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九章 呂充儀
15、休憩
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通された部屋では、床に敷物が敷いてあった。すでに軟墊も置いてある。
椅子に座る未央宮とは思えぬ情景だ。
開いた窗の外は見慣れた庭であり、木々もふだんと変わりはないが。
まるで棕櫚や芭蕉の大きな葉に、光が降りそそいでいるような錯覚を起こす。
こんな光景は見たことはない。なのに知っている。どこでだっただろう? 翠鈴は考えた。
「南の離宮では、椅子よりも床に座る方が落ち着くんですって。そうよね?」
蘭淑妃が、光柳に問いかける。
(ああ、光柳さまが離宮での思い出話をしてくださったから。それで覚えがあるんだ)
不思議なものだ。離宮の床での暮らしを、翠鈴は目にしたことはないのに。脳内では、しっかりとした景色として成り立っている。
「私も小さい頃は、天幕で暮らしていましたから。床に座るのに慣れています」
雲嵐の言葉に、光柳がうなずく。
「私も天幕で寝てみたいと思ってな。離宮にいた頃に真似をしてみた」
「離宮には、天幕があるんですか?」
「残念ながらなかったな。だから仕方なく、四隅に棒を立ててだな。天井部分に布を張って、それを天幕とした」
光柳と雲嵐は、砂浜まで出て棒を立てたらしい。
母親である麟美や侍女は「せめて離宮の庭で」と説得を試みたそうだが。まぁ、聞かないよね、と翠鈴は納得した。
「雲嵐から、草原で見る星空の話を聞いていたからだろうな。遮るもののない夜空は圧巻だそうだからな」
「星が多すぎて、光柳さまは気分が悪くなったんですよ」
お茶を給仕してくれた梅娜に、光柳と雲嵐は礼を告げた。
翠鈴の実家は山のふもとだ。そのせいで空は狭い。天の川の端は収束して山の頂へと届いているが。気分が悪くなるほどの星の多さは経験がない。
「星宿はむしろ、杷京くらいの明るさがあった方が見分けがつくな。それぞれの宮で灯籠がついているから、暗い星が紛れてしまうんだ」
「子供だけで夜を海で過ごすなど認められませんから。離宮の使用人たちも、朝まで簡易な天幕で寝ることになって。私は申し訳なかったですよ」
「何を言う、雲嵐。子供は好奇心あってこそ、だ」
まぁ、懐かしくはありましたよ。と、雲嵐は苦笑した。その笑みはとても柔和だ。
翠鈴は海を見たことはない。おそらくは桃莉公主も、ここにいる梅娜も南蕾も。
海に入らずとも、潮風で髪も肌もべたべたになることも。夜は波音が大きく聞こえることも。潮の香りは、海藻の匂いであることも。
波打ち際で濡れた足で浜辺を歩くと、足の裏も足の甲もびっしりと砂がついて、払ってもとれないことも。
知らぬことを教えてくれる光柳の話は新鮮で。
きっと疲れた皆を、くつろがせるために他愛のない話をしてくれているのだろうと、翠鈴は感じた。
「光柳さまは、波打ち際で海藻が足に絡みついて、泣いたことがおありなんですよ」
「あ、ずるいぞ。雲嵐。お前の恥ずかしい過去も明かしてやる」
光柳は、琥珀色の飴である松仁糖をつまんだ。
「タオリィも、あめたべたい」
「はいはい、仰せのままに。噛んではいけませんよ」
桃莉に松仁糖を与えながら、光柳が注意する。きっと過去に、硬い飴を噛んで痛い目に遭ったことがあるのだろう。
「私は確かに、びらびらした海藻で泣いたが。雲嵐は、巻貝だと思って拾ったら、中からヤドカリが出てきて泣いたじゃないか」
「覚えておりませんね」
雲嵐は、梅娜が給仕してくれたお茶を飲んでいる。
もう誰も、呂充儀の話をしない。彼女はまだ未央宮にいるというのに。
べったりと粘つくような充儀の存在が、今はもうこんなにも軽い。
蘭淑妃と光柳の心遣いが、気持ちを切り替えさせてくれた。
「おいしいお茶ですね。梅娜さま」
お茶をひとくち飲んだ翠鈴は、目を輝かせた。
「五色茶よ」
体までが清浄になりそうな。そして仄かに蜂蜜に似た甘さもある。そのことを告げると、蘭淑妃がうなずいた。
「そう。五色茶の冬茶は、蜂蜜の香りがするのよ」
不思議だ。蜂蜜を用いているわけでもないのに。芳香だけで、甘さすら感じるような気がする。
「本当においしいですね」
ようやく落ち着いたのか、南蕾が笑顔を浮かべた。
蘭淑妃は、隣に座った桃莉の頭を撫でながら、南蕾に向きなおった。
「今後のことを決めましょう。南蕾さん」
椅子に座る未央宮とは思えぬ情景だ。
開いた窗の外は見慣れた庭であり、木々もふだんと変わりはないが。
まるで棕櫚や芭蕉の大きな葉に、光が降りそそいでいるような錯覚を起こす。
こんな光景は見たことはない。なのに知っている。どこでだっただろう? 翠鈴は考えた。
「南の離宮では、椅子よりも床に座る方が落ち着くんですって。そうよね?」
蘭淑妃が、光柳に問いかける。
(ああ、光柳さまが離宮での思い出話をしてくださったから。それで覚えがあるんだ)
不思議なものだ。離宮の床での暮らしを、翠鈴は目にしたことはないのに。脳内では、しっかりとした景色として成り立っている。
「私も小さい頃は、天幕で暮らしていましたから。床に座るのに慣れています」
雲嵐の言葉に、光柳がうなずく。
「私も天幕で寝てみたいと思ってな。離宮にいた頃に真似をしてみた」
「離宮には、天幕があるんですか?」
「残念ながらなかったな。だから仕方なく、四隅に棒を立ててだな。天井部分に布を張って、それを天幕とした」
光柳と雲嵐は、砂浜まで出て棒を立てたらしい。
母親である麟美や侍女は「せめて離宮の庭で」と説得を試みたそうだが。まぁ、聞かないよね、と翠鈴は納得した。
「雲嵐から、草原で見る星空の話を聞いていたからだろうな。遮るもののない夜空は圧巻だそうだからな」
「星が多すぎて、光柳さまは気分が悪くなったんですよ」
お茶を給仕してくれた梅娜に、光柳と雲嵐は礼を告げた。
翠鈴の実家は山のふもとだ。そのせいで空は狭い。天の川の端は収束して山の頂へと届いているが。気分が悪くなるほどの星の多さは経験がない。
「星宿はむしろ、杷京くらいの明るさがあった方が見分けがつくな。それぞれの宮で灯籠がついているから、暗い星が紛れてしまうんだ」
「子供だけで夜を海で過ごすなど認められませんから。離宮の使用人たちも、朝まで簡易な天幕で寝ることになって。私は申し訳なかったですよ」
「何を言う、雲嵐。子供は好奇心あってこそ、だ」
まぁ、懐かしくはありましたよ。と、雲嵐は苦笑した。その笑みはとても柔和だ。
翠鈴は海を見たことはない。おそらくは桃莉公主も、ここにいる梅娜も南蕾も。
海に入らずとも、潮風で髪も肌もべたべたになることも。夜は波音が大きく聞こえることも。潮の香りは、海藻の匂いであることも。
波打ち際で濡れた足で浜辺を歩くと、足の裏も足の甲もびっしりと砂がついて、払ってもとれないことも。
知らぬことを教えてくれる光柳の話は新鮮で。
きっと疲れた皆を、くつろがせるために他愛のない話をしてくれているのだろうと、翠鈴は感じた。
「光柳さまは、波打ち際で海藻が足に絡みついて、泣いたことがおありなんですよ」
「あ、ずるいぞ。雲嵐。お前の恥ずかしい過去も明かしてやる」
光柳は、琥珀色の飴である松仁糖をつまんだ。
「タオリィも、あめたべたい」
「はいはい、仰せのままに。噛んではいけませんよ」
桃莉に松仁糖を与えながら、光柳が注意する。きっと過去に、硬い飴を噛んで痛い目に遭ったことがあるのだろう。
「私は確かに、びらびらした海藻で泣いたが。雲嵐は、巻貝だと思って拾ったら、中からヤドカリが出てきて泣いたじゃないか」
「覚えておりませんね」
雲嵐は、梅娜が給仕してくれたお茶を飲んでいる。
もう誰も、呂充儀の話をしない。彼女はまだ未央宮にいるというのに。
べったりと粘つくような充儀の存在が、今はもうこんなにも軽い。
蘭淑妃と光柳の心遣いが、気持ちを切り替えさせてくれた。
「おいしいお茶ですね。梅娜さま」
お茶をひとくち飲んだ翠鈴は、目を輝かせた。
「五色茶よ」
体までが清浄になりそうな。そして仄かに蜂蜜に似た甘さもある。そのことを告げると、蘭淑妃がうなずいた。
「そう。五色茶の冬茶は、蜂蜜の香りがするのよ」
不思議だ。蜂蜜を用いているわけでもないのに。芳香だけで、甘さすら感じるような気がする。
「本当においしいですね」
ようやく落ち着いたのか、南蕾が笑顔を浮かべた。
蘭淑妃は、隣に座った桃莉の頭を撫でながら、南蕾に向きなおった。
「今後のことを決めましょう。南蕾さん」
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