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六章 出会い
12、白い石
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「桃莉さま。お待ちください」
雲嵐が駆けだした。
桃莉のつま先が、石畳に引っかかったのだろう。柔らかな裙の裾が、袖が翻る。
つまずいた瞬間に、桃莉は手を握りしめたようだ。
とても小さな白い石が、地面にこぼれる。迷子になってもすぐに桃莉の行方をたどれるようにと、翠鈴が持たせたものだ。
「きゃあっ」と桃莉の悲鳴が響いた。
雲嵐は身を低くして、桃莉の体を持ちあげる。あとほんの数瞬遅れていたら、桃莉は石畳に顔をぶつけていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか? 桃莉さま」
駆け寄った光柳は驚いた。隣に、潔士がいたからだ。
自分でも気づかぬうちに、走っていたのだろう。潔士は「あっ」と口に手を当てた。
「へいきだよ、クァンリュウ。あのね、ユィンランがたすけてくれたの」
桃莉は、光柳の側にいる潔士に目を向けた。担がれていた桃莉は、地面に下された。
「ユィンラン。ありがとう」と、桃莉はお礼を告げる。そして、小さな手で裙を払った。
汚れてはいけないからだろう。
(つい最近まで、泥遊びで盛大に衣を汚していたと聞くが)
もしここに蘭淑妃や翠鈴がいたら。桃莉の成長を喜んだことだろう。
後宮から簡単には出られないふたりに、見せてあげたかったと光柳は思った。
「この子のことを、心配して駆けてくださったんですね。ありがとうございます。怪我はありませんよ」
雲嵐の説明に、潔士がほっと息をつく。
ふと、桃莉が顔を上げた。前に立っている潔士を、じーっと見つめている。
「えーと、ころんでないよ。へいきだよ?」
ずいぶんと遅れてではあるが。桃莉が返事したことに、潔士は驚いたように目を見開いた。
「それはよかったですね」
潔士は柔らかく微笑んだ。
皇后である伯母に言われたから、しかたなく女装をしてまで桃莉に出会ったであろうに。
義務感や義理、そういうものを越えた感情が伝わってくる。
「なんでタオリィのなまえ、しってるの?」
「え?」
「ただのタオリィって、いってないよ?」
桃莉の指摘に、潔士は顔をこわばらせた。
「その……それは」
声が上ずっている。
しまった。子供は意外と聡いんだ。
「私たちが、桃莉さまと呼んでいるのが聞こえたのでしょう。きっとこの子は、勉強をよくしているのですね。ほら、異国の言語を学ぶときは耳がよければ、言葉を聞きとりやすいですし。発音もうまくなりますからね」
適当な言い訳だなぁ、と光柳は思った。
だが、相手は桃莉だ。すぐに「わぁ、すごいねぇ」と信じたのだ。
(なんだろう……なんだか、桃莉さまを騙すのは心苦しい)
光柳の隣に立つ潔士も、同じようなことを考えたのかもしれない。肩を落として、瞼を閉じている。
(そうだ)
考えが閃いた。光柳は、こほんと咳払いをする。たいそうわざとらしいが。
「こちらのお坊ちゃんは、これから訪れる施家の……いや、施家のことをよくご存じです。ですから桃莉さま。手紙を託してはいかがでしょうか」
「よくごぞんじなの?」
自分よりも背の高い潔士を、桃莉は見上げる。突然、話をふられた潔士は、条件反射のようにこくこくと頷いた。
「じゃあ。とどけてくれますか」
遠慮がちに、桃莉は手紙を差しだした。だが、歩いている間に握りつぶしてしまったのだろう。紙はくしゃくしゃになっている。
「どうしよう。おてがみ。いっしょうけんめい、かいたのに」
桃莉の瞳に涙が浮かぶ。黒い瞳が潤んで、ほろほろと透明な雫がこぼれた。
「だいじなおてがみなのに。ジエホアおねえさま、がっかりしちゃう」
「だ、大丈夫だよ」
桃莉の目の前に、潔士がしゃがんだ。小さな両肩を、潔士の手が包む。
「手紙をもらった人が、紙を破らないように開いて、読んでくれるよ」
「でも……」
「ぼくが、そう伝えるから。この手紙が大事すぎて、握りしめていたから、しわになりましたって」
泣きやまない桃莉を、潔士は懸命になだめる。
光柳と雲嵐は、黙ってふたりを見守っていた。皇后が、自分が可愛がっている蘭淑妃の娘に、この甥を引きあわせた理由が分かったような気がした。
皇后陛下には、他にも甥がいるはずだ。それでも、潔士でなければならなかったのだろう。
◇◇◇
潔士に手紙を託して(というか本人なのだが)。光柳たちは、馬車へと戻った。
四人が立ち去った後。道には白い石がこぼれ落ちていた。
ゆっくりと歩く馬に乗っていた女性が、その背から降りる。
毛皮の上着である裘の下から見える服は、冬だというのに粗末な麻だ。
「なんだ。ただの石か。これじゃ売れないわ」
しゃがみこんで石を拾うが。すぐに女は、ぽいっと放り投げた。
屋敷の塀にぶつかって、小石は再び地面に落ちる。
「主の子供が迷子にならぬように、石が落ちる仕組みでも考えたのかな。ふーん。私なら、烏桕の種を使うわね」
だって、楽しいじゃない。えらそうな主の子供が、毒のある烏桕を持ち歩くなんて。
きれいで柔らかな子供のてのひらが、かぶれればいい。爛れればいい。
女は空を仰いだ。晴れていた空に北から雲が流れてきた。
太陽の光は雲に隠されて、寒さが増す。
この辺りは道の左右に、ねずみ色の長い塀が続いている。憎たらしいほどに広大な屋敷が連なっているからだ。
汚らしい濁った塀と、灰色の雲。
でも、後宮の赤い塀の向こうに見える空は、もっと華やかだ。
「そういえば。いつだったか、あたしから毒を買った侍女がいたけど。ちゃんと使えたのかしら」
女は糸のような目を、さらに細くした。
雲嵐が駆けだした。
桃莉のつま先が、石畳に引っかかったのだろう。柔らかな裙の裾が、袖が翻る。
つまずいた瞬間に、桃莉は手を握りしめたようだ。
とても小さな白い石が、地面にこぼれる。迷子になってもすぐに桃莉の行方をたどれるようにと、翠鈴が持たせたものだ。
「きゃあっ」と桃莉の悲鳴が響いた。
雲嵐は身を低くして、桃莉の体を持ちあげる。あとほんの数瞬遅れていたら、桃莉は石畳に顔をぶつけていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか? 桃莉さま」
駆け寄った光柳は驚いた。隣に、潔士がいたからだ。
自分でも気づかぬうちに、走っていたのだろう。潔士は「あっ」と口に手を当てた。
「へいきだよ、クァンリュウ。あのね、ユィンランがたすけてくれたの」
桃莉は、光柳の側にいる潔士に目を向けた。担がれていた桃莉は、地面に下された。
「ユィンラン。ありがとう」と、桃莉はお礼を告げる。そして、小さな手で裙を払った。
汚れてはいけないからだろう。
(つい最近まで、泥遊びで盛大に衣を汚していたと聞くが)
もしここに蘭淑妃や翠鈴がいたら。桃莉の成長を喜んだことだろう。
後宮から簡単には出られないふたりに、見せてあげたかったと光柳は思った。
「この子のことを、心配して駆けてくださったんですね。ありがとうございます。怪我はありませんよ」
雲嵐の説明に、潔士がほっと息をつく。
ふと、桃莉が顔を上げた。前に立っている潔士を、じーっと見つめている。
「えーと、ころんでないよ。へいきだよ?」
ずいぶんと遅れてではあるが。桃莉が返事したことに、潔士は驚いたように目を見開いた。
「それはよかったですね」
潔士は柔らかく微笑んだ。
皇后である伯母に言われたから、しかたなく女装をしてまで桃莉に出会ったであろうに。
義務感や義理、そういうものを越えた感情が伝わってくる。
「なんでタオリィのなまえ、しってるの?」
「え?」
「ただのタオリィって、いってないよ?」
桃莉の指摘に、潔士は顔をこわばらせた。
「その……それは」
声が上ずっている。
しまった。子供は意外と聡いんだ。
「私たちが、桃莉さまと呼んでいるのが聞こえたのでしょう。きっとこの子は、勉強をよくしているのですね。ほら、異国の言語を学ぶときは耳がよければ、言葉を聞きとりやすいですし。発音もうまくなりますからね」
適当な言い訳だなぁ、と光柳は思った。
だが、相手は桃莉だ。すぐに「わぁ、すごいねぇ」と信じたのだ。
(なんだろう……なんだか、桃莉さまを騙すのは心苦しい)
光柳の隣に立つ潔士も、同じようなことを考えたのかもしれない。肩を落として、瞼を閉じている。
(そうだ)
考えが閃いた。光柳は、こほんと咳払いをする。たいそうわざとらしいが。
「こちらのお坊ちゃんは、これから訪れる施家の……いや、施家のことをよくご存じです。ですから桃莉さま。手紙を託してはいかがでしょうか」
「よくごぞんじなの?」
自分よりも背の高い潔士を、桃莉は見上げる。突然、話をふられた潔士は、条件反射のようにこくこくと頷いた。
「じゃあ。とどけてくれますか」
遠慮がちに、桃莉は手紙を差しだした。だが、歩いている間に握りつぶしてしまったのだろう。紙はくしゃくしゃになっている。
「どうしよう。おてがみ。いっしょうけんめい、かいたのに」
桃莉の瞳に涙が浮かぶ。黒い瞳が潤んで、ほろほろと透明な雫がこぼれた。
「だいじなおてがみなのに。ジエホアおねえさま、がっかりしちゃう」
「だ、大丈夫だよ」
桃莉の目の前に、潔士がしゃがんだ。小さな両肩を、潔士の手が包む。
「手紙をもらった人が、紙を破らないように開いて、読んでくれるよ」
「でも……」
「ぼくが、そう伝えるから。この手紙が大事すぎて、握りしめていたから、しわになりましたって」
泣きやまない桃莉を、潔士は懸命になだめる。
光柳と雲嵐は、黙ってふたりを見守っていた。皇后が、自分が可愛がっている蘭淑妃の娘に、この甥を引きあわせた理由が分かったような気がした。
皇后陛下には、他にも甥がいるはずだ。それでも、潔士でなければならなかったのだろう。
◇◇◇
潔士に手紙を託して(というか本人なのだが)。光柳たちは、馬車へと戻った。
四人が立ち去った後。道には白い石がこぼれ落ちていた。
ゆっくりと歩く馬に乗っていた女性が、その背から降りる。
毛皮の上着である裘の下から見える服は、冬だというのに粗末な麻だ。
「なんだ。ただの石か。これじゃ売れないわ」
しゃがみこんで石を拾うが。すぐに女は、ぽいっと放り投げた。
屋敷の塀にぶつかって、小石は再び地面に落ちる。
「主の子供が迷子にならぬように、石が落ちる仕組みでも考えたのかな。ふーん。私なら、烏桕の種を使うわね」
だって、楽しいじゃない。えらそうな主の子供が、毒のある烏桕を持ち歩くなんて。
きれいで柔らかな子供のてのひらが、かぶれればいい。爛れればいい。
女は空を仰いだ。晴れていた空に北から雲が流れてきた。
太陽の光は雲に隠されて、寒さが増す。
この辺りは道の左右に、ねずみ色の長い塀が続いている。憎たらしいほどに広大な屋敷が連なっているからだ。
汚らしい濁った塀と、灰色の雲。
でも、後宮の赤い塀の向こうに見える空は、もっと華やかだ。
「そういえば。いつだったか、あたしから毒を買った侍女がいたけど。ちゃんと使えたのかしら」
女は糸のような目を、さらに細くした。
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