後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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九章 呂充儀

16、蘭淑妃の提案

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 今後のこと、と四夫人である淑妃から告げられて南蕾の顔色が悪くなった。
 さっき浮かべた笑みは、そのまま強ばってしまっている。
 まるで今すぐに、山の崖から飛び降りなければならないかのように。

「怖がらなくていいのよ。これはわたくしの提案ですから、辞退してくださってもいいの」

 敷物の上に座る蘭淑妃の背後に控えて、梅娜がうなずく。
 翠鈴は、この先の話の内容を察した。
 だが、南蕾は混乱しているようだ。無理もない。当たり前に続く呂充儀の侍女としての道が、突然断たれたのだから。

「南蕾さん。あなたには、ここに来てもらいたいの」
「え?」

 南蕾は、ぽかんとした表情を浮かべた。蘭淑妃の意味する内容が、頭の中に入っていかないようだ。
 耳が語句を拾っても、脳が意味を汲みとれない。

「そうね。はっきり言いましょう。この先は、わたくしの侍女として働いてほしいわ」

 短い悲鳴を、南蕾は発した。

「無理です。とんでもないことです」
「どうして? 悪い話ではないはずよ。今日これから文彗宮ぶんけいきゅうに戻っても、あなたに居場所はないわ。呂充儀は他の侍女を巻きこんで、あなたを悪者に仕立てあげるでしょうね」

 蘭淑妃はため息をつく。

「淑妃さまの言葉に従った方がいい。残念だが、人というのは共通の敵を見つけると強固に結束する。それは虐めという形で現れるんだ。しかも虐める側には大義名分がある。そして敵を攻撃すればするほど、楽しみを感じるものなんだよ」

 光柳の発言は重い。
 確かに、呂充儀が流産せぬようにと翠鈴は丁子のお茶を止めた。相手の体調を考えてのことだったが。それすらも、呂充儀は憎んだのだ。

「侍女の異動など聞かぬが。あちらは確かに解雇を告げた。ここにいる何人もが聞いている。ならば、後はあなたがどこへいこうが、呂充儀に口を挟む権利はない」
「ですが。私なんて。淑妃さまにはご迷惑ばかりおかけしているのに」

 南蕾は狼狽して、声がかすれている。今にも逃げ出したそうに、体が後退した。敷物が少しずれる。
 きっとこれまで南蕾は、呂充儀や侍女頭からちゃんと認められたことがないのだろう。
 誰よりも立ち働き、主のために動いていたのに。

 蘭淑妃が身を乗りだした。そして、脅える南蕾の手を、そっと握る。

「迷惑をかけられたのは、呂充儀によ。あなたにではないわ」

 春の風のように、穏やかな声音だ。蘭淑妃はただ事実を述べているだけなのに。南蕾にとっては、この上ない理解を示してくれている。

「わたくしは、あなたの頑張りを見ていました。文彗宮の他の侍女は、この未央宮に顔を出すこともありませんでしたね。きっと要領がいいのね」

 その「要領がいい」は褒め言葉じゃないですよね。そう言いたいのを、翠鈴は堪えた。

「でももうあなたは呂充儀の侍女ではありません。彼女が文彗宮へ戻るなら、準備は他の侍女がしなければならない。すべてあなたに押しつけていた仕事を、他の侍女たちがするのよ」
「あ……っ」

 言葉の代わりに、南蕾の瞳に涙が浮かんだ。
 これまできっと、いいように使われていたのだろう。

「すみません。泣いてばかりで」
「いいのよ。きっと文彗宮では、こうして涙を見せることもできずに、物陰で泣いていたのでしょう?」

 蘭淑妃の指摘は、どうやら当たっていたらしい。南蕾は無言でうなずいた。
 母にくっついていた桃莉公主が、じーっと南蕾を見つめていた。そして恐る恐るといった風に口を開いた。

「あのね、なかないで。これ、あげる」

 敷物の中央に置かれた器を、桃莉は両手で持ちあげる。

「さくさくだよ。おいしいの」

 器の中には、小さなパイが入っている。

「たべたら、げんきになるよ」

 ふだんは泥だらけの桃莉であるが。接することのない南蕾からすれば、雲の上の存在だ。
 さすがに断ることはできなかったようだ。南蕾は「いただきます」と、控えめな声で伝えてから酥をひとつ手にした。

「おいしい?」
「はい、とても」
「げんき、でた?」
「はい。ものすごく元気になりました」

「よかったぁ」と桃莉は満面の笑みを輝かせる。南蕾は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、やはりつられて笑顔になった。

「私は……誰よりも一生懸命に働けば、幸せになれるものだと思っていました」
「ふつうはそうね」

 蘭淑妃は碗を手にとった。少し冷めた五色茶を飲み干して、梅娜におかわりを注いでもらう。

「わたくしはよその宮のことは、詳しくはありません。皇后娘娘ファンホウニャンニャンのいらっしゃる寿華宮は、お邪魔させていただくことがあるので。まだ分かるのですけれど」

「侍女がどんなに頑張っても、懸命さを認めてくれる妃嬪ばかりではないのね」と、淑妃は寂しそうに微笑んだ。

 侍女には、仕える主にふさわしい品格が求められるが。主たる妃嬪にこそ、気高さや心の広さ、優しさが必要だ。
 そしてそれらの美徳は、生まれながらに備わっているものではない。
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