条件反射のようにこくこくと頷いた。

「じゃあ。とどけてくれますか」

 遠慮がちに、桃莉は手紙を差しだした。だが、歩いている間に握りつぶしてしまったのだろう。紙はくしゃくしゃになっている。

「どうしよう。おてがみ。いっしょうけんめい、かいたのに」

 桃莉の瞳に涙が浮かぶ。黒い瞳が潤んで、ほろほろと透明な雫がこぼれた。

「だいじなおてがみなのに。ジエホアおねえさま、がっかりしちゃう」
「だ、大丈夫だよ」

 桃莉の目の前に、潔士ジエシィーがしゃがんだ。小さな両肩を、潔士の手が包む。

「手紙をもらった人が、紙を破らないように開いて、読んでくれるよ」
「でも……」
「ぼくが、そう伝えるから。この手紙が大事すぎて、握りしめていたから、しわになりましたって」

 泣きやまない桃莉を、潔士は懸命になだめる。
 光柳と雲嵐は、黙ってふたりを見守っていた。皇后が、自分が可愛がっている蘭淑妃の娘に、この甥を引きあわせた理由が分かったような気がした。

 皇后陛下には、他にも甥がいるはずだ。それでも、潔士でなければならなかったのだろう。

 ◇◇◇

 潔士ジエシィーに手紙を託して(というか本人なのだが)。光柳たちは、馬車へと戻った。
 四人が立ち去った後。道には白い石がこぼれ落ちていた。

 ゆっくりと歩く馬に乗っていた女性が、その背から降りる。
 毛皮の上着であるかわごろもの下から見える服は、冬だというのに粗末な麻だ。

「なんだ。ただの石か。これじゃ売れないわ」

 しゃがみこんで石を拾うが。すぐに女は、ぽいっと放り投げた。
 屋敷の塀にぶつかって、小石は再び地面に落ちる。

「主の子供が迷子にならぬように、石が落ちる仕組みでも考えたのかな。ふーん。私なら、烏桕うきょうの種を使うわね」

 だって、楽しいじゃない。えらそうな主の子供が、毒のある烏桕うきょうを持ち歩くなんて。
 きれいで柔らかな子供のてのひらが、かぶれればいい。ただれればいい。

 女は空を仰いだ。晴れていた空に北から雲が流れてきた。
 太陽の光は雲に隠されて、寒さが増す。

 この辺りは道の左右に、ねずみ色の長い塀が続いている。憎たらしいほどに広大な屋敷が連なっているからだ。
 汚らしい濁った塀と、灰色の雲。

 でも、後宮の赤い塀の向こうに見える空は、もっと華やかだ。

「そういえば。いつだったか、あたしから毒を買った侍女がいたけど。ちゃんと使えたのかしら」

 女は糸のような目を、さらに細くした。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

三回目の人生も「君を愛することはない」と言われたので、今度は私も拒否します

冬野月子
恋愛
「君を愛することは、決してない」 結婚式を挙げたその夜、夫は私にそう告げた。 私には過去二回、別の人生を生きた記憶がある。 そうして毎回同じように言われてきた。 逃げた一回目、我慢した二回目。いずれも上手くいかなかった。 だから今回は。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。