126 / 171
九章 呂充儀
10、丁子
しおりを挟む
「南蕾さまは、気を張っていらっしゃるから。お疲れですよね」
南蕾の手の青が気にはなるが。今は問うべき時ではないと、翠鈴は判断した。
「いえ……私は、その……」
口ごもりながらも、南蕾は主を批判する言葉は口にしない。
きっとこれまで彼女に、ちゃんと声をかける人などいなかったのだろう。
国も民族も違う呂充儀の大変さは、誰もが想像できることだ。だが主に付き従い、国を離れた侍女の苦労を考えてあげられる人はほとんどいない。
「おねえさん、げんきない? あのこわいおねえさんに、いじめられてる?」
梅娜の膝に座ったままの桃莉公主が、南蕾に声をかける。
まさか公主にいたわられるとは、思いもしなかったのだろう。
南蕾は、目を大きく見開いた。
また涙が溢れてこぼれた。
「あ、ありがとうございます。私なんかに、優しいお言葉をかけてくださって」
「タオリィが『わがままダメ』ってしてあげようか? ちょっと……だいぶん、こわいけど」
桃莉は口を尖らせた。
「こわいけど。でも、ジエホアおねえさまなら『タオリィ。じじょをたいせつにね』っていうとおもうから」
南蕾は、施潔華のことを知らない。潔華は、皇后陛下の甥なのだが。きっと蘭淑妃の親戚の子であると、南蕾は推測しただろう。
声もなく、南蕾は泣いた。ただ肩を震わせて。
翠鈴と由由が、宮灯に油を注す音がする。開いた窗から、鳥のさえずりが聞こえた。
ケキョ。ケキョキョ。ウグイスの雛だろうか。うまく鳴けずに練習する声を、風が運ぶ。
「充儀さまには、今日中にも文彗宮に戻っていただきたいと思っています。これ以上、蘭淑妃や皆さまにご迷惑をおかけするわけにはまいりませんし」
泣きやんだ南蕾は、申し訳なさそうに縮こまった。そのせいで、ぎゅっと手に持つ袋を握りしめたのだろう。微かに刺激のある香りがした。
桐油のクセのある匂いに紛れたけれど。確かに翠鈴の知っているものだ。
(丁子だわ)
翠鈴は眉をひそめた。
南蕾は、お茶を淹れるようにと命じられた。呂充儀は、茶葉で淹れたものを飲まない。
ならば、この丁子の使い道はひとつしかない。
呂充儀は、自ら毒となるものを好んで摂取しようとしている。
(充儀さまにとって、わたしの言葉なんて、いらぬお節介に違いない)
翠鈴は瞼を閉じて思案した。
(よかれと思って進言したところで、きっとわたしのことを恨むわ)
もし蘭淑妃からの言葉なら、呂充儀は言うことを聞くだろうか。
いや。そんなことはない。
呂充儀が、四夫人である淑妃を立てているのなら。迷惑をかけてはならぬと、すぐに文彗宮に戻ることだろう。
それに蘭淑妃が最初は呂充儀を見舞っていたのに、今はもう部屋を訪れない。理由は明白だ。
(でも、見過ごすことなんてできない)
たとえ医局に勤めていなくとも。自分は薬師であるのだから。
翠鈴は覚悟を決めた。
大きく息を吸って、瞼を開く。握りしめたこぶしが、微かに震えた。
「南蕾さま。丁子のお茶は飲んではいけませんと、呂充儀さまにお伝えください」
「え?」
頰に涙の筋を残しながら、南蕾が間近に歩み寄った翠鈴を見上げた。
「丁子は生薬です。歯痛を抑えることもできます。それほどに、きついのです。妊娠なさっている方には、毒になります」
「毒……なんですか? でも」
南蕾が言いよどむ。
翠鈴は、南蕾に続きを話すように促した。
「とても健康にいいお茶だと、充儀さまはおっしゃってました。お腹が痛い時には、丁子がいいそうです。だから毒だなんて言われても」
充儀の考えは間違いではない。だが、必ずしも正解でもない。
丁子は確かに腹部の冷えを伴う痛みには効く。それは妊娠時の腹痛とは別なものだ。
そもそも痛みには種類が多い。冷えを伴う冷痛、灼熱感を伴う灼痛、しくしく痛む隠痛。そのほかにも様々な痛みがある。
症状に応じて、使う生薬は違ってくる。当然だ、それぞれの原因が異なるのだから。
「丁子が毒というよりも。今の充儀さまには、害があると言うべきですね。陛下の御子を流産なさってはいけませんから」
「そんなっ。流産だなんて」
身ごもった主にとっては、あってはならぬ事態だ。南蕾の声はかすれていた。
脅しているわけではないのだが。現実的に危ないのだから、しょうがない。
「丁子は控えた方がいいですね。いえ、充儀さまはお茶として摂取なさる量が多そうなので。けっして取らないようにお伝えください」
翠鈴から丁子の話を聞いた南蕾は、すぐに呂充儀のいる部屋へと戻った。
しばらくして、声が聞こえた。扉を閉めているのだろう。くぐもっているが、離れた作業部屋まで聞こえるほどだ。
「わたくしが飲みたいって言っているのよ。これは清めと効き目のあるお茶なのよ。どうして禁止されないといけないの?」
「ですが。お体にも、お腹にいらっしゃる御子にも障るのです」
「わたくしは国へも戻れず。雲嵐にも会えず。しかも娘娘の教えすらも奪われるというの? どうしてなのよ。充儀になったから? 子を身ごもったから? 自由もなく後宮からも出られず、こんなの牢獄と変わらないかじゃないっ」
ああ、やっぱり。
翠鈴は床にしゃがみこんで、膝を抱えた。事情を察した由由が、翠鈴を包みこんでくれる。
南蕾の手の青が気にはなるが。今は問うべき時ではないと、翠鈴は判断した。
「いえ……私は、その……」
口ごもりながらも、南蕾は主を批判する言葉は口にしない。
きっとこれまで彼女に、ちゃんと声をかける人などいなかったのだろう。
国も民族も違う呂充儀の大変さは、誰もが想像できることだ。だが主に付き従い、国を離れた侍女の苦労を考えてあげられる人はほとんどいない。
「おねえさん、げんきない? あのこわいおねえさんに、いじめられてる?」
梅娜の膝に座ったままの桃莉公主が、南蕾に声をかける。
まさか公主にいたわられるとは、思いもしなかったのだろう。
南蕾は、目を大きく見開いた。
また涙が溢れてこぼれた。
「あ、ありがとうございます。私なんかに、優しいお言葉をかけてくださって」
「タオリィが『わがままダメ』ってしてあげようか? ちょっと……だいぶん、こわいけど」
桃莉は口を尖らせた。
「こわいけど。でも、ジエホアおねえさまなら『タオリィ。じじょをたいせつにね』っていうとおもうから」
南蕾は、施潔華のことを知らない。潔華は、皇后陛下の甥なのだが。きっと蘭淑妃の親戚の子であると、南蕾は推測しただろう。
声もなく、南蕾は泣いた。ただ肩を震わせて。
翠鈴と由由が、宮灯に油を注す音がする。開いた窗から、鳥のさえずりが聞こえた。
ケキョ。ケキョキョ。ウグイスの雛だろうか。うまく鳴けずに練習する声を、風が運ぶ。
「充儀さまには、今日中にも文彗宮に戻っていただきたいと思っています。これ以上、蘭淑妃や皆さまにご迷惑をおかけするわけにはまいりませんし」
泣きやんだ南蕾は、申し訳なさそうに縮こまった。そのせいで、ぎゅっと手に持つ袋を握りしめたのだろう。微かに刺激のある香りがした。
桐油のクセのある匂いに紛れたけれど。確かに翠鈴の知っているものだ。
(丁子だわ)
翠鈴は眉をひそめた。
南蕾は、お茶を淹れるようにと命じられた。呂充儀は、茶葉で淹れたものを飲まない。
ならば、この丁子の使い道はひとつしかない。
呂充儀は、自ら毒となるものを好んで摂取しようとしている。
(充儀さまにとって、わたしの言葉なんて、いらぬお節介に違いない)
翠鈴は瞼を閉じて思案した。
(よかれと思って進言したところで、きっとわたしのことを恨むわ)
もし蘭淑妃からの言葉なら、呂充儀は言うことを聞くだろうか。
いや。そんなことはない。
呂充儀が、四夫人である淑妃を立てているのなら。迷惑をかけてはならぬと、すぐに文彗宮に戻ることだろう。
それに蘭淑妃が最初は呂充儀を見舞っていたのに、今はもう部屋を訪れない。理由は明白だ。
(でも、見過ごすことなんてできない)
たとえ医局に勤めていなくとも。自分は薬師であるのだから。
翠鈴は覚悟を決めた。
大きく息を吸って、瞼を開く。握りしめたこぶしが、微かに震えた。
「南蕾さま。丁子のお茶は飲んではいけませんと、呂充儀さまにお伝えください」
「え?」
頰に涙の筋を残しながら、南蕾が間近に歩み寄った翠鈴を見上げた。
「丁子は生薬です。歯痛を抑えることもできます。それほどに、きついのです。妊娠なさっている方には、毒になります」
「毒……なんですか? でも」
南蕾が言いよどむ。
翠鈴は、南蕾に続きを話すように促した。
「とても健康にいいお茶だと、充儀さまはおっしゃってました。お腹が痛い時には、丁子がいいそうです。だから毒だなんて言われても」
充儀の考えは間違いではない。だが、必ずしも正解でもない。
丁子は確かに腹部の冷えを伴う痛みには効く。それは妊娠時の腹痛とは別なものだ。
そもそも痛みには種類が多い。冷えを伴う冷痛、灼熱感を伴う灼痛、しくしく痛む隠痛。そのほかにも様々な痛みがある。
症状に応じて、使う生薬は違ってくる。当然だ、それぞれの原因が異なるのだから。
「丁子が毒というよりも。今の充儀さまには、害があると言うべきですね。陛下の御子を流産なさってはいけませんから」
「そんなっ。流産だなんて」
身ごもった主にとっては、あってはならぬ事態だ。南蕾の声はかすれていた。
脅しているわけではないのだが。現実的に危ないのだから、しょうがない。
「丁子は控えた方がいいですね。いえ、充儀さまはお茶として摂取なさる量が多そうなので。けっして取らないようにお伝えください」
翠鈴から丁子の話を聞いた南蕾は、すぐに呂充儀のいる部屋へと戻った。
しばらくして、声が聞こえた。扉を閉めているのだろう。くぐもっているが、離れた作業部屋まで聞こえるほどだ。
「わたくしが飲みたいって言っているのよ。これは清めと効き目のあるお茶なのよ。どうして禁止されないといけないの?」
「ですが。お体にも、お腹にいらっしゃる御子にも障るのです」
「わたくしは国へも戻れず。雲嵐にも会えず。しかも娘娘の教えすらも奪われるというの? どうしてなのよ。充儀になったから? 子を身ごもったから? 自由もなく後宮からも出られず、こんなの牢獄と変わらないかじゃないっ」
ああ、やっぱり。
翠鈴は床にしゃがみこんで、膝を抱えた。事情を察した由由が、翠鈴を包みこんでくれる。
116
あなたにおすすめの小説
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。