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九章 呂充儀
9、疲れた侍女
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翌日の午後。
未央宮の作業部屋で、翠鈴は由由と一緒に宮灯の油を注していた。油桐の種子から作った桐油だ。
桐油はにおいがきつい。しかも細心の注意を払わなければならない。
司燈の宮女を統括する女官は、「気をつけるのよ」と油を取りに来た翠鈴たちに繰り返した。
「由由。慎重に扱ってね。今日は菜種油じゃないから。油桐は毒荏ともいって、有毒なの」
「えっ。桐油って毒だったの?」
「肌に触れると発疹や皮膚がかぶれるのよ。間違って飲んだら、死ぬわよ」
翠鈴の説明に、由由は顔を強ばらせる。
「ね、手についてないわよね」
由由の手と指を、翠鈴は確認した。
ふだんは菜種油を使うことが多い。それに桐油の時は、念のために翠鈴が補充を担当していた。
だが、呂充儀が未央宮にいることで、日中の仕事に支障が出ている。
今日は雲嵐が来ないことで、呂充儀が荒れているのだ。
「ツイリン。あのひと、こわい」
扱う油が危険なので、桃莉公主は作業部屋に入れない。仕方なく、扉から顔をのぞかせて翠鈴に話しかけてくる。
声は怯えて、いつもの明るさがない。
いや、桃莉だけではない。侍女たちも、ピリピリした雰囲気をまとわせている。
「ちょっと休ませてちょうだい」
ぐったりと肩を落として部屋に入ってきたのは、梅娜だ。
「あ、メイナーずるーい」
「じゃあ、桃莉さまを抱っこして休ませてちょうだい」
「それならいいよ」
梅娜と桃莉の間で交渉は成立したようだ。
翠鈴たちが宮灯の油を扱う時は、邪魔をしては危険だとふたりは理解している。
「お疲れですね」
「人が少ないのよ。結婚って立て続けにするものなのかしら。さらにもうひとり、侍女が辞めることになってね。婚家が遠いからって、その準備で後宮を空けることになったのよ」
後宮にある池の底よりも、深い深いため息を梅娜はついた。
普段ならそんなことはしないだろうに。梅娜は床に直に腰を下ろしている。そして膝には桃莉公主を抱えている。
これは、かなり疲労が溜まっている。
(女性には適齢期があるものね。他の侍女は十八歳や十九歳が多いから。今を逃すと厳しいから、本人も親も焦っているのかもしれないわ)
もう適齢期を過ぎてしまった翠鈴は、逆に諦めというか、まぁしょうがないかと考えている。
若さを売りにしたところで、将来は目減りするものだから。
「呂充儀さまですが。お医者さまの診察の『すぐには動かない方がいい』の期間は、もう過ぎていると思います」
やれやれ、と翠鈴は天井を見上げて肩を落とす。
ほんとうは桃莉公主と遊んであげたいのだが。桃莉はおとなしく、梅娜に抱っこされている。
「あのぉ、すみません」
部屋の外から、声が聞こえた。これもまた疲れのにじんだか細い声だ。
顔をのぞかせたのは、呂充儀の侍女である南蕾だ。
「お湯を沸かしたいので、厨房をお借りしてもいいでしょうか」
南蕾は、目の下に隈ができている。主にふりまわされて、くたびれているようだ。
翠鈴と由由は顔を見合わせる。
「わたし達では、お返事ができないんです。すみません」
「あ、そうね。ごめんなさい。お仕事の手を止めさせてしまったわね」
ようやく南蕾は、翠鈴たちが宮女であることを認識したようだ。
(南蕾さまは、下働きのわたし達にも気を遣ってくださるのに)
「厨房ね。どうぞ使ってください。場所はお分かりになりますね」
膝から桃莉公主を降ろして、梅娜が立ちあがった。
ふだんなら真っ先に対応しているのに。そんな気力もないようだ。
遠くから「南蕾。お茶はまだなの?」という声が聞こえる。
雲嵐が来ないので、呂充儀はイライラしているようだ。
「大変ですね。呂充儀さまはお子さまを授かって、気持ちが落ち着かないんでしょうね」
さすがに座っていては失礼だ。翠鈴は立ちあがって南蕾に声をかけた。
「すみません。椅子もない場所なので。座っていただけなくて」
思いがけず、翠鈴に労わられたからだろうか。南蕾は、へにゃっと表情を崩した。
「妊娠は関係あるのでしょうか? 感情の浮き沈みの激しい方で。その、調子のいい時はとても明るいのですが。精神的な重圧にとても弱くていらっしゃるんです」
南蕾は泣いていた。
自分でも涙をこぼしていると気づいていなかったのだろう。
ぽたぽたと床に涙が落ちて、丸いシミができて。初めて、驚いたように自分の目もとに手を当てた。
南蕾の指に、翠鈴は目を向けた。
色が悪い。手が妙に青いのだ。
爪を染めるにしても、青はない。しかも爪だけならばまだしも、指と手の甲の途中まで色が残っている。
未央宮の作業部屋で、翠鈴は由由と一緒に宮灯の油を注していた。油桐の種子から作った桐油だ。
桐油はにおいがきつい。しかも細心の注意を払わなければならない。
司燈の宮女を統括する女官は、「気をつけるのよ」と油を取りに来た翠鈴たちに繰り返した。
「由由。慎重に扱ってね。今日は菜種油じゃないから。油桐は毒荏ともいって、有毒なの」
「えっ。桐油って毒だったの?」
「肌に触れると発疹や皮膚がかぶれるのよ。間違って飲んだら、死ぬわよ」
翠鈴の説明に、由由は顔を強ばらせる。
「ね、手についてないわよね」
由由の手と指を、翠鈴は確認した。
ふだんは菜種油を使うことが多い。それに桐油の時は、念のために翠鈴が補充を担当していた。
だが、呂充儀が未央宮にいることで、日中の仕事に支障が出ている。
今日は雲嵐が来ないことで、呂充儀が荒れているのだ。
「ツイリン。あのひと、こわい」
扱う油が危険なので、桃莉公主は作業部屋に入れない。仕方なく、扉から顔をのぞかせて翠鈴に話しかけてくる。
声は怯えて、いつもの明るさがない。
いや、桃莉だけではない。侍女たちも、ピリピリした雰囲気をまとわせている。
「ちょっと休ませてちょうだい」
ぐったりと肩を落として部屋に入ってきたのは、梅娜だ。
「あ、メイナーずるーい」
「じゃあ、桃莉さまを抱っこして休ませてちょうだい」
「それならいいよ」
梅娜と桃莉の間で交渉は成立したようだ。
翠鈴たちが宮灯の油を扱う時は、邪魔をしては危険だとふたりは理解している。
「お疲れですね」
「人が少ないのよ。結婚って立て続けにするものなのかしら。さらにもうひとり、侍女が辞めることになってね。婚家が遠いからって、その準備で後宮を空けることになったのよ」
後宮にある池の底よりも、深い深いため息を梅娜はついた。
普段ならそんなことはしないだろうに。梅娜は床に直に腰を下ろしている。そして膝には桃莉公主を抱えている。
これは、かなり疲労が溜まっている。
(女性には適齢期があるものね。他の侍女は十八歳や十九歳が多いから。今を逃すと厳しいから、本人も親も焦っているのかもしれないわ)
もう適齢期を過ぎてしまった翠鈴は、逆に諦めというか、まぁしょうがないかと考えている。
若さを売りにしたところで、将来は目減りするものだから。
「呂充儀さまですが。お医者さまの診察の『すぐには動かない方がいい』の期間は、もう過ぎていると思います」
やれやれ、と翠鈴は天井を見上げて肩を落とす。
ほんとうは桃莉公主と遊んであげたいのだが。桃莉はおとなしく、梅娜に抱っこされている。
「あのぉ、すみません」
部屋の外から、声が聞こえた。これもまた疲れのにじんだか細い声だ。
顔をのぞかせたのは、呂充儀の侍女である南蕾だ。
「お湯を沸かしたいので、厨房をお借りしてもいいでしょうか」
南蕾は、目の下に隈ができている。主にふりまわされて、くたびれているようだ。
翠鈴と由由は顔を見合わせる。
「わたし達では、お返事ができないんです。すみません」
「あ、そうね。ごめんなさい。お仕事の手を止めさせてしまったわね」
ようやく南蕾は、翠鈴たちが宮女であることを認識したようだ。
(南蕾さまは、下働きのわたし達にも気を遣ってくださるのに)
「厨房ね。どうぞ使ってください。場所はお分かりになりますね」
膝から桃莉公主を降ろして、梅娜が立ちあがった。
ふだんなら真っ先に対応しているのに。そんな気力もないようだ。
遠くから「南蕾。お茶はまだなの?」という声が聞こえる。
雲嵐が来ないので、呂充儀はイライラしているようだ。
「大変ですね。呂充儀さまはお子さまを授かって、気持ちが落ち着かないんでしょうね」
さすがに座っていては失礼だ。翠鈴は立ちあがって南蕾に声をかけた。
「すみません。椅子もない場所なので。座っていただけなくて」
思いがけず、翠鈴に労わられたからだろうか。南蕾は、へにゃっと表情を崩した。
「妊娠は関係あるのでしょうか? 感情の浮き沈みの激しい方で。その、調子のいい時はとても明るいのですが。精神的な重圧にとても弱くていらっしゃるんです」
南蕾は泣いていた。
自分でも涙をこぼしていると気づいていなかったのだろう。
ぽたぽたと床に涙が落ちて、丸いシミができて。初めて、驚いたように自分の目もとに手を当てた。
南蕾の指に、翠鈴は目を向けた。
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