後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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十章 青い蓮

17、皇后娘娘

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 光柳にまっすぐな愛情を向けられると、冷静でいられなくなる。

「さぁ、急ぎましょう」

 翠鈴は蘭淑妃たちを急かして、寿華宮の門をくぐった。耳元に柳絮を飾ったままで。

 赤子が生まれてひと月近く。皇后陛下はもう床を離れているという。
 庶民のように、子供の世話を自分でする必要はないが。やはり授乳の際は夜中でも起きねばならない。乳母を使うこともできるが、出産後に乳をやらねば胸が張ってひどく痛むそうだ。

「胸がね、ものすごく熱くて硬くなるのよ。苦しくて寝るのもつらいわね。桃莉はあまり母乳を飲まない子だったから。余った分は搾らないといけなくて。これがまた痛いのなんのって」

 桃莉が生まれた頃の大変さを思い出したのだろう。蘭淑妃が肩を落とした。

「そうなんですか。知識としては分かるんですが」

 子を持ったことのない翠鈴は、女性の柔らかな胸がそこまで硬くなる想像がつかない。

「梅娜に手巾てぬぐいを水で濡らしてもらってね。冷やしたものだわ」
「あの時は、皆が睡眠不足でしたね」

 梅娜が頷きながら応じた。

 ◇◇◇

「よく来てくれましたね。阿春アーチュン

 室に通されると、皇后は満面の笑顔で蘭淑妃を迎えた。
 翠鈴と梅娜は、淑妃の背後に控えて揖礼ゆうれいする。

 以前、翠鈴が訪れた時は皇后の寝室に通されたので気づかなかったが、この寿華宮は未央宮よりも天井が高い。しかも応接のための部屋に下げられた宮灯は大きく、数も多い。

(寿華宮の司燈の宮女は、仕事が大変そうだな)

 皇后の宮だから部屋も多いし、回廊も長い。それだけ管理する灯籠の数も増えるということだ。
 さすがに司燈の宮女の数も多いだろうが。灯籠の手入れや桐油とうゆを入れる手間も増える。

 司燈のなかでも、灯籠や宮灯の管理、それぞれの殿舎に必要な油の量を計算して分配する者は、下級ではあるが女官扱いになる。
 読み書きや計算が必要になるからだ。

 桃莉と潔華は、外で遊んでいるのか姿は見えない。

(呂充儀から渡された夏白菊を飲んでいらした頃よりも、ずいぶんとお元気そうだわ)

 蘭淑妃と楽しそうに話す皇后を眺めて、翠鈴はほっとした。だから油断していた。
 まさか自分のことをふたりが話しているとは、夢にも思わなかったのだ。
 寿華宮の司燈のことを考えていたせいだ。

「いいですね、翠鈴」
「はい?」

 突然、蘭淑妃に声をかけられて翠鈴は我に返った。見れば、隣に立つ梅娜が顔を強ばらせている。
 違う。翠鈴に話しかけたのは、蘭淑妃ではない。皇后だ。
「ふふ」と、皇后は笑みをこぼした。

「たいした度胸ですね」

「失礼いたしました」と、慌てて翠鈴は頭を下げた。

「いいのですよ。こうべを上げなさい。あなたの豪胆なところが気に入ったのですから」

 胸の前で手を重ねたままで、翠鈴は顔を上げた。

「大事なことですから、もう一度言いますよ。今後は、わたくしのことを『皇后娘娘ファンホウニャンニャン』とお呼びなさい」

 え? 翠鈴は瞠目した。
 通常、皇后や女神に対しての敬称は「娘娘」だ。だが、皇后は特別な人にしか呼ばせない。
 呂充儀に対しては「皇后娘娘」と呼びかけたことを叱責していた。それほどに特別な呼称なのだ。
 そう。翠鈴が知る限り、そう呼ぶことを許されているのは、蘭淑妃だけだ。

「夏白菊のお茶は毒ではありませんでしたが。翠鈴、あなたのおかげでわたくしは大事に至らずに、無事に出産できました」

 皇后は、側に控える侍女に手で指示を出した。一礼して、侍女が黒い漆塗りの箱を持ってくる。
 受け取った箱を、皇后は翠鈴に差しだした。

「心ばかりの褒美です。受けとってください」

「そういう訳には参りません。わたしは褒美欲しさに、皇后陛下をお救いしたわけではないのです」
「皇后娘娘ですよ?」

 皇后が、翠鈴を優しくたしなめる。だが、褒賞を辞退することなど想定済みなのだろう。指摘する部分がそもそも違う。

「翠鈴。あなたは光柳と昵懇じっこんの間柄だそうですね。陛下から聞いていますよ」
「畏れ多いことです」

 まさか自分の話題が、皇帝と皇后の間で交わされるなんて。想像もしていなかった。

「光柳は、あなたが来てから変わりました。かつては優男で軽薄で皮肉屋で。詩作に関しても真剣であるのに、己が求める作風ではないからと、どこか拗ねたようでした」

 皇后が語る光柳の人物像が、翠鈴も知るかつての彼だったので。つい笑いそうになってしまった。
 実際は緊張で、頰をうまく動かすことができなかったのだが。

「でも今は違う。一人で頑張り続けるあなたを、守りたいと願っているようですね。側にいて、あなたを支えたいのですよ。先ほどこの寿華宮に来た光柳が、あなたのことを話していました。彼の口から女性の名が出るのは初めてのことです」

 皇后は蓋を開いた。中に入っている紐を持ちあげる。紐の先には白い翡翠がついていた。しっとりと濡れた氷のような、円形の翡翠だ。外側に曲がった角と鱗の生えた長い体をもつ動物の意匠が彫られている。
 龍に似た斗牛とぎゅうだ。室内にいる皆が息を呑んだ。

 龍は皇帝の象徴である。ゆえに、龍に酷似した飛魚ひぎょ斗牛とぎゅうが、皇帝から臣下に下賜されることがある。
 翠鈴は床に膝をついた。そして深く頭を下げる。

「説明せずとも、聡いあなたなら分かるでしょう。陛下から下賜された佩玉があれば、後宮を出ても暮らしやすくなります。光柳は、陛下からは龍の佩玉を受けとりはしないでしょうから」

 ですから、これはあなたが持っていなさい、と皇后は翠鈴に顔を上げさせた。

「ありがたく頂戴いたします。感謝いたします。皇后娘娘」

 震える声で翠鈴は述べた。
 ふっと皇后の表情が緩む。

「そう、皇后娘娘ですよ。よく言えましたね」

 緑の色を映した初夏の風に似た、爽やかで軽やかな声だった。
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