後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

文字の大きさ
94 / 171
七章 毒の豆

11、恵まれている

しおりを挟む
 翠鈴ツイリンは辛抱強く、辺妮ピエンニから話を聞いた。

「そう。後宮で商売をしているよろず屋の名前は許夏雪シィシアシュエというのね。ふぅん、毒も扱うんだ」

 以前、永仁えいじん宮の蔡昭媛ツァイしょうえんに仕える侍女が毒のある大芹おおぜりを、この医局で使ったけれど。

(亡くなったのは范敬ファンジンという侍女。彼女も、その許夏雪シィシアシュエから大芹を入手したのかもしれないわ)

 夏雪は薬師ではない。なのに、どうして毒の知識があるのか。

 大芹は、毒芹どくぜりとも呼ばれる。有名な毒草だ。
 だが、香豌豆かおりえんどうの毒は一般的ではない。

 いずれにしても看過できない。
 そのよろず屋は、今後も後宮に毒を持ちこむだろう。「依頼だから」「仕事だから」と平然として。

 辺妮ピエンニが、ふつうの豌豆えんどうを毒のある豆であると偽られたのは、たまたまだ。豌豆は栽培されているし、南方でなら早くに実を結ぶこともあるだろう。
 だが、食用ではない香豌豆を季節外れに揃えることは難しい。

(もし辺妮が、春に胡玲を毒殺しようと思いついたのなら。あの豌豆黄ワンドゥホアンは毒そのものだった)

 床に散乱していた濁った色のかけらは、すでに捨てられている。

 むろん、胡玲は差し入れを慎重に口にして、毒ではない、問題はないと分かったから他の医官にも勧めた。
 それに香豌豆かおりえんどうの毒は、死に至るほどではない。味も苦くて、とうてい食用には向かない。
 だが、そんなことを辺妮に教えてやるわけにはいかない。

(どんなに私に謝ろうが、この娘は胡玲には謝罪していないわ)

 足音と話し声が外から聞こえて、翠鈴は医局の入口へと向かった。
 光柳が警備の宦官を連れて、戻ってきたのだろう。

 今もなお辺妮の視線が、翠鈴の後を追ってくるのが分かる。
 ふと、粘っこい視線が途切れた。

 ふり返ると、翠鈴と辺妮のあいだに、雲嵐ユィンランが立っている。

「ありがとうございます。雲嵐さま」
「いえ。私は何もしておりません」

 謙虚に返す雲嵐だが。彼は、光柳が人からしつこく見られることに悩んでいたのを知っている。
 翠鈴にとって、この辺妮のまなざしがいかに鬱陶しいかを、雲嵐は理解しているのだろう。

「待たせたな。翠鈴」

 医局の戸を開けて、光柳が入って来た。乾いた冷たい風が、足もとに流れ込んでくる。
 床に倒れている辺妮は、まともに凍てた風をくらったらしい。「ひぃ」と、かすれた声を上げた。

 ◇◇◇

 辺妮は、警備の宦官に連れていかれた。このまま大理寺の牢獄に放りこまれるのだろう。

「辺妮の処遇はどうなるのでしょうか」
「そうだな。実際には毒ではなかったし、毒であったとしても重症にはならなかっただろうが」

 翠鈴の問いに、光柳はあごに手を当てた。
 医局の中は暖かい。光柳の髪も服も冷気の膜につつまれているようで、ひんやりとする。

「だが、あの宮女には殺意があった」

 まるで刃を突きたてるかのような、鋭い声音だ。

「胡玲の殺害に失敗したのだ。放っておけるはずがない」

 知っているか? と光柳は続ける。

「今は辺妮ピエンニという宮女の怒りは、胡玲に向いている。だが、君が辺妮の望む女炎帝でなくなった時。彼女の怒りは翠鈴、君に向けられる」

 嫉妬、羨望、妬み。それが辺妮が胡玲に抱く感情だ。

 翠鈴にとって幼なじみの胡玲は、特別な位置にいる。だが、その「特別」を排除した時に。同じ場所に辺妮が立てなければ。
 辺妮は翠鈴を憎悪するだろう。

 自分を選ばなかった、と。

「夜更けの薬売りの顧客は、ほとんどが良識がある。君に迷惑がかからぬようにと考えている。だが、わずかでも、ほんのひとりでも自我を優先させたなら」
「今回のような事態になりますね」

 もし胡玲が妃嬪であったなら。たとえ毒殺が失敗に終わったとしても、身分の低い辺妮は処刑されるだろう。

「辺妮はむち打ちの上で、後宮を追放あたりになるだろうな」
「そうですか」

 確かに辺妮を後宮に置いておくのは危ない。
 だが、それ以上に危険なのは、平気で毒を売りさばく許夏雪シィシアシュエという女だ。

「お待たせしました」

 胡玲が医局の奥から現れる。麻袋と壺を腕に抱えて。
 もう胡玲に動揺は見られない。決して些細なことではなかったのだが。

「光柳さまはカリン酒ですね。翠鈴姐ツイリンジェは、蘭淑妃さまの枇杷と無花果の葉」

 胡玲から、膨らんだ軽い麻袋を渡されて。翠鈴は、自分の用事を思い出した。

(遅くなってしまったから。蘭淑妃さまや梅娜メイナーさまが心配なさっているかもしれない)

 ふと浮かんだ考えに、翠鈴は頬を緩めた。
 遅くなったから怒られるかもしれない、とは考えもしなかったのだ。微塵も。

(わたしは本当に恵まれているわ)

 光柳は、壺を胡玲から受け取った。そして雲嵐を見て、微笑んだ。

「カリン酒がお好きなんですね」
「ん? なんで分かるんだ?」
「分かりますよ」

 本音が表情に洩れているじゃないですか。しかも嬉しそうに雲嵐さまに、笑顔だけで報告して。
 さすがに口にはできないので。翠鈴は黙っておくことにした。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。