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八章 陽だまりの花園
12、どちらへ?
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翌日。光柳は雲嵐を伴って未央宮を訪れた。
すでに日は暮れている。翠鈴は仕事と夕食を終えた頃だろう。
宮女の宿舎を気軽に訪れるわけにはいかない。おそらくは、未央宮に戻ってくるだろうと考えてのことだ。
他の宮女は午後も忙しいだろうが。朝の仕事の早い翠鈴は、日中の方が時間がある。
「どうだ? 雲嵐。おかしくはないか?」
光柳はゆっくり一回転して、衣や髪に乱れがないか雲嵐に問うた。
「はいはい。今日もお綺麗ですよ」
なんだろう。我が主はお嬢さまだったかな? と雲嵐は首をひねった。
「そもそも翠鈴は見た目は気にしないですよ」
「昨日まではそうだった。だが、今日もそうだとは限らない」
「どこぞの乙女ですか、光柳さまは」
雲嵐は温厚であるのに。光柳に対しては遠慮がないので時々きつい。
未央宮の前で立ちどまっていると、人の気配がした。門の中からではない、外だ。
足音は二つで重い。雲嵐が、光柳の背を指でつついてくる。
「おや。珍しいところで会ったものだ。愛しい我が弟よ」
「うわっ」
両腕を広げて進んでくるのは、恐れ多くも皇帝陛下、劉傑倫だ。義兄とはいえ、光柳とは似ていない。武骨な印象だ。
「春節の挨拶以来、顔を見せてくれないではないか」
「畏れながら。陛下の御言葉を、洩らさずに書き留めておりますゆえ。朝議ではご尊顔を拝しております」
堅苦しい物言いをした光柳を、陛下はじーっと見据えてくる。陛下の側に控える護衛が案ずるほどに。
「冷たいものだ。やはり離宮で育ったから、素直に甘えてくれないのだろうか」
いいえ、全然関係ありません。
「他の弟たちは、後宮を離れても頻繁に会いに来てくれるし。手紙もくれるぞ。なのにこうして手元にいるお前が、朕に最も冷たいのはどういうことだ」
それ、多分ご機嫌うかがいです。
「寂しいのなら、仕事と関係なく朕の元を訪れてくれていいのだぞ。むしろ訪れてほしい。一緒に酒を飲んで語りあってもいい」
夜まで仕事はしたくないです。
光柳は喉元まで出かかった、様々な言葉を飲み込んだ。
「ところで陛下は、蘭淑妃のところへいらっしゃったのですか?」
「ん? いや、そうではないが。その、出産が近いからだろうか。暁慶がピリピリしていてな。どうにも落ち着かん」
あ、これは逃げてきたな。光柳は悟った。
施暁慶。皇后を名前で呼ぶのは、陛下しかいない。
皇后に対する尊称で、親しみを込めた「皇后娘娘」があるが。皇后陛下は、その呼び名を蘭淑妃にしか許していない。
うかつに「皇后娘娘」と呼びかけようものなら。ぎろりと睨まれ、不興を買ってしまう。
「皇后陛下におかれましては、不安でいらっしゃるんでしょう。こんな時こそ陛下がお側にいらして、労わってさしあげればよろしいかと」
なぜか皇帝の護衛が、背後で「うんうん」と光柳の言葉にうなずいた。
(まぁ、そうだよな。これが皇帝であるから、他の妃嬪の元に通うのが許されるのであって。妊娠している妻を放っておいて、他の女性と……など。ふつうの感覚なら殴られてもしょうがないんだよな)
立場上、認められた行為ではあるし、陛下には子が多い方が望ましいのも分かるが。
光柳は、皇帝から何歩も下がった場所に控える宦官に目を向けた。閨房渡りの記録係だ。見覚えがある。
「桃莉さま。お待ちください」
未央宮から張りのある声が聞こえて、光柳ははっとした。翠鈴だ。聞き間違えるはずがない。
まだ食堂にいるものだと思っていたのに。
「いまね、クアンリュウのこえがきこえたの。タオリィね、クアンリュウをたおさないと、だめなの」
ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
庭にいたのか? 回廊までは、門でしゃべる声は届かないよな。
門から飛び出してきたのは桃莉公主だ。前も見ずに走ったせいで、あろうことか皇帝陛下にぶつかりそうになった。
すぐに陛下の護衛が立ちはだかる。
突進してきた桃莉ははじかれて、よろけた。
「桃莉さま」
「危ないっ」
翠鈴は手を伸ばしたが間に合わない。光柳は身を挺して、地面に倒れかけた桃莉の下敷きになった。
不思議なことに青い草の匂いがする。
年が明けて六歳になった女の子は軽い。だが、痛いことに変わりはない。
「あ、クアンリュウだ。こんばんは」
「はい、こんばんは。姫さまにはご機嫌よろしゅう」
背中に座って、優雅にご挨拶をされてもなぁ。光柳は複雑な気分を噛みしめた。
「もしかしてタオリィ。もうクアンリュウをたおしちゃった?」
「そうお思いになりますか?」
地面が近い。子供の頃以来かもしれない。こんなにも地面に密着するのは。
というか、早く降りてくれないかなぁ。
すでに日は暮れている。翠鈴は仕事と夕食を終えた頃だろう。
宮女の宿舎を気軽に訪れるわけにはいかない。おそらくは、未央宮に戻ってくるだろうと考えてのことだ。
他の宮女は午後も忙しいだろうが。朝の仕事の早い翠鈴は、日中の方が時間がある。
「どうだ? 雲嵐。おかしくはないか?」
光柳はゆっくり一回転して、衣や髪に乱れがないか雲嵐に問うた。
「はいはい。今日もお綺麗ですよ」
なんだろう。我が主はお嬢さまだったかな? と雲嵐は首をひねった。
「そもそも翠鈴は見た目は気にしないですよ」
「昨日まではそうだった。だが、今日もそうだとは限らない」
「どこぞの乙女ですか、光柳さまは」
雲嵐は温厚であるのに。光柳に対しては遠慮がないので時々きつい。
未央宮の前で立ちどまっていると、人の気配がした。門の中からではない、外だ。
足音は二つで重い。雲嵐が、光柳の背を指でつついてくる。
「おや。珍しいところで会ったものだ。愛しい我が弟よ」
「うわっ」
両腕を広げて進んでくるのは、恐れ多くも皇帝陛下、劉傑倫だ。義兄とはいえ、光柳とは似ていない。武骨な印象だ。
「春節の挨拶以来、顔を見せてくれないではないか」
「畏れながら。陛下の御言葉を、洩らさずに書き留めておりますゆえ。朝議ではご尊顔を拝しております」
堅苦しい物言いをした光柳を、陛下はじーっと見据えてくる。陛下の側に控える護衛が案ずるほどに。
「冷たいものだ。やはり離宮で育ったから、素直に甘えてくれないのだろうか」
いいえ、全然関係ありません。
「他の弟たちは、後宮を離れても頻繁に会いに来てくれるし。手紙もくれるぞ。なのにこうして手元にいるお前が、朕に最も冷たいのはどういうことだ」
それ、多分ご機嫌うかがいです。
「寂しいのなら、仕事と関係なく朕の元を訪れてくれていいのだぞ。むしろ訪れてほしい。一緒に酒を飲んで語りあってもいい」
夜まで仕事はしたくないです。
光柳は喉元まで出かかった、様々な言葉を飲み込んだ。
「ところで陛下は、蘭淑妃のところへいらっしゃったのですか?」
「ん? いや、そうではないが。その、出産が近いからだろうか。暁慶がピリピリしていてな。どうにも落ち着かん」
あ、これは逃げてきたな。光柳は悟った。
施暁慶。皇后を名前で呼ぶのは、陛下しかいない。
皇后に対する尊称で、親しみを込めた「皇后娘娘」があるが。皇后陛下は、その呼び名を蘭淑妃にしか許していない。
うかつに「皇后娘娘」と呼びかけようものなら。ぎろりと睨まれ、不興を買ってしまう。
「皇后陛下におかれましては、不安でいらっしゃるんでしょう。こんな時こそ陛下がお側にいらして、労わってさしあげればよろしいかと」
なぜか皇帝の護衛が、背後で「うんうん」と光柳の言葉にうなずいた。
(まぁ、そうだよな。これが皇帝であるから、他の妃嬪の元に通うのが許されるのであって。妊娠している妻を放っておいて、他の女性と……など。ふつうの感覚なら殴られてもしょうがないんだよな)
立場上、認められた行為ではあるし、陛下には子が多い方が望ましいのも分かるが。
光柳は、皇帝から何歩も下がった場所に控える宦官に目を向けた。閨房渡りの記録係だ。見覚えがある。
「桃莉さま。お待ちください」
未央宮から張りのある声が聞こえて、光柳ははっとした。翠鈴だ。聞き間違えるはずがない。
まだ食堂にいるものだと思っていたのに。
「いまね、クアンリュウのこえがきこえたの。タオリィね、クアンリュウをたおさないと、だめなの」
ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
庭にいたのか? 回廊までは、門でしゃべる声は届かないよな。
門から飛び出してきたのは桃莉公主だ。前も見ずに走ったせいで、あろうことか皇帝陛下にぶつかりそうになった。
すぐに陛下の護衛が立ちはだかる。
突進してきた桃莉ははじかれて、よろけた。
「桃莉さま」
「危ないっ」
翠鈴は手を伸ばしたが間に合わない。光柳は身を挺して、地面に倒れかけた桃莉の下敷きになった。
不思議なことに青い草の匂いがする。
年が明けて六歳になった女の子は軽い。だが、痛いことに変わりはない。
「あ、クアンリュウだ。こんばんは」
「はい、こんばんは。姫さまにはご機嫌よろしゅう」
背中に座って、優雅にご挨拶をされてもなぁ。光柳は複雑な気分を噛みしめた。
「もしかしてタオリィ。もうクアンリュウをたおしちゃった?」
「そうお思いになりますか?」
地面が近い。子供の頃以来かもしれない。こんなにも地面に密着するのは。
というか、早く降りてくれないかなぁ。
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