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九章 呂充儀
17、花園で
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春は夜明けが早い。宮女の宿舎の窗からも、容赦なく明るい光が射しこんでくる。
「まぶしい……」
瞼を閉じていても、視界が橙色で満たされる。
休日の翠鈴は、布団を上げて顔を隠した。すでに仕事を終えた由由が、部屋へ戻ってくる。
「もー、翠鈴ったら。休みだからって寝坊なんだから」
「ゆるして……昨日はさすがに、限界を超えたわ」
「あぁ、大変だったみたいね。でもすごいじゃない。陛下にお言葉をかけていただいたんでしょ。畏れ多いけど、一生に一度はそんな経験をしてみたいわぁ」
布団の隙間から翠鈴が覗くと、由由は目をきらきらと輝かせている。
「思い出したくない」
このまま布団とお友だちでいたい。外の世界は大変だし厳しいのだから。翠鈴は心からそう願った。
「そういえば呂充儀さま。まだ夜が明けきらぬうちに、文彗宮に帰ったわよ」
「そうなの?」
由由の報告があまりにも意外で。翠鈴は、布団をばさりとはねのけた。
「そんな暗いうちにお戻りになったの?」
「うん。見たことのない侍女が迎えにきてた。蘭淑妃はまだ眠ってらっしゃる時間だったから。別な日に、ご挨拶に来るのかなぁ」
「さぁ、どうかしら」
自分でも気づかぬうちに、翠鈴は棘のある声を発していた。
夜明け前を選んだのなら、誰にも見られぬようにだ。蘭淑妃への感謝の心があるならば、呂充儀は出立前に挨拶をしただろう。
「たぶん日を改めて、侍女頭が礼を述べに来ると思うわ」
起きてしまったものはしょうがない。翠鈴は寝台から立ち上がって、寝衣を脱いだ。
よく晴れているからだろうか。まだ日の昇らない早朝は、素肌に感じる空気がひんやりとしている。
朝食を終えた翠鈴は、後宮の奥にある花園へと向かった。
どうしてだろう。光柳と雲嵐がいるような気がしたのだ。会いたい、といった方がいいかもしれない。
花園では、すでに花海棠は散っていた。
うすくれないの世界は、今は失われ。午前の澄んだ陽射しが、若葉の緑を透かしている。
「約束してるわけでもないし。そもそも今日がお休みってわけでもないだろうし」
翠鈴の独り言に、鳥のさえずりが重なった。
朱色の柱の四阿に入り、座席に腰を下ろす。
この四阿にひとりきりで座るのは初めてかもしれない。
隣にいてほしい人は、今は仕事中だ。待っていても来るわけではない。
「ま、こんな時もあるよね」
これまでなら、休みがあればせっせと薬効のある草を集めていた。今も未央宮の庭の端では白三葉草が咲いている。煎じた液を、切れちゃった痔の出血に塗ると効くのだ。
復讐を終えて。お金とお茶で興味が占められていた自分の頭に、他のものが入りこんできて。それがどんどん大きくなって。
四阿の外を、白い蝶がふわふわと飛んでいる。
自分の体を蝶に乗せることができたなら。きっと書令史の部屋の前へと行くのだろう。
これまでの疲れが出たのだろうか。翠鈴は瞼が重くなってきた。
(そういえば、光柳さまと雲嵐さまが浜辺で野宿したことがあるっておっしゃってたっけ)
昼間だから、ちょっとくらい外で寝ても大丈夫かな。こんな奥まった花園には、めったに人も来ないし……。
思考がまばらになり、翠鈴は眠りに沈んでいった。
短い夢が泡のように浮かんでは、行方不明になる。
墨汁の香りがした。
まず気づいたのは匂いだった。次に音。さらさらと筆が走っている。そしてぬくもり。
(え? なに?)
翠鈴はがばっと上体を起こした。
「うわっ。急にどうした。危ないぞ」
「光柳さま、筆を落とさぬように」
目の前に光柳と雲嵐がいる。状況が理解できずに、翠鈴は瞬きをくり返した。
「え……っと、どういうことでしょうか」
「君の膝ほどには柔らかくはないが。固い枕よりはマシだと思うぞ」
「はい?」
これ以上は聞かない方がいいような気がする。けれど、ぴったりと膝をそろえて座っている光柳の体勢が、妙に気になるのも事実だ。
「この間、膝枕をしてくれただろう? そのお返しだ」
「それってつまり」
だから訊いちゃダメなんだって。翠鈴は自分に突っ込むが、もう遅い。
「私の膝は、寝心地がよかろう?」
笑顔の光柳が逆光になる。淡い影に沈んでいるのが幸いした。はっきりと日光に照らされていたら。きっと翠鈴の目は神々しさにやられていたかもしれない。
「まぶしい……」
瞼を閉じていても、視界が橙色で満たされる。
休日の翠鈴は、布団を上げて顔を隠した。すでに仕事を終えた由由が、部屋へ戻ってくる。
「もー、翠鈴ったら。休みだからって寝坊なんだから」
「ゆるして……昨日はさすがに、限界を超えたわ」
「あぁ、大変だったみたいね。でもすごいじゃない。陛下にお言葉をかけていただいたんでしょ。畏れ多いけど、一生に一度はそんな経験をしてみたいわぁ」
布団の隙間から翠鈴が覗くと、由由は目をきらきらと輝かせている。
「思い出したくない」
このまま布団とお友だちでいたい。外の世界は大変だし厳しいのだから。翠鈴は心からそう願った。
「そういえば呂充儀さま。まだ夜が明けきらぬうちに、文彗宮に帰ったわよ」
「そうなの?」
由由の報告があまりにも意外で。翠鈴は、布団をばさりとはねのけた。
「そんな暗いうちにお戻りになったの?」
「うん。見たことのない侍女が迎えにきてた。蘭淑妃はまだ眠ってらっしゃる時間だったから。別な日に、ご挨拶に来るのかなぁ」
「さぁ、どうかしら」
自分でも気づかぬうちに、翠鈴は棘のある声を発していた。
夜明け前を選んだのなら、誰にも見られぬようにだ。蘭淑妃への感謝の心があるならば、呂充儀は出立前に挨拶をしただろう。
「たぶん日を改めて、侍女頭が礼を述べに来ると思うわ」
起きてしまったものはしょうがない。翠鈴は寝台から立ち上がって、寝衣を脱いだ。
よく晴れているからだろうか。まだ日の昇らない早朝は、素肌に感じる空気がひんやりとしている。
朝食を終えた翠鈴は、後宮の奥にある花園へと向かった。
どうしてだろう。光柳と雲嵐がいるような気がしたのだ。会いたい、といった方がいいかもしれない。
花園では、すでに花海棠は散っていた。
うすくれないの世界は、今は失われ。午前の澄んだ陽射しが、若葉の緑を透かしている。
「約束してるわけでもないし。そもそも今日がお休みってわけでもないだろうし」
翠鈴の独り言に、鳥のさえずりが重なった。
朱色の柱の四阿に入り、座席に腰を下ろす。
この四阿にひとりきりで座るのは初めてかもしれない。
隣にいてほしい人は、今は仕事中だ。待っていても来るわけではない。
「ま、こんな時もあるよね」
これまでなら、休みがあればせっせと薬効のある草を集めていた。今も未央宮の庭の端では白三葉草が咲いている。煎じた液を、切れちゃった痔の出血に塗ると効くのだ。
復讐を終えて。お金とお茶で興味が占められていた自分の頭に、他のものが入りこんできて。それがどんどん大きくなって。
四阿の外を、白い蝶がふわふわと飛んでいる。
自分の体を蝶に乗せることができたなら。きっと書令史の部屋の前へと行くのだろう。
これまでの疲れが出たのだろうか。翠鈴は瞼が重くなってきた。
(そういえば、光柳さまと雲嵐さまが浜辺で野宿したことがあるっておっしゃってたっけ)
昼間だから、ちょっとくらい外で寝ても大丈夫かな。こんな奥まった花園には、めったに人も来ないし……。
思考がまばらになり、翠鈴は眠りに沈んでいった。
短い夢が泡のように浮かんでは、行方不明になる。
墨汁の香りがした。
まず気づいたのは匂いだった。次に音。さらさらと筆が走っている。そしてぬくもり。
(え? なに?)
翠鈴はがばっと上体を起こした。
「うわっ。急にどうした。危ないぞ」
「光柳さま、筆を落とさぬように」
目の前に光柳と雲嵐がいる。状況が理解できずに、翠鈴は瞬きをくり返した。
「え……っと、どういうことでしょうか」
「君の膝ほどには柔らかくはないが。固い枕よりはマシだと思うぞ」
「はい?」
これ以上は聞かない方がいいような気がする。けれど、ぴったりと膝をそろえて座っている光柳の体勢が、妙に気になるのも事実だ。
「この間、膝枕をしてくれただろう? そのお返しだ」
「それってつまり」
だから訊いちゃダメなんだって。翠鈴は自分に突っ込むが、もう遅い。
「私の膝は、寝心地がよかろう?」
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